第80話 「生きる」は足し算より引き算

 物質世界に生きていると、物が増えます。

 「断捨離」と言って物を手放す人もいるようですが、一般的にはほどほどに物のある暮らしをしているのではないでしょうか。

 ぼくの部屋は物がいっぱいです。本や雑誌、大量のCD、そしてギターやベースなどの楽器類やその機材類など・・・あふれてます。ゴミ屋敷ではありません。

 こうして人の暮らしは、物が増えることでより快適に、より便利になっていた時代がありました。そもそも日本人の場合、太平洋戦争後の貧しさの中で生き残ってきた世代の方たちは、物を粗末に扱うことを許しません。そのあと高度経済成長時代の中で、戦後の反動なのか、物が多いことは豊かさの象徴のようになっていて、今でも高齢者の家は物が多い傾向があるようです。物への感謝もなく、飽きたら捨てるような感覚よりはとてもいいと思いますが。

 しかしこれが「生きる」ことになると、話は真逆です。

 抱えているモノ、背負っているモノが多ければ多いほど、人はその重さに圧迫されて足取りは重くなります。ひどい場合は、潰されてしまうことさえあります。

 何を抱え、何を背負っているかというと、自分です。エゴと言ったほうが正しいかもしれません。いろいろな種類のモノを背負っていますが、その元凶はエゴです。

 エゴは、スピリチュアルや禅の視点で考えると、正反対の方向性を持っています。

 たとえば、エゴは人の視線を気にしますが、禅では人は人です。またエゴは損得勘定で行動することがありますが、スピリチュアルでは愛があるかどうかです。

 人が社会の中で生きていく上で必要なエゴと、社会がなかったとしても生きていく人間に必要なスピリチュアルや禅、そういう対比になります。

 そもそも社会というのは固定されたものではなく、いわば集団幻想のようなものです。みんなで特定の何か、たとえばお金や会社などをお神輿のように持ち上げて、経済やビジネスという幻想の祭りを作り上げて参加しているようなものです。

 その幻想には、人が「生きる」という土台があります。お金や会社がなくても人は生きていきますが、人が生きていなければお金も会社も存在しません。

 現代ではこの、人が「生きる」というところが軽視され、その頭上で行われている幻想のお祭りに夢中になっています。

 社会が存在して、ルールがある以上、お金も会社も必要です。それは間違いありません。ただ、人生にはお金や会社より大切なものがあるというだけです。

 「この世」という場所では、「生きる」人がいることが大前提です。ですが「生きる」は大切にされず、お金や会社のほうが大切な風潮になっています。土台をないがしろにした家は、ちょっとした地震でも崩れるものです。人も「生きる」という土台を作り上げてこその社会であると思います。

 ぼく個人の考えとしては、お金もたしかに必要ですが、それより食べ物はもっと必要だと思っています。人が生きていくのにお金がいるのは社会の中だけで、大海原で遭難したとき、無人島に流れ着いたとき、山で遭難したとき、お金があってもどうにもなりません。もし何かの事情で物流が止まれば、都市部などは一気に食べ物がなくなります。お金があっても、食べ物がなければ手に入れることはできません。

 以前、北海道で大きな地震がありました。夜中の三時ごろでした。その後、わりとすぐに北海道全域で停電が起きました。ブラックアウトです。地震の情報を知るためにテレビを観ていて、ブツっと切れました。

 その日の午後、買い物をしに近くのコンビニに行きました。レジスターも動いておらず、お店の人は電卓で計算していました。そこへ食料の買い出しで弁当などかなり抱えたお客さんがやってきて、スマホ決済をしようとスマホを出しました。しかし機械は動いていませんから、現金のみの取引です。その人は憮然として商品を棚へ戻して店を出ていきました。

 社会というのはそういうもだという、いい例だと思いました。自分が思っているより、世の中というのははるかにもろいことを痛感した瞬間です。

 どれほど世の中が安定しているように見えても、その安定は幻想です。そもそも社会自体が多くの人の思い込みで出来ているようなものなのですから。


 社会の中で、人は多くのものを背負って暮らしています。

 たくさんのストレスや我慢、仕事や家族、しがらみや世間体などなど、実体のあるものから無いものまで、さまざまなものを背負って、日々生きています。

 実体のあるものは、自分から好きで背負ったり、どうしようもなく背負ったりしたものがほとんどでしょうから、覚悟を決めて背負っているのだと思います。しかし実体のないものまで背負う必要があるでしょうか。

 人生は、人が生きると書きます。ここまで書いてきたように、人が生きるということは、とても素朴で純粋です。ただ「今・ここ」に存在するだけのことです。

 極端に言えば、素っ裸で真っ白な空間に立っている状態です。何の飾りもいりませんし、何の知識もいりません。ただそこに在る、それが「生きる」です。

 この状態に近ければ近いほど、人は満たされて幸せです。なぜかと言うと、何も背負っていないからです。不安や心配とは無縁で、守るものがなければ、気がかりなこともない。何も起こらないので恐怖も感じない。自分以外に存在しないので比較することもありません。

 この状態は、エゴが動いていない状態と言えます。

 エゴが動かなければ、不安や心配、恐怖などはいっさい生まれてきません。

 エゴは肉体的な危機を避けるために動いているので、つねに恐怖を原材料にして、不安や心配を生みだします。その恐怖のおかげで人類はここまで生き延びてきたわけですが、現代の日常生活の中でそこまでの危機感は必要ありません。危機感がなければ、恐怖を感じることもなくなります。恐怖がなければ、エゴはもう動く必要がないんです。

 エゴが仕事をしなくなると恐れは生まれない、ということは、今しがらみや世間体など、目には見えないけど背負っているものは、何のためにあるのでしょう。

 「世の中とはそういうもの」、そう考える人もいると思います。しかし世の中は幻想です。多くの人が祭り上げた、固定されたものに依存したいがための対象です。なんとか固定化してそこにすがりつこうとしているものです。宗教のシンボルに近いのではないでしょうか。

 人は、一度に多くの人が殺到するような状況を見ると、それが正解のような気がして後についていってしまう傾向があります。災害時の地下街など、停電して非常灯も見えないとき、多くの人が右に行けば、右が正解であるような気がして一緒に動いてしまうという現象です。

 社会、世の中というのは、そういう傾向が強いように思います。その姿はまるで宗教のようです。殺到してしまう人の目には、中身のない仏さまか何かが正解として見えているのかもしれません。

 周囲にいる人はみんな背負っているから、という理由で必要のないものを背負うのは、他人からの視線を気にしているだけで、ムダなことです。それ以外に、本当に背負わなければならないものもあるはずです。自分の人生に対する責任とか、親友や恋人を守る責任など、他にいくらでも背負うべきものはあります。

 結局、苦しい思いをして背負っているモノも、また幻想だということです。


 人は周囲と同じような状況になることで安心できます。自分だけ違うことを恐れる傾向があるのでしょう。原始の集団生活の名残かもしれませんが、現代とはまったく状況が違います。もうその感覚も必要はないかもしれません。

 余計なものを大量に背負っているせいで、人生の足取りは遅くなり、視野は狭くなり、息も切れ切れ。そんな状況になっていないでしょうか。

 これまで生きてきた時間の分、人は自分にとって必要なものもそうでないものも、次々に背負って、「今・ここ」にたどり着いています。本人の自覚がないものもたくさん背負っていると思います。そのせいで、自分で自分をがんじがらめにしてしまって、人生という道の上で立ち往生しそうになっているのが現代社会です。

 ストレスとは、その背負っているモノの量に比例しています。

 例えを変えると、社会という戦場で自分の身を守るために重ねてきたヨロイの量とも言えます。あまりにもヨロイを重ね着したために動けなくっています。中には動けないまま討ち死にしそうになっている人もいらっしゃるでしょう。

 急にすべては無理としても、すこしずつヨロイを脱いでみてはいかがでしょうか。

 ヨロイをひとつ外すたびに、当たり前ですが体が軽くなり、身動きがしやすくなります。カブトもすこしずつでいいので外すようにしてみてください。外した分だけ視界が広がり、今までぼんやりしていたものがはっきり見えたり、一部しか見えていなかったモノやコトの、全体の姿が見えるようになったりします。

 社会生活という戦場の中でヨロイを脱ぐことことに恐怖を感じるかも知れません。しかしその戦場は集団幻想です。真実の社会というのはもっとシンプルなものです。仕事をして対価をもらう、または助け合う、それだけのことです。それが肥大化したがゆえに複雑になり、手間が増えて、面倒になっているだけです。

 そうは言っても、認識としては物質世界が現実ですから、今までどおり、社会生活や経済活動は続けていくしかありません。しかし、自分の人生や「生きる」ことについて考えたりする時間があってもいいのではないかと思います。

 あなたの心は、いつもあなたに伝えています。あなたが本当に望む生きかたや人生の在りかたを。あなたの思考が無視しても、何かのきっかけで急に気持ちが傾いたりするとき、ふとそのことを考えたりするとき、それは心が伝え続けていたことです。

 その心の声を聴くためにも、ひとつでも多くヨロイを脱ぎ、カブトを外してみましょう。

 ヨロイを脱げば脱ぐほど、カブトを外せば外すほど、あなたの人生はより良い方向に向かうことになります。視界が広がり、この上なく身軽になり、恐怖のないあなたは、エゴの仕事を最小限に抑え、思考を止め、心の声を聞くことになります。それは蒸し暑い都会の隙間を吹き抜ける、乾燥した風のように感じるでしょう。

 あなたは自由で無限です。いま背負っているモノを下ろしてしまえば、ですが。

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