第5話 如月 叶

彼女の目尻に溜まった涙は決壊し、それらはやがて頬を伝っていく。

彼女の目線は未だに宙を舞っていた。

————沈黙

それと彼女のすすり泣く声だけがこの部屋の中を圧迫していた。

彼女が背を向ける。暗に出ていけと示しているらしい。

けれども僕はこの部屋から出ようとしなかった。いや違う、出れなかった。

何かが僕の中を渦巻いている。それだけが分かった。


ーー如月 叶ーー


私は目尻に涙が溜まっていることに気づいた。

なんで涙が出ているんだろう。

今まで頑張ってを心の奥底に押さえ込んでいた努力が否定されたような気がしてさらに涙が溢れてきてしまう。

そしてこんな悲劇のヒロインぶっている自分にもむしゃくしゃして、もっともっと涙が出てきて、最終的に両頬に涙が伝ってしまった。


その時、ふと思い出した。もうひとりこの部屋にいるということを。

私は泣き顔を見られないように焦って彼に背を向ける。

もしもこれで彼が今までの男みたいに「大丈夫?」とか「何かあったの?」だとかあたかも自分はあなたを救えますよ、みたいな体で喋りかけてきたらその時点でもう二度と口を利きたくなかった。


でも彼は違った。

ひたすらに黙り込んでいた。

本当に長い時間。

五分ほど経っただろうか。

私は涙が止まったのでそれを拭い、振り向く。もしかしたら忍び足で部屋から抜け出しているかもなとも思った。

でも、そこには彼がいた。

やっぱり。なんとなくそんな気がしていた私は面白おかしくて苦笑した。


ーー能星 考ーー


僕は何をしているんだろう。

ひたすらに黙り込んですすり泣く彼女の背中を見ている。

彼女からしたら迷惑千万なのは分かっているけれど、それでもこの部屋から出ることは出来そうになかった。


五分ほど経って、彼女は泣き止んだようで、裾で涙を拭い、振り返る。

彼女の目はついさっき泣いたばかりで赤く腫れていた。

彼女は僕を見るとクスリと笑い、口元に手をあてる。

僕は嫌な顔をされると思っていたので彼女が笑っていて困惑してしまった。


「能星さんって相当頭がおかしいんですね」

彼女が急にそんなことを言ってきて僕は耳まで真っ赤になった。

当たり前だけどさっきまでの愚行は彼女に知られている。

それがひどく恥ずかしかった。


「すみません、ずっと部屋に居座っていて、さっさと出た方がよかったですね」

僕は羞恥を隠すためにも早足でドアまで移動する。


「待って」


彼女の声が僕の耳に届く。

振り返ると小さく微笑んでいる彼女がいた。

泣いたり、笑ったり、第一印象より何倍も感情豊かな人だと思った。


「ありがとう」


「はい?」


「さっき早乙女さんが言ってたでしょう、共同生活はお礼を言い合うものだって」


「さっきのやり取り聞こえてたんですか」


「それはもう、ばっちり聞こえましたよ」


「というか、『ありがとう』ってなんですか、僕何にもしてないですよ」


「なんでも、やればいいってものじゃないの、やらないことがその人の助けになることもあるんです」


僕に言い聞かせるように彼女が言う。

ここで僕は彼女の口調が少し柔らかくなったことに気づいた。

それと同時に僕が敬語のままなのがとても恥ずかしくて、辛い過去を少しだけ思い出した。


「じゃあ、僕は一階まで戻りますね」


「はい」

その声を背に受けて僕は階段を降りた。

結局あの質問の答えはうやむやになってしまったけれど、少しだけ彼女との距離を縮めることができたような気がする。


一階のリビングでは早乙女さんがスマホをいじっていた。

彼女は丈の短いジーンズのポッケにスマホをしまい込んで顔を上げる。


「ふふーん、能星くん、どうだった?」


「どうって言われましても」


「いや~つれないな~、ってか戻ってくるの随分遅かったけどもしかして二人って既にデキてるの?あのアタシの冗談もしかして本当だった?」

彼女が言っているのはあの玄関での一件だろう。


「? デキてるってなんですか?」

僕の脳みその中をひっくり返しても出てこなそうな語彙だった。


「あ~、叶ちゃんと能星くんが付き合ってるのかなあって」


突然ぶっ飛んだ事を言われて頬の体温が上がっているような気がしたけれど、僕は極めて冷静なそぶりをして話を繋ぐ。

「あ~、デキてるってそういう事ですか」


「それで実際のところは?」


「いやそんな余地ないですよ」


「い~や、これはデキてるね」


「いや、本当にデキてないですから」

僕は少し怒気を込めて答える。


「ごめんごめん、でも二人がデキてたら全て納得いったんだけどなあ」

彼女は片手で謝るポーズを取った後に思案顔をする。


「どういうことです?」


「二人がデキてたら叶ちゃん自身が本当に結婚したいって思ってるわけだから許嫁がふたりいても許嫁関係解消しないでしょ?」


「あ~……確かにそうですね」

確かに彼女の言う通りなのかもしれない。

でもここで一つ疑問が浮かんだ。


「だったら早乙女さんは何で許嫁関係解消してないんですか?」


彼女は僕の質問に対して困ったような表情をして襟足を掻いた。

彼女の目線と僕の目線は交差しなくなる。


「えぇ……それ聞いちゃう?あ~まあ強いて言うなら親のためかなあ」


許嫁関係なんてものは基本的に親のエゴ以外に考えられないけど、それが彼女の答えらしい。


だったら僕は?

僕の父は仕事の話を全くといっていいほどしなかったから、父の仕事はわからないけれど後を継ぐような仕事ではないと思う。

もしそうだったら跡継ぎの話をされるだろうから。

僕の母もそうだ。

急に許嫁の話を持ってきて、こっち側のメリットは全くもってないように感じた。

でもあの母のことだし、早乙女さんの両親が困っているから許嫁関係を結んだ。とかただそれだけの理由でも納得できるような気がする。


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