第72話 川の流れに身をまかせ

 古い歌謡曲のタイトルのようですが、これは人生そのものを表現しています。

 古今東西、人生を何かに例える表現はありますが、ぼくは川がいちばん近いのではないかと思っています。

 人生は人それぞれです。生まれも違えば育ちも違う。家庭環境も暮らしのスタイルも近所の環境も違います。同じ学校に行ってるからと言って、寸分たがわない人間ができるわけではありません。得手不得手もそれぞれですし成長度合いや伸びしろも人それぞれです。トラブルやアクシデントに出会う回数やその度合いも違いますし、パートナーの好みやパートナーとの生活スタイルもそれぞれに違います。

 しかし、絶対に誰もが同じことがひとつだけあります。それが「死」です。

 誰もがかならず死にます。たとえ機械の体を手に入れても、不治の病にかかって冷凍保存して未来に託したとしても、この星が終われば確実に生き残れません。

 でもそれは言いかたを変えれば、生まれてから死ぬまでは生きているということです。「死」が絶対であれば、これはまぎれもなく事実です。「死んだように生きている」というセリフがありますが、間違いなく生きています。やる気がないだけです。

 人が誕生して、紆余曲折あって死を迎えるまでを振り返ってみれば、それは一本道です。「可能性のドア」というお話では誕生したときの主観でしたが、今回は「死」を目前にしてからの主観です。

 振り返ってみて一本道ということは、上流から下流へ流れていく川と同じです。

 川という表現をすると、一方通行であること、支流があること、流れの早いところと遅いところ、または溜まって淀んでいるところがあるという点で、分かりやすいのではないかと思います。もちろん裸一貫で泳いでいる状態をイメージしてください。


 まず一方通行です。これは分かりやすいのではないでしょうか。一滴のしずくが大河になり海にそそぐように、人は生まれたらかならず死にます。また過ぎた時間を戻ることはできません。意地の悪い見方をすれば遡上という手もありますが、人間で言うと、思い出を振り返っているにすぎない、ということでご理解ください。実際には過去の一点にとどまって動こうとしない。あるいは動けずにいるということです。

 人にはエゴがあり、比較対照して現在地や状況・状態を把握します。もし「今・ここ」に納得できず、「以前のように」と考えたとき、人は遡上するかのように川の流れとは逆方向に泳ぎ始めます。現状維持にこだわる人も同じです。しかし川の水は上流から下流へと流れていますから、どれだけ遡上しようとしても人間の力では無理です。それでも何とかしがみつこうと泳ぎ続けている人がかなりいるのではないでしょうか。その人たちはつねに息が上がっているでしょう。景色は変わらず、状況や状態も変わらず、ずっとその場で足踏みです。疲労感は増していき、ストレスもたまる一方でしょう。そういう人、多いですよね。

 人生は諸行無常と言われるように、固定できるものは何もありません。形あるものは変化を繰り返し、やがて崩壊します。それを維持しようとしても、無理な話です。そして思いどおりにならないとストレスを抱え、イライラするからとエナジードリンクを飲んでも、何も変わりませんし、その人自身がつらいだけです。

 川はつねに流れています。逆らうことなく流れに沿って流されていくのが、もっとも楽でスムーズに事が運ぶ手段です。

 川に任せることが不安になるかもしれませんが、実はそれこそ「人は幸せになるように出来ている」という状態です。放っておいたほうが人は幸せになります。エゴによって、何かと比較して「あれをしなければ」、「これをしなければ」と考えるよりも、自然の流れに沿って生きたほうが、物事はスムーズです。

 思いついたこと、ひらめいたこと、楽しいと思えること、幸せを感じらることを選択していくと、結局はそれがもっとも人生の流れに歯向かわないことになります。

 そういう意味で、一方通行に逆らってはいけない、ということになります。


 次に支流があることですが、これは「可能性のドア」のお話で書いたことそのままです。

 人は生まれる前に、人生の青写真を描いています。これは一般的に考えられる運命のようなものではなく、あくまでも今生における課題のことです。何か決まったことが起こるのではなく、自分の魂を磨くため、これまでにない体験を感じるために自分で用意したハードルです。過去世で乗り越えられなかったことを今生で乗り越えるためのもので、自分で決めた方向に魂が磨かれればそれでいいので、具体的に何が起こるかなどは決めていませんし、決まっていません。

 青写真で決めたことがどれぐらいあるのかは人それぞれですが、それ以外はすべて自由です。目の前にはまず限りなくドアが立っています。いわゆるどこで〇ドア状態で、それが無限にあります。どのドアを開けて通過するかどうかは本人の自由です。ドアを開けてその先を覗き見るぐらいは可能ですが、通過してしまえば、またたくさんのドアがランダムに並んでいます。そうやって何度もドアを通過して、ひとりの人の人生ができていきます。

 これが川で言う支流にあたります。本流から無限に支流が出ていて、あなたが支流に入れば、それが本流になります。そしてまた無数の支流が並んでいます。

 どの支流の流れに身をゆだねるのかは本人の自由です。ただ、支流に入ってしまえば、後戻りはできません。もちろん遡上しようと思えばできますが、本流だった流れに戻ることはできません。ただその場でジタバタするだけ、ということになります。

 人生は選択の連続です。意識があるかぎりつねに選択を迫られて、いちいち決断しなければなりません。拒否することはできないので、どうしても選択し続けることになります。だとするなら、心地よい選択をしたいものです。いま流されている川よりも、楽しそうとか面白そうなどと感じたら、そちらの支流に入る。そうやって人生はより良くなっていきます。

 選択しないという選択もありますが、それでもどの服を着るかとか、朝食にコーヒー飲むのかホットミルクを飲むのかなど、かならず選択しています。そのひとつひとつが、今後の人生の展開に関わっていると考えてみてください。選択しない選択というのは、まずありません。


 そして、川の流れの緩急についてです。

 川には流れの速いところもあれば、おだやかなところもあります。とくに川のはじまり、渓流と呼ばれる上流のエリアは流れが速く、川幅も狭いところが多いです。中流から下流に向かっていくにしたがって、あちこちに支流が増えてきて、すこしずつ川幅も広くなり、河口付近まで来ると水の流れも緩やかになります。

 人生で言えば、生まれてから物心がつき始めると、目に入るものがすべて新しく新鮮な体験で、いろいろなことを吸収する時期です。視野は狭く、目の前のことを吸収するだけで精一杯の時期でもあります。これが上流期ですね。

 すこしずつ歳を重ねてきて、物事を自分で判断できるような年頃になってくると、自分のできることや好きなことが分かってきて、さまざまな可能性や好きなことが視界に入ってきます。世の中というのも見えてきて、自分にできると考えたり、出来そうもないと考えたりなど、分別がついてきます。これが中流期です

 そしてさらに年齢を重ねると、若いころよりも数段体力が落ちたり、肉体的にも病気や故障も増えてきて、思ったように派手に動くことはできなくなります。社会人としてあくせくすることもなくなり、生きたかにもよりますが、基本的に心中は穏やかな状態で生きています。それまでのたくさんの、さまざまな体験から視野は広く、生きていく知恵も人生で最も身についています。そしてあとは川としての役目を終え、もっとも緩い速度で海に注ぎ込みます。これが下流期です。

 いろいろな意味であわただしい上流期、大きな選択が目白押しの中流期、思慮深く穏やかな下流期を抜けて、「死」という海へと流れつきます。

 それとは別に、流れの速さを問わない中での緩急があります。

 一般的には中流期から下流期にかけて多いかもしれませんが、人それぞれです。

 人生には怒涛のようなときと、まるで何も起こらないようなときがあります。

 たとえば、あなたが起業しようとしているとします。いろいろなアイデアを出したり、試したりしてみても、自分が思っているようには話が進まないということがあります。いろんな人に相談してもらちが明かず、ただただ停滞しているように感じて、あなたとしてはやきもきする時間が長くなっていきます。これが緩急の「緩」です。

 何がきっかけかは分かりませんが、ある時から急に物事が動き始めます。それからは急展開に次ぐ急展開で、あれよあれよという間に起業できたと思っているうちに、次々に取引先が増えていき、気がつけばその業種においては誰もが一目置く会社に成長していました。これが緩急の「急」です。

 あなたが川の流れに身をゆだねている場合、川の流れ自体は一定でも、その流れる速度は川の表面を流れる水の速度によるものですから、場所によっては遅くなり、次の瞬間には早くなったりします。どこか川の隅で小さな渦を巻くこともありますし、滝のように急激に速度が上がることもあります。

 人が生きる速度は一定ではありません。意図的なものを除いても、緩急は起こります。それは意味のある緩急であり、どうすることもできません。というか、その緩急こそが今後につながる意味を持っています。これはいわば、目に見えない存在からのプレゼントのようなものだと考えてください。「ここはすこしペースを落として」とか「ガンガン行こうぜ」というメッセージだと考えると、分かりやすいでしょうか。

 たとえば、家を出るときに車のキーが見当たらず、しばらく探してやっと見つかって家を出たら、自分が走るはずだった道で大きな交通事故があった。素直にキーが見つかって出ていたら巻き込まれていたかもしれない。こんな話を聞いたことはないでしょうか。この手の事例はかなりたくさんあるようですが、このお話の「人生バージョン」だと思ってください。

 一度立ち止まったほうがいいときは停滞しますし、今がチャンスというときは、自分が追いつけないほどの速度で物事が進むものです。

 これも川に委ねていればこそで、ジタバタと遡上しようとしたり、流れを無視して急いだりゆっくりしたりしても、疲労が増すだけで、良い結果になることはほとんどありません。ジタバタして良い結果を出せる人は、元々この件に関して良い結果を出せる人です。ほとんどの人は疲労やストレス、肉体の不調や病気といったネガティブな結果を体験するだけです。


 川の底にはとても速度の遅い水の流れがあります。すべての表面の水と繋がっていて、表面の流れに左右されることはなく、安定して存在しています。つねに下から表面の水を支えていて、時には表面の水に力を加えたりします。水面でトラブルやアクシデントがあっても、水底は動じず、水面を動かそうとします。

 こうして人間は、目には見えない存在、「魂」や「愛」、「創造主」によってつねに助けられています。

 あなたが川の流れに身をまかせているかぎり、つねに目に見えない存在が下から支えてくれています。このことを信頼することができれば、川の表面で起こっていることなど、問題にすることはないでしょう。

 川の流れに身をまかせることが、もっとも簡単で、安心で、幸せな生きかたです。

 海に注ぎ込むその日まで、どうしたって川は流れているんですから、エゴの言いなりになって、もがきまくって疲れ果ててストレスを溜めるより、周囲の風景を見ながらのんびりと、笹船のように流れていくのもアリだとは思いませんか。

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