第70話 可能性のドア

 多くの人が人生と聞いてイメージするのは、一本道ではないでしょうか。

 荒れ果てた土地の中を突っ切る、まっすぐな一本道。そんな感じでしょうか。

 たしかに、死ぬ直前に人生を振り返れば、自分という肉体はひとつしかありませんから、選択できる道はひとつです。その結果として一本道であるのは分かります。

 しかし、生きている途中の場合、実際には生まれた瞬間に見る人生には、道は存在しません。公園の芝生みたいな感じで、どこを歩いてもどこに寝転がっても構わないような、そんな感じになっていて、道らしいものはまったくありません。

 死ぬときに振り返って見えるのは、自分が生きてきた道。生まれたときに見えるのはだだっ広い可能性という名の空き地です。

 ぼくのお話には一般的に言われる「運命」とか「運」というものは存在しません。自分の人生は「類は友を呼ぶの法則」と「引き寄せの法則」、あとちょっとしたスパイス的なもので創造されています。スパイスに関してはまた別の機会に。

 「運命」がないとなると、人生に決まった道は存在しないことになります。良くも悪くも完全に自由です。

 自由は、それを使う人によって、その人の人生を良いほうにも良くないほうにも舵を切ります。もちろんどう使おうがその人の自由ですが、どうせ生きるのなら、幸せなことや楽しいこと、嬉しいことが多いほうが、いいのではないかと思います。

 自由という状態は、空き地のあちこちに立っているドアです。無限にあるドアのどれを開くかは自分の判断です。それを繰り返してきた結果が一本道になっています。

 ドアの名を「可能性のドア」と、ここでは呼ばせていただきます。

 イメージとしては、だだっ広い場所に、青いネコ型ロボットでおなじみのあのドアが、数限りなく点在している図です。どのドアもカギはかかっていません。ただし、ドアを開けてその向こうを覗き見ることはできますが、入ってしまうとそのドアは消滅し、目の前にはまた新たなだだっ広い場所、無限のドアが存在しています。

 この世にあなたが誕生してからずっと、あなたが気づいていてもいなくても、この可能性のドアを開けて歩み続けています。というか、可能性のドアを開けなければ人生は進みません。思っているよりつねに選択し続けているのが人生です。選択せずに人生が進むことはありません。

 小さいこと言うと、食事風景です。ご飯、味噌汁、サラダ、漬物、焼き鮭というメニューだとしましょう。この五種類のメニューをどんな順番で食べるか、何から箸をつけるか、そんなことでも選択しなければ食べることができません。

 朝、目が覚めたとき、どんな動きから始めるのか。布団をめくるのか、そのまま上半身を起こすのか、まず時計で時間を確認するのか。何もかもについて、あなたが選択し、そのとおりに動いています。

 生きているかぎり、何をするのもしないのも、つねに選択し続けています。ちょっとした体の動き、考えていることなど、自律神経で動いている機能以外、すべてあなたの選択と決断によるものです。

 こう考えると、束縛や拘束されているような気がして、息苦しさすら感じますが、逆に考えれば、それだけの選択肢が用意されていて、自分で選んだ人生を生きることができるというふうにも考えられます。

 つまりあなたは生まれながらに自由だということです。どの可能性のドアを開けて通過するかは、あなたが自由に選択できるわけですから、きちんと見極めていけば、人生は思いどおりになる可能性も大いにある、ということです。


 「可能性のドア」は無限にあると書きました。

 無限なんてありえないと思う方もいらっしゃるかもしれません。

 ひとりの人間の人生における可能性。たしかに選択肢が少ないように見えるかもしれません。それは近視眼的に近場しか見ていないために、そう見えるだけです。

 あなたの視界に見えているものは、だだっ広い場所に無限に立っているドアの群れです。自分の近くにあるドアにはすぐ手が届く距離ですが、遠くにあるドアは、それがドアかどうかすら確認できないほど遠くにあります。ただそれだけのことです。

 あなたの近くにあるドアは、「今・ここ」におけるあなたの状況や状態から、もっとも動きやすい可能性が高い次の一歩が用意されていて、「今・ここ」での状況や状態では次の一歩として難しいドアが遠くのほうに立っています。

 先ほどの食事風景の例で言うと、食卓に並んでいないけど、冷蔵庫に入っているキムチを食べたいと思うと、席を立って、冷蔵庫を開けて、キムチを出してこなければなりません。これならまだ可能性は高いほうですが、いま家にはない横浜のシュウマイを食べたいと思うと、お店に行くか通販で買うか、近場の物産展を探すかということになりますが、どれを選択しても、この食事には間に合いません。日をあらためて先延ばしをすれば食べることができます。

 「今・ここ」におけるあなたの状況や状態が、食事のテーブルについているのと同じです。食卓には食事が並んでいますから、その中のどれかであれば簡単に選択し、食べられます。そこから、冷蔵庫に向けて立ち上がる必要があったり、食事を作るところから始まったり、近くのスーパーなどへ買いに行ったり、通販や決まったお店まで行くことになるとすると、可能性の確率はどんどん下がっていきます。

 とは言え、出来ない、ムリということはありません。まだその状況や状態にないというだけのことで、可能性は十分にあります。

 多くの人が最初から不可能とか無理だと決めつけたり、やりかけても道のりが遠いと感じたり、一度つまずいたりすると途中であきらめてしまって、可能性がないと思い込んでしまいがちです。

 ひとりの人間の人生に不可能はありません。ただそれを完遂するまでの、やる気や情熱などの気持ちが継続するかどうかということだけです。

 無限にあるドアでも、遠くに見えるドアまで行くにはそれなりに大変なこともありますが、それもまた手近にあるドアの選択によって、すこしずつ近づいていきます。遠くに見えるドアも、そのドアへ向かう意思を持って手近のドアを通過していけば、気づけば目指していた遠くにあるドアが目の前に現れます。そのとき、あなたの状況や状態が整ったということです。

 夢や希望がある人にとって、その目標は遠くに感じるかもしれません。だからと言って、その道を目指さなければ、目標に近づくこともありませんし、目標に関わる何かが起こることもありません。絵を描くことなく画家になることはありません。絵を描き続けているうちに、その道を歩むことになったり、別の道が見えてそちらのほうを選択したり、まったく関係のないことを始めるのかもしれませんが、「今・ここ」で画家になりたいと考えたのであれば、最初にすべきことはまず一枚、絵を描くことです。これはどんな夢や希望についても同じことです。その目標にかかわる何かを始めなければ、何も始まりません。

 一見しただけではそれと無関係に見えるドアかもしれませんが、あなたがそれが最初のドアだと決めたのなら、それが正解です。あとはやる気や情熱を持って取り組むことで、目標に対して本当に正しい道が見えるようになります。

 そのドアが遠くても、あきらめることはありません。手近のドアを通過し、また目の前にある手近なドアを通過して、を繰り返しているうちに、目標の遠いドアにたどり着きます。やる気や情熱が続くかぎりあきらめないことです。

 以前のお話で「いい意味であきらめる」ということを書いたことがありますが、それは執着を手放すという意味でした。自分の人生を棒に振っていいほどの夢や希望なのであれば、すこしぐらいの失敗や挫折であきらめるのとは意味が違います。

 何事も固執してしまっては、ただ安全・安心にしがみついているだけで、人生に何ももたらしてくれません。しかし、好きで好きでしょうがなくて、やる気や情熱が失われることなく、夢中になって取り組めるのであれば、それはあきらめることではありません。夢中であればあきらめることも忘れているでしょうしね。


 人の人生は、可能性しかありません。不可能性こそあり得ません。

 生きているかぎりいつでも可能性のドアが目の前にあり、選択を迫ってきます。

 人は本当の意味で信じていれば、何でも出来ますし、何にでもなれますし、何でも手に入ります。目標が出来ていること、目標になっていること、目標を手に入れていることを、普通、当たり前というレベルまで信じていれば、かならずそうなります。

 あなたが気づいていなくても、人は信じているとおりにしか動きませんし、信じているとおりのことが現実化します。あとはその信じているレベルの深さだけです。

 「可能性のドア」は、そのレベルの深さを徐々に深めていく作業とも言えます。

 一足飛びに夢や希望を手にすることは、物理のルール的に難しいのは間違いありません。一足飛びを当たり前とすることができないのが原因ですが、信じきることは難しいと思います。

 目標や希望、信念があるのなら、ひとつずつ丁寧に「可能性のドア」を開けて、そこにある「今・ここ」を体験して、味わい尽くしたら次のドアを開けて、また同じように味わいつくす。これを繰り返していることが、あなたが夢や希望・信念を手にできる状況や状態へと近づいていってるということです。

 生きて歩みを続けているあいだは、あなたがどんな状況・状態であっても、目の前にはつねに無限の選択肢が用意されています。けっして平坦な一歩道ということはありません。

 いろいろ見てみるのもいいでしょうし、決めた目的地があるならそこへまっしぐらに進むのもいいと思います。人生は人の数だけありますから、誰かの言いなりになったり、誰かと同じを目指したりする必要はありません。自分が楽しいと思うドア、幸せを感じるドアのノブに手をかけて、気分良く開けてみてください。

 そのドアノブに手をかけることも「可能性のドア」を開けた結果です。

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