天界では脱走が起きていた


 ミリアムの体を乗っ取った魔族が魔王によって倒された時刻、一人天界に戻り現神に状況報告をと神殿の最上部にある神の執務室に訪れたミカエルは、目の前で繰り広げられる光景に溜め息を吐きたくなった。厳密に言うと小さな溜め息は吐いている。

 大理石で作られた執務机の下に隠れた現神ヨハネスの腕を引っ張り、外へ引き出そうとするのはヨハネスの父アンドリュー。肩まである銀髪を後ろに流し、意地でも外に出ないと踏ん張るヨハネスを引っ張るアンドリューも意地になっていそうだ。

 メガネがずり落ちそうになりながらも決して諦めない。

 ミカエルは状況報告をして早く人間界に戻りたいのに、これでは何時間も待ちぼうけを食らう。



「アンドリュー様」

「うるさいですよミカエル。ヨハネスを引っ張り出すまで黙っていなさい」

「……」



 同じやり取りをこれで三度目。



「いーやー! 絶対に嫌だ!! ぼくもうやだ!! ネルヴァ伯父さんが見つからないなら父さんが神の座に就けばいいじゃないか!!」

「我儘を言うなと何度言ったら分かる!? お前が兄上の次の神になると生まれた時から決まっているんだ。つべこべ言わず、溜まった仕事を片付けるんだ!」

「やだって言ってんだろう! なんで、なんでぼくだけこんな目に遭わないといけないの!」

「ヨハネス!」

「うわああああああああん!!!」



 今年で二十歳となるになるひよっこもひよっこに天使を従い、人間を守る重役に就かせるのは時期尚早にも程がある。けれど先代神ネルヴァが神の座をヨハネスに引き渡すと正式な手続きをしてしまった。

 ヨハネスも正式に引き継いでしまった。

 今更嫌だやりたくないで神の座は降りれない。


 アンドリュー夫妻にとってはたった一人の息子、天界側からすると漸く誕生した次代の神となる男の子だからと非常に甘やかした。

 赤ん坊の頃はネルヴァやヴィル、イヴも可愛がっていた。しかし成長にするにつれ、周囲に甘やかされて育ったヨハネスは我儘で傲慢な思考を持った。


 ある言葉をヴィルに掛けたせいでネルヴァの怒りを買った。ヨハネスやアンドリューはそれを知らない。

 ヴィルやイヴがヨハネスを見捨てた原因でもある。



「ぼくじゃなくてもヴィル叔父さんやイヴ叔父さんがいるじゃないか! 父さんが駄目ならあの二人がしたらいいじゃないか! 大体、二人は父さんより強いんでしょう? 僕じゃなくてもネルヴァ伯父さんじゃなくても父さんより強い神族が神の座に就けばいい!!」

「ヨハネス! いい加減にしろ!」



 息子を外へ引っ張り出そうとするアンドリューの相貌が見る見るうちに怒りに染まっていく。下の弟二人と比べて神力が弱いのは彼にとって大きな劣等感となっているのに、そうとは知らないヨハネスは何度でも叫び続けた。

 一旦出直そうと考えるも、このままでは親子喧嘩に発展してしまう可能性がある。ヨハネスは思考が幼くても強い神力を持つ、故にヴィルは幼児化してしまった。アンドリューと争えば力で言うとヨハネスが勝っても、力の使い方はアンドリューが上。二人とも無傷では済まない。天界での争いはもう懲り懲りで、オロオロしているだけの補佐官に期待しても無駄と悟ったミカエルは机の下を覗いた。



「ヨハネス様、どうか出て来てください。貴方への報告が終わらないと私はヴィル様の許へ戻れません」

「じゃあぼくも行く! ぼくもヴィル叔父さんとミカエルと人間界で暮らす!! 連れて行くなら出る!!」

「ヨハネス……!!」



 断固として神の仕事をしたくない意思を貫くヨハネスの人間界へ連れて行け宣言。ここで使われるとは思いもしなかった。アンドリューから漂う怒りのオーラ。本格的に考えないと拙い。ヨハネスを仕事に就かせ、アンドリューを落ち着かせる方法はないかとミカエルはフル回転で思考を巡らせた。

 相手がヴィルやイヴだったら、好物のスイーツや好きな昼寝を提供すれば言う事を聞いてくれた。ヨハネスの場合は抑々神の仕事をしたくない。好物で釣ろうが好きな事で釣ろうが効果は薄い。

 他に手段がないなら望み薄の方法でヨハネスを懐柔する作戦に出ようとしたミカエル。だったが、我慢の限界が来たヨハネスが力を放出してアンドリューとミカエルを吹き飛ばした。咄嗟に受け身を取ったミカエルは多少の痛みで済んだものの、もろに壁に激突したアンドリューは呻き声を上げて気絶した。



「アンドリュー様!」



 オロオロしてばかりの側近がアンドリューに駆け寄り、頭から血を流しているのを見て卒倒した。免疫が無さすぎると怒鳴ると机の下から出て来たヨハネスは外へ逃げた。アンドリューをすぐに医務室へ運ぶよう側近に命じたミカエルはすぐさま追い掛けた。

 足の速さだけは異常に速いのが一族の特徴なのか。ネルヴァもヴィルもイヴも逃げ足だけは速かった。ヨハネスもそうである。ただ走っているだけではあっという間に距離を開けられ、魔法を使って捕らえようにも攻撃は放てず、拘束しようにも動きが速くて捕らえられない。

 騒ぎを聞き付けた熾天使の一人ウリエルも交ざってヨハネスを追うも攻撃魔法が使えないのが痛手となり距離を大きく開けられた。



「こうなっては実力行使でヨハネス様を捕まえるしか方法はありませんな」

「馬鹿を言うな! 神に怪我を負わせる気か」

「嘗てヴィル様に攻撃魔法を使って捕らえた貴方が仰いますか」

「あれは先々代の神のご命令。ヴィル様は神ではなく、神の一族。間違えるな」



 ヴィルの熾天使嫌いは天界ではとても有名で、嫌われている熾天使達もヴィルと和解をするつもりはない。あれは飽くまでも神の命令で実行しただけで我々は間違っていないと。

 傲慢な物言いにキレたのはネルヴァ。当時の神であった父と妻である母、そして熾天使に瀕死の重傷を負わせた。熾天使の場合はヴィルによって人間界に捨てられた。魔界でないだけ有難く思えとはヴィルの言葉。

 年月が経っても熾天使の考えは変わらない。実力行使で行こうと考えを改めるミカエルと無傷で捕らえるのが重要だと譲らないウリエル。二人が言葉の争いを続けながら追う内に人間界へ続く門の間へ到達した。

 大きな扉をヨハネスが開けている。門番はどうしたと探せば……壁に埋まっていた。速度を上げてヨハネスの許へ駆けたウリエル。


 しかし――



「ぼくはこれ以上、大人に振り回されるのは嫌だ!! 小さい頃から勉強漬けで遊んだらすごく怒られて……もう沢山だ!!」

「ヨハネス様!!」



 開けた扉の先にヨハネスが飛び込んだと同時に扉は一瞬にして閉ざされた。向こう側から聞こえた鍵の閉まる音に二人は顔を青褪めた。人間界へ続く扉を外側から鍵を掛けたのだ。こうなると天使達は人間界へ行けなくなり、人間界にいる天使達も鍵を持つヨハネスがいないと天界に戻れなくなった。



「な、なんということだ……」



 呆然とするウリエルを後目に、即来た道を戻りアンドリューが運ばれたであろう医務室へ駆けた。手当をされてベッドに寝かされているアンドリューはまだ意識を取り戻していない。

 付き添っている天使にアンドリューが目覚め次第、ヨハネスが人間界への扉に鍵を掛けた事を伝えるよう告げた。


 医務室を出たミカエルは己の部屋に向かい、ヴィルへの連絡手段をどうするかと至急模索する方へ動いた。



「なまじ力が強いばかりに……もしもヨハネス様がヴィル様の所に行って、癇癪を起こしたら今のヴィル様では太刀打ちが困難だ……」





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