第68話 この世主体では認識できません

 生きている人から見れば、主観としてこの世が中心になってしまいますが、あの世と呼ばれる空間の中にこの世があると考えたほうが、話がスムーズになります。

 いつかのお話の繰り返しになりますが、この世というのは、制約だらけです。

 時間があり誰でもなんでも劣化していきます。重力がありつねに体に負荷がかかっています。五感センサーが必要のないものまで感じ取ってしまいます。エゴがマザーコンピューターのように鎮座していて、人間はその支配下として生きています。

 反面、あの世には物質というものがありません。なので時間の経過による劣化はありません。だからいまだに武士などの幽霊の体験談が出てきたりします。物質ではないので重力による負荷はまったくありません。五感もないので、望んだ感覚だけを引き寄せて味わうことになります。肉体という物質がないので、脳は機能しておらず、マザーコンピューターはエゴから心に移行します。エゴのない心はそのまんま「創造主」で「愛」ですから、本人の心持ち次第でどうにでもなります。まず肉体がなければ老化も病気もケガもありません。

 さて、どちらがぼくたちにとって都合が良いでしょう。

 たしかに、すでに人間は生きてしまっています。だからといって、この世が中心であるというのはすこし強引な気がします。

 現代でも、不思議な体験や心霊体験と呼ばれるものを味わった人が数多くいます。しかし、この世の風潮として、多くの人が科学を新興宗教的に、盲目的に信仰しているため、周囲に攻撃される可能性があると考えてしまって言葉にしない人もかなりの数がいらっしゃると思います。

 いわゆる心霊体験とかそれに類するものは、他人がとやかく言えることではありません。本人の体験は本人にしか分からないのです。世界で一番強いボクサーの見る景色は、世界一強いボクサーにしか分かりません。それと同じです。対戦相手がどれぐらい強いかというのは、対戦するまで分からないのです。

 心霊現象などを信じろ、という気はありません。それも人それぞれでいいと思うんです。ただ、否定はやめたほうがいいんです。否定をすればするほど、否定している人の人生に否定を積み重ねることになります。イメージ的には、否定を十回したら、自分の人生に否定的なモノやコトが十回、上乗せされるような感じです。

 怖いなら怖いでいいと思いますし、苦手なら苦手でいいと思います。ただし、否定ではなく、「分からない」とすることで、自分の人生への影響を最小限にしておくべきです。否定する程度のことなら、否定せずに関わらない、というのもひとつの手立てだと思います。


 いくら目に見えない世界と関わらないと考えても、この世が目に見えない世界に含まれていますから、どうしても関わりを持つ場面というのがあります。

 その代表が「死」、あるいは神仏ではないでしょうか。

 霊的なものを信じようが信じまいが、お葬式や法要をされる方はたくさんいらっしゃますし、初詣に出かけては願い事をされる方もいらっしゃると思います。ちなみに神社に詣でるときは願い事ではなく、これまで生きてこられたことを感謝するようにしましょう。願いが叶うと謳っているところはそうなのかもしれませんが・・・。

 この世に生きている人は、迷うことなくこの世を中心に見たり、考えたりしています。人の脳は何かにしがみつきたくなるので、どんなことでも固定したがります。このお話の場合は、自分の主体を固定させるために、この世を中心に物事を考えるようにしています。

 詳細は省きますが、ぼくの両親はだいぶ前に他界していて、両親とも海に散骨しました。なので、多少のお供えの奮発ぐらいはしますが、年末年始もお盆もお彼岸も、何もしません。命日あたりにその海に行くぐらいです。潮風に当たって気持ちよくなりに行くだけですが。亡くなった直後でもお坊さんをお願いしませんでした。

 一度だけ、やたらネットやテレビなどで「供養」というワードが目につくようになり、ある夜、これを書いているこの部屋に、半透明の父親が出てきたことがあったので、近所の禅寺でご供養のお経をあげてもらってきましたが、それ以外は供養らしい供養をしていません。

 あくまでもぼくの個人的考えですが、人は生きてきたようにしか死ねないと考えています。善行や徳を積んできた人は望んだとおりの死を迎えるでしょうし、そうではない人はそうではない死を迎えます。普通に考えても、周囲から嫌われている人が、死の間際だけ愛されるということはすくないと思います。

 そして、肉体を手放したあと、つまり死後ですが、それも死の間際と同じように、生きてきたようにしか死後を体験できないと考えています。幸せに生きてきた人はその人なりの幸せな死後の世界で過ごされるでしょうし、そうではない人はやはりそうではない死後を体験するでしょう。自殺をすれば、本人がそれを理解するまで、その苦しみを背負い続けることになります。それは自殺にかぎらず、自分の死を理解できず、この世への未練や執着が強ければ強いほど、死後の苦しみは増し増しになっているようです。

 ぼくはそれに気づいたからこそ、自分なりに「生きる」を学ぶようになりました。死んだあとまで大変な思いしたくないですし、面倒なのも嫌ですしね。それをきっかけにいろいろ体験があり、学びもあって、おかげさまで今は毎日幸せに生きさせていただいてます。


 さて、あの世主体のこの世、というお話を続けてきました。

 しかしこの世を主体としている人たちは、この世の常識や科学を基準に、目に見えない世界を語ろうとします。ぼくが勝手に作った言葉ですが、「科学の箱庭」の中でなんとかしようとしています。

 自分が死んでもいない、臨死体験もしていない、心霊体験もしたことがない人が、科学や常識で答えにたどり着こうとしても、それは無理な話です。飛行機に乗ったことのない人が、飛行機の操縦を語るようなものだと、ぼくは思っています。

 この世の常識や科学を信仰する人たちにとって、目に見えない世界を語るのは門外漢なのです。ぼくは何度か心霊体験をしていますが、それだけではこんなお話を書くことはできないと思います。

 そう考えると、この世を基準とする人たちがする、宗教的な儀式や祭礼など、どんな意味があるのかと考えてしまいます。

 とくに宗教では、「これはこうでないといけない」とか「この文言でなければいけない」とか「このときはこの服装でないといけない」など、そのほとんどが形式化されています。形式化されている行動や衣装、決められた文言は、ぼくの目には、お殿様に仕える部下か軍隊のように見えています。

 個人的には、どんな形式でも、どんな服装でも、どんな言葉でもかまわないと思っています。なぜなら、あの世で大切なのは目に見える形ではなく、目には見えない心だからです。亡くなった人がこの世に見せる姿は、その人の心です。

 ぼくが供養をしない理由はそこにあります。

 仏壇はありませんが、洋服ダンスの上に亡くなった身内の写真を置いています。ぼくの両親と祖父母、うちの奥さんの父と祖父母、犬や猫の写真やら遺品やらを並べています。毎朝晩、写真を見て形だけですが手を合わせています。ぼくの供養は、ぼくが生きているかぎり「先立った人を忘れないこと」だと考えています。

 そう考えると、形も儀式も文言も必要ありません。ただ亡くなった人のこと思うだけでいいんです。ぼくの父親は、かなり気分屋で酒飲みだったので、生前は扱いが難しかったんです。それについて今でも、笑い話にはなってますけど悪口のように文句を言ってます。それでも忘れるわけではないのですから、供養にはなっていると思います。これが本当の供養なのではないでしょうか。

 お盆やお彼岸、とくに何の思いもなく、みんながやるから形に則ってやっておく。自分が亡くなった側だと考えたとき、そんな様子を見て嬉しく思えるでしょうか。聞いたことのない宗教的文言を長々と聞かされて喜ばしいでしょうか。もちろん生前に信心深く、自らも文言を唱えていたような人なら、その理解もあるでしょうし、ありがたみもあると思いますが、ぼくが聞かされても何も思いません。

 それよりも、「今の家族の状況を教えて」とか「あなたは今どんな状況なの?」と思います。とは言え、肉体がなければ自由ですから、家族よりも家族の状況を知っているでしょうけど。でも話しかけてくれるのが嬉しいのではないかと思います。

 この世は何もかもが、この世主体、物質主義、目に見えるものからの視点だけで出来上がっています。そういう一面は必要ですし、なければ大変だと思いますが、「それだけではないかも」という思考の余裕があればいいのに、と思います。

 ぼくたちが見ている人間の社会と、自然界から見ている人間の社会が違うように、視点が変われば、何もかもが変わってしまう可能性もあります。何事も固定したい脳のシステムに身をまかせることなく、広い視野と思考と心を持って、あらためてこの世を見てみてください。

 人生が行き詰まったような気がしたり息苦しく感じるのは、思考や心の余裕がないためです。「社会の箱庭」や「科学の箱庭」の中で、これがすべてであると思い込んで生きているのは、箱庭の外にある自由や無限大の可能性を放棄しているだけです。

 今あなたが信じている常識を、ほんのひととき外してみてください。そして、未来はどうなるか分からないということ、この世がすべてではないということ、目に見えない世界には自由と可能性が無限にあるということを、本気で考えてみてください。さらにできれば、すこしだけいつもよりポジティブな視点で生活してみてください。

 きっと、各種箱庭の存在や、あなた自身が愛のかたまりであることに気づくことができると思います。そのとき同時に、この世がどれだけ人間主体、社会主体、モノやコト主体であり、けっこうな傲慢であるかを知ることになります。

 スピリチュアル的な生きかたは、この人生から逃れるためのおまじないではありません。今もすぐあなたのそばに存在する当たり前の世界です。近所にあったのに今まで存在に気づかなかったコンビニみたいなものです。すでに気づいて通っている人もいますし、気づいてしまえば当たり前になります。

 視界に入っていても気づかなかったり、認識することができない。そんな状態が支配しているこの世なんです。

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