氷点下で

鍵崎佐吉

神の山

 肌を刺すような冷気が喉の奥の熱まで奪っていく。それでも慣れない運動を強いられた体は貪欲に呼吸を繰り返す。終わりの見えない負の連鎖はやがて私の命まで蝕んでしまうことだろう。それでもただ前へ、それだけを考えていた。

 その時、先を行く彼の足がふと止まった。こちらを振り返った彼の顔には確かに焦燥と疲労が浮かんでいた。

「少し休憩しよう」

「でも」

「ここからは道もさらに険しくなる。万全の状態で挑もう」

 反論するほどの余力もなく、私はただうなずく。多少休んだところで万全などには程遠い。仮にそう言えるだけの準備を整えたところで、私にこの山を越えられるかどうか。しかしそんなことはさして重要ではない。彼が私を気遣って足を止めてくれたこと、私にとってはその事実以外は何の価値も持たない。だから私はそんな彼の気持ちに応えなければならないのだ。

「ありがとう」

 絞り出すように私がそう言うと、彼は少しだけ微笑んでくれた。


 この山は不死鳥の住まう神の山なのだと昔から言われていた。だから巡礼用の山道はあるにはあるのだが、麓の町に住まう人々は祭りの折などにしかこの山には登ろうとしない。聖域であるこの山では狩りなど禁じられているし、何よりこのあたりでは一番高くて険しい山だからだ。

 私たちが追われる身となった時、与えられた選択肢は数えるほどしかなかった。山に囲まれた盆地の町から逃げ出すには街道を通るか山を越えるかしかない。当然それを見越して街道では父上の手の者が監視の目を光らせているだろう。山を越えるにしても一切整備されていない野山を誰にも気づかれることなく登り切るのは至難の業だ。だから私はこの山を登ろうと彼に提案した。ここなら他の山より環境が整っているし、町の人々もみだりに近づこうとはしないからだ。彼は何か言いたげな様子ではあったが、最終的には私の提案に賛同してくれた。きっと彼も気づいていたんだろう。これは逃避行であると同時に、心中になり得る危険な行為でもあるということに。それでも私たちはこの道を行くしかなかったのだ。


 腰掛けた岩は湿っているわけでもないのにひんやりと冷たかった。半日ほどかけてようやく山の中腹あたりまで来られただろうか。既に体力は限界が近かったが今更引き返すことはできない。けれど不思議と不安も後悔も感じなかった。

 澄み切った山の空気が火照った体を緩やかに静めていく。これからさらに登っていけばより寒さは増していくことだろう。そうすればこうして足を止めることすら命取りになる。ろくな装備もない私たちが無休でこの山を越えるなど、もはや無謀というほかなかった。死を覚悟しているのか、と問われれば肯定も否定もできない。ただ彼と二人でいる間だけは無根拠な全能感に浸されて、あらゆる恐怖を忘れ去ることができた。

「……こんなこと、言うべきじゃないかもしれないけど」

 苔の生えた地面に座り込んだ彼が不意に口を開く。私はただ沈黙によって彼の言葉を促す。ここまで来て泣き言を言うような彼でないことはわかっていた。だから私はただ彼の言葉を待った。

「今ならまだ一時の気の迷いということで済まされるかもしれない。あの人だって大事な一人娘を必要以上に苛むようなことはしないだろう。だから——」

「でも、あなたはどうするの?」

「僕のことはいい。どこか遠い場所に行って、そこで第二の人生を始めるさ」

「……私以外の誰かと?」

「それは……」

 確かに今戻れば私は許されるかもしれない。けれど彼は父上に殺されてしまったっておかしくはないのだ。もちろん領主といっても自由に領民を殺めていいわけではないが、父上を敵に回した時点で既に彼の居場所は町のどこにもない。

「二人一緒じゃないと意味がないの。私が邪魔だというのなら、ここで殺して。恨みはしないわ」

 随分卑怯な言い方をしているという自覚はあった。けれどこれは私の本心だった。彼は少し悲しそうな目をして、けれどまっすぐ私を見つめてひざまずいた。かじかんだ手に彼の唇が触れる。この小さな温もりだけで、私は救われてしまうのだった。

「あなたが望むのなら、地獄へだって共に参りましょう」

 どこか遠い所から鳥の鳴き声が聞こえる。私たちは顔を見合わせて、どちらともなく笑いあった。


 彼のことを愛してしまえばいつかはこうなってしまう、ということは頭の片隅ではきちんと理解していたつもりだ。けれど恋というのはそんな都合はまったく無視して燃え上がってしまうものでもある。父上が紹介する家柄や見てくればかり気にする男たちと違って、彼はとても純朴で自分自身のために生きているように思えた。

 そんな彼の人生を他でもない私が滅茶苦茶にしたのだ。決して叶うことはないと知りながら私は自分の願いを彼にぶちまけ、彼は柔らかい微笑みだけを返してここまで共に歩いてきてくれた。いずれ迎えるであろう凍えるような結末よりも、その過程にこそ私は意味を見出し縋りついた。檻の外の自由を望んだところでずっと甘やかされて育った私みたいな人間が生きていけるはずもない。だったらせめて、この身を焦がして灰にするほどの恋をしてみたかった。きっと不死鳥も生焼けでは生まれ変われないだろうから。


 白一色に染め上げられた地面を一歩ずつ踏みしめてゆく。随分前から方向感覚は曖昧で、頼れるものは前を行く彼の背中だけだ。もし彼が道を誤っているのなら私たちはそう遠くない内にここで生涯を終えることになるだろう。私はそれで構わなかった。そう思ったら踏み出した一歩が急に無意味なものに感じられて、気づいたら私は白い絨毯のような深雪の上に倒れこんでいた。命を凍えさせるようなその冷たさも今は心地よく感じられた。

 ここで私が死んだら彼はどうするのだろうか。私と一緒にこのまま死んでくれるだろうか。それとも自分だけ山を越えて一人生き延びるのだろうか。どちらにせよ私はその結末を見届けられない。きっとそれでいいのだと思う。それが叶わぬ幸せを望んだ私への罰であり救いでもあるのだから。霞む視界に彼の顔が映る。今にも泣き出しそうな、子どものような顔をしていた。どうせなら最期に見るあなたの顔は笑顔が良かったのだけれど。そんなささやかな願いももう叶いそうになかった。


 以前この山を訪れた時はお爺様の葬儀のためだった。亡骸を山の頂に捧げれば三日目の夜に不死鳥が飛来してその肉を喰らい、代わりに魂を天上まで連れていってくれるのだそうだ。たとえ不死鳥といえども自分の亡骸を鳥に食べられるなんて想像したくもなかったが、それがしきたりなのだと言われれば私に抗う術はない。結局私は山を半分も登らない内に歩けなくなってしまったので、そこでお爺様の棺とはお別れした。お爺様は父上にはとても厳しかったようだけどその反動か孫の私には底抜けに甘かったので、子どもの頃は父上よりもお爺様に懐いていたくらいだった。だからせめてその最期くらいは見届けようと、三日目の晩はずっと窓に張り付いて山の頂を眺めていた。夜明けも近くなり私がうたた寝を繰り返していたその時、頂の近くでわずかに星が動いたように見えた。それは眠気が引き起こしたただの幻覚だったのかもしれない。後で聞いた話によるとお爺様の棺は血の跡を残してすっかり空になっていたそうだ。どうせカラスや野犬にでも食われたのだろうと言う人もいたが、私はお爺様は不死鳥と共に天上へと旅立ったのだと信じたかった。


 目を開ければそこにあの日見た星と同じ輝きがあった。徐々に遠ざかっていくその光はやがて朝焼けの中に溶けて消えていった。ゆっくりと体を起こせば自分が祭壇の上に横たわっていたことに気づく。視界を遮るものは何もなく、彼が山頂まで連れてきてくれたのだと悟った。すぐ横には彼がうずくまるようにして眠っている。

 きっと私を見かねたお爺様が天上から使いを寄越してくださったのだ。少なくとも私はそう信じていたかった。吐いた息が風に流され、未だ見ぬ地平の彼方を指し示す。私は氷像のように固まった彼の頬を撫でながら呼びかける。

「とてもきれいな朝よ。お願い、目を覚まして」

 ゆっくりと開かれた彼の目が私を捉える。凍り付いていたその表情が雪解けを迎えるように少しずつ崩れていく。私、ちゃんと笑えているだろうか。凍てつく神の山の頂で、愛し合う二人は互いの温もりを確かめ合った。




 故郷を捨てた私たちはもうあの山には戻れない。それでも私たちはきっと語り継ぐだろう。神の山の頂には不死鳥が住まい、死者には祝福を、生者には救いを与えてくれる、と。

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氷点下で 鍵崎佐吉 @gizagiza

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