第76話 ひょうたんから駒も無くはない

 「瓢箪から駒」・・・冗談半分のことが事実になってしまう、と辞書に書いてありました。意外なところから意外なものが出る、とも書いてありました。

 日常生活でこの言葉を使うことはほとんどありませんが、スピリチュアルの界隈ではどうでしょうか。

 物理のルールで考えれば、確率的にものすごく少ないことだと思いますし、どちらかというとあり得ないことでしょう。瓢箪から馬が出る、ありえないでしょうね。しかし、病気や事故のニュースなどで「奇跡的に助かった」という言葉を耳にすることはありますから、物理的な確立がどれだけ少なくても、あり得ることなのでしょう。

 これがスピリチュアル側から見た場合、けっこうよくある話で、今ではぼくも不思議に思うことがなくなってきました。


 たしかに瓢箪から馬が出るとなると物理のルールを無視していますから、ほぼ不可能でしょう。しかし物理のルールが及ばない部分であれば、何が起こっても不思議ではありません。たとえば、人生や思考などがそれにあたります。

 生きていれば誰でも人生に関わりを持っています。

 人生は物理のルールが及ばない部分がたくさんあります。物理のルールは、何かの出来事に対して、すべての人が同じ結果になることです。それが万有引力の法則や、慣性の法則、一+一=二などがそうですね。誰もが同じ結果を確認できます。

 しかし人生は、個体差が大きいものです。同じ時、同じ場所で生まれたとしても、同じ大人にはなりません。同じ親から生まれた双子でも、まったく同じ人になることはありません。すべての人がこの世でひとりしか存在しません。そうなると、誰もが同じ結果を見るということはありえなくなります。ここで物理のルールは外れます。

 人生を、起こる出来事ひとつひとつで見ていけば、物理のルールに従うことが多いですが、全体を見渡したときには物理のルールは通用しなくなります。


 さて、人生で起こる「ひょうたんから駒」ですが、案外とすでに起こっています。ただ誰もそのことに気づいていないんですね。気づいたとしても、なあなあにして話を流してしまうので、覚えていないだけかもしれません。

 たとえば、行きたいと思っていたコンサートがあったとします。しかし残念ながらチケットを取ることはできませんでした。行きたい気持ちはあってもチケットが取れなかったので、半分あきらめていたところ、知り合いが急用で行けなくなったと言って、チケットをプレゼントしてくれる。そんな体験はないでしょうか。

 また、欲しいと思っていた家具があったとして、価格が高くて手が出せないと思っていると、近所の人が引越しするにあたって、いらないから貰ってほしいと言ってその家具を置いていってくれたり、とか。

 「この世」や人生には、人の思考ではありえないと信じていることが起こることがあります。これが「引き寄せの法則」です。人の想像を超えて、物理の世界に割り込んでくるんです。こういったことが起こっても、人の想像を超えているので、おそらくこれらの体験者は、「偶然、チケットが手に入った」とか「たまたま、欲しかった家具がもらえた」という結論にして、話を終わらせるはずです。

 結論付けと話を終わらせることは、それでいいんです。ただこの出来事は、偶然でもたまたまでもない、ということに気づくと、物理のルールを無視したことが起こっていると分かると思います。

 これぐらいのお話だと、どこかで聞いたようなお話だと思うかもしれませんが、入手し損ねたチケットは、普通に考えれば手に入りませんし、自分の欲しかった高級家具をただで手に入れることは、まずありません。そんなことはすごく当たり前のことですが、ありそうな気がしてしまって、気づかないのです。

 さらにもうひとつ、ぼくの実体験ですが、最も記憶に残っているお話です。


 真冬のある日、重要な用事で本州の実家に帰ることになっていました。細かいところは省きます。札幌市内の近所のバス停から新千歳空港行きの高速バスが出ていて、それで空港に向かいます。いろいろ出かける用意の確認などをしているうちに、時間が過ぎてしまい、今から家を出ても予定していたバスには間に合わなくなりました。次のバスでも飛行機には間に合うんですが、空港に到着するのが飛行機が出るギリギリになってしまいます。行かないという選択肢はないので、次のバスに間に合うように家を出て、予定より一本遅いバスに乗りました。

 空港についてからバタバタすることになるなぁなどと考えつつ、窓の外の雪景色を眺めていました。途中すこしウトウトしましたが、やがて新千歳空港に到着して、時計を見て驚きました。

 乗り遅れたはずの、一本前のバスの到着時刻だったんです。そんなわけがないと一瞬思いましたが、実はこのとき、母がガンで余命宣告を受けたばかりで、一刻も早く実家に戻らないと、と思っていたので、うまく引き寄せられたのかなと考えて、それで良しとしました。これがぼくの体験した「ひょうたんから駒」です。


 物理的に考えてあり得ないことでも、起こってしまうと認めざるを得ません。このあと飛行機の中で、何度もバスの時刻表や、家を出た時間の記憶なども総動員して検証しましたが、どう考えても物理的には起こり得ないことでした。

 このころのぼくはスピリチュアルな思考で生きていましたし、小悟も何度か体験したあとです。しかし基本的に疑り深いので、自分が体験していないことや、スピリチュアルの話であったとしても、ぼくなりに論理的ではないことは「分からない」としていますから、時空間の移動というのは懐疑的でしたが、体験してしまったのでどうしようもありません。この体験から「ひょうたんから駒」はあり得ると考えるようになりました。

 今はスピリチュアル的な理屈で説明できますけど、本当に驚いた出来事でした。


 ぼくの体験は時空間を飛び越えるようなものなので、特殊かもしれませんが、時空間を超えるようなことが起こるのなら、先ほどの例に挙げた、チケットや高級家具など、普通に起こっていても驚きません。

 とても強い信念や思考は時として、「この世」で物理のルールを超えることがありますが、それは不思議なことや特殊なことではなく、ごく普通に起こる事象として考えていいと思っています。

 「引き寄せの法則」もこれに類することです。チケットや高級家具の例も、突き詰めれば「引き寄せの法則」によって引き寄せられた結果です。

 「引き寄せの法則」が存在すると信じて日常生活を見てみれば、案外と誰の身にも起こっていると気づくのではないでしょうか。信じていなければ起こっていても、偶然やたまたまなどで片づけてしまうので気づくことはないと思いますが。

 何でもないことに見えることでも、一般的な言いかたをすると、たまたまや偶然が重なりまくって起こっていることもあります。よく起こることほど普通という感覚で見てしまいますが、よくよく見れば「奇跡」であったり「ひょうたんから駒」であることもあります。


 思考の中に「どんなことでも起こる可能性はある」というのがあれば、現実的にどんなことでも起こる可能性が立ち上がります。「ムリ」とか「無い」という思考は、自分の人生を制限してしまうだけで、プラスになることはありません。

 現実的にも、どんなことでも起こる可能性はあります。たとえそれが一パーセントという低い確率であっても。一パーセントもあれば、物理のルールを飛び越えた世界では一〇〇パーセントと同じ意味になります。「この世界」においてはそういうルールのようです。

 間違ってもネガティブな方向で使うのはやめておきましょう。自分に向けることはもちろんですが、他人に向けるネガティブ思考も、かならず自分に返ってきます。その中で起こり得ないことが起こった場合、取り返しがつかないことも出てきます。それは目に見えない存在のしたことではなく、自分の「引き寄せの法則」を利用した結果でしかありません。人を呪わば穴二つ、と昔から言いますしね。

 「この世」は「この世界」の中に存在していますから、物理のルールだけでは語れない部分があります。それを認めるかどうかは人それぞれですが、ぼくとしては、有るものは有るとしか言えません。それを感じられるかどうかは、個人の感性です。

 すべての人に何かしら得意なことがあり、そのうちのひとつとして、目に見えないものを感じる感覚というものがあるだけです。特別なことではありません。ただの得手不得手です。自分が不得手だからと言って、否定するのはもったいないお話です。

 ひとまず「どんなことでも起こりうる」と肯定しておいて、「ひょうたんから駒」を体験すれば、感覚が急に目覚めるかもしれません。

 ある日の朝、目が覚めたら、ベッドの脇に自分の夢や希望が行列して並んでいた、そういうことが起こるかもしれません。まさに「ひょうたんから駒」です。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る