2. フライパン
ポリ袋の口を結ぶ。部屋の隅にはゴミでいっぱいの袋が山になっている。
ツンと腐臭を放つそこへと、目を背けながら、手に抱えたゴミ袋を放った。
収集車の音がしても外に出る気になれなくて、いつしか曜日感覚もなくなった。早く捨てるべきものたちが、何も出来ないままにただ積みあがっていく。
ゴミ山から視線を外すと、その先にはキッチンがある。汚れた食器や空のレトルトパウチや空き缶が、今にもシンクからあふれそうになっている。
そんなシンクの山のいちばん上から、フライパンの柄がのぞいていた。
わたしのお気に入りだったそれは、もうずっと使われていない。あのフライパンで色々な料理を作った。今となっては、遠い昔のことのようだ。
そういえば一度だけ、あなたがあのフライパンを握ったことがあった。
とたんに、あの日の光景が浮かんでくる。じゅうじゅうとバターの溶ける音がする。台所にはあなたの背中が見える。
わたしたちは二人で家事を分担していた。食事と掃除はわたし、洗濯とゴミ出しはあなた。
その日もわたしは、朝食を作るはずだった。なのにどうしても起き出すことができなかった。連日遅くまで仕事をしていて、疲れがたまっていた。なんとか起き上がれたはいいものの、ふらふらのままでダイニングのテーブルに突っ伏してしまう。頭が重くてぐったりとしていた私に、あなたはホットミルクのマグを差し出した。
「今日はこっちで作るよ。任せて」
あなたはいつも「料理は苦手なんだ」とこぼしていた。大丈夫だろうか? と思ったけれど、それよりも眠気がひどかった。わたしはぼうっとしながら、キッチンに立つあなたの後ろ姿を見ていた。
「出来たよ。ほら起きて」
声を掛けられ気づくと、目の前にはホットケーキの皿があった。
バターの香りがふわりと漂う。ただ、すこしつぶれてしまっているような気もした。
食卓に向かい合って、わたしたちはホットケーキを一口食べた。
……あんまりおいしくない。生地がぼそぼそしていて、固くなっている。これはたぶん、失敗だ。
黙ってしまった私を見て、あなたはばつの悪そうに言う。
「ごめん、がんばって作ったんだけどな」
「いいよ、気にしないで」
シロップをたくさんかけて、一気に口に押し込む。こうすれば、食べられなくもなかった。
あなたは申し訳なさそうに、失敗作のホットケーキを少しづつ口に運んでいる。その様子がなんともしおらしくて、わたしは笑ってしまった。
「じゃあさ、今度は一緒につくろう」
そう持ちかけると、あなたはなおもこちらをうかがうような目をしている。
「大丈夫だって。次は上手くいくって」
しきりに励ますと、やっと少し表情が緩んだ。
今度休みが取れたら、協力してとっておきの朝食を作ろう。バターたっぷりのトーストに焼きたてのベーコンエッグ。サラダも作ろう、オムレツもいいね。口々にそう約束しながら、ふたり並んで食器を洗った。
結局、その日が来ることは無かった。
目の前の台所は薄暗く、あなたの姿ももう見えない。シンクには汚れた食器類が積み上がっている。
食器の山からフライパンを取り上げる。それを見て思い出したのは、わたしが今まで作ってきたどの料理でもなくて、たった一度あなたが作ってくれた、失敗ホットケーキの味だった。
このフライパンも、もう使うことはないだろう。そっと食器の上に戻して、台所に背を向けた。
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