第66話 他力本願は信頼から

 人が生きていくのに、希望は絶対に必要です。明日があると思えるから生きていられます。明日がなければ今頃、かなりの多くの人が取り乱しているのではないでしょうか。

 人は明日を希望として「今・ここ」を生きています。明日に何かあるとか、何か起こるとかいうことではなく、ただ明日がきっと来る、それだけで希望になります。

 「明日が来るとかだけ希望になんかなるわけない」と思った方、大病を患って余命宣告を受けたと考えてみてください。余命宣告に明日ということはありませんが、一週間とか一か月といわれてからの時間、死へのカウントダウンでしかありません。そう考えると、明日があるということが、どれだけの希望になりうるか想像していただけると思います。

 明日と聞いてぱっと想像するのは、今日と同じような明日。平穏でいつもと変わらない風景の中で、いつもと変わらない自分が生きていられる環境。多くの人がそんなイメージをもつのではないでしょうか。

 しかし残念ながら、明日がかならず来るという保証はどこにもありません。目の前に神さまが現れて約束してくるようなことでもなければ、明日がかならずあるとは言えません。隣国が突然、侵攻してきた国の人々にとって、明日は想像していた明日ではなかったと思います。

 実はこの明日に対する思いというのは、希望ではありません。人によっては希望を含む場合もありますが、そのほとんどは「期待」です。

 文字どおりですが一応説明を入れさせていただくと、「希望」は望むこと、望んでいることです。願っている状態とか都合のよい見通しなども希望といえるかもしれません。そして「期待」は、誰かや何かまかせにそのタイミングを待っているだけの状態です。ぼくの認識なので辞書とは違う見解かも知れませんが、おそらくこんなところだと思います。

 期待は、時期を待つと書いて期待です。待っているだけです。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉もありますが、自分にやれるだけのことをやって待つのであれば、納得できる「待ち」になると思います。多くの人の「期待」は、簡単にできることだけをして、あとは待つだけです。「棚からぼた餅」という言葉のほうが近いかもしれません。

 期待しているという状態は、親鳥がご飯を運んでくるのを、空を見上げて待っているヒナに似ています。親鳥が近づくと一斉に口を開ける、とてもかわいい光景です。

 人も子供のころはそういう環境であることが一般的ですが、そこそこ年齢を重ねてくると、そういうわけにもいきません。何もせずに空を見上げていてもご飯は落ちてきません。これは物質世界も霊的な世界も同じです。


 ぼくが今の生きかたをするようになって痛感していること、それは「他力本願は通用しない」ということです。

 たとえば、日本の仏教でもいろいろな宗派があり、お寺の本殿には仏さまが安置されています。宗教者は当然ですが、多くの一般の方も信仰されています。仏さまにすがることで願いを叶えてもらうというのが定番ではないかと想像します。

 でもぼくは仏さまに会ったことがありません。不動明王さんは夢の中でお会いしたことがありますが、それ以外の如来や菩薩などには会ったことがありません。会ったことがない存在が、どうして願いを叶えてくれると思うのか、それが疑問なんです。

 現代にまで伝わっている宗教の教義の多くは、その開祖となる方が直接書き残したものではなく、弟子をされていた方が、書き残したものが多いようです。さらにそれから後世の人が書き足したりしていることもあるようです。その教義をどこまで信用できるのか、という疑問もあります。とくに西洋の大きな宗教は、その時代その時代の権力とも絡み合って、どこまで真実に近いものが残っているのか分かりません。

 そういったことから、ぼくは神さまでも仏さまでも、お願いすれば救ってくれるというのを放棄していました。これはぼくがまだ禅の思想と出会うはるか以前、小学校高学年のころでした。

 なぜそう決めたのかというと、当時のぼくはまだ亡くなった半透明の方をわりと見ていましたが、そのほとんどの方に苦しさやつらさがにじみ出ていました。亡くなっているのにつらそうという状態に違和感があったんです。

 ウロウロしているということは成仏していないということですから、じゃあ仏さまはいったい何をしてるんだと、当時のぼくは思いました。それで神さま仏さまはそういうことじゃないんだと納得して、きちんとした気持ちで神社仏閣に行くことはなくなりました。建築としては好きですけど、今でも初詣は行ってません。

 そんな幼少期から一〇年ほどのちに、禅の思想と出会い、自力本願を知り、さらにそれから二〇年ほど経って、小さな悟りにたどり着きます。そのとき他力本願の難しさをあらためて知りました。

 宗教であれ人生であれ、他力本願には「期待」や「依存」が含まれています。極端な言葉を使えば、「期待」も「依存」も人まかせであると言えます。

 イヤな言いかたになりますが、「楽して幸せになりたい」とか「自分は今のままで幸せを享受したい」、それが人まかせであるということになってきます。

 信仰すること、それは出家や五体投地に見られるように、全身全霊で帰依しなければ信仰とは呼べません。そこまで出来るのであれば、最初から期待や依存がない人だとは思いますが。

 なので、「高額なお金を寄付したから」とか「こんなにもお経を唱えたから」というのは、「楽して幸せになりたい」ことのあらわれです。宗教が十把一絡げで世間から白い目で見られるようになった一因でもありますね。

 既存の宗教で寄付やお布施というのは、仏さまにお金をあずけることで自分の厄を引き取ってもらうという意味があります。そう考えると、いくら寄付しようとも仏さまが喜ぶわけではありません。またお経はきちんと意味を理解し、噛み締めるように唱えなければ、九九みたいになってしまいます。回数より深さが大切なんです。

 宗教とは、人生を学ぶための学校です。幸せにしてくれるところではないということをまず理解しておかなければ、何の意味もありません。


 人が幸せになる方法はいくらでもあります。いつでも、誰の目の前にでも幸せが転がっているんです。それに気づくかどうかだけです。気づくためには物質主義的な視点を変えなければなりません。それだけで幸せが手に入ります。

 今が幸せではないという人は、物質主義的な視点の端っこまで行ってしまったのだと思います。だったらこれ幸いにと、視点を変えてみればいいんです。

 どうすれば視点が変わるのか。ぼくのお話もすこしは何かのお役に立てるのではないかと願っていますが、ぼくのお話は自力本願です。普段のシステム化された考えかたや行動の仕方を変えることが主です。極力、お金も時間もかけたくなくて、しかも面倒なのはイヤで、ぼくはそういう方法を自分でいろいろ試しながらやってきましたから、どうしても自力になっています。

 人によっては、自分では変えられないかもしれない、と思い込んでしまっている方もいるのではないかと思います。そういう人のために他力本願があります。

 先ほども例にとして宗教のことを書かせていただきましたが、宗教に関わることもひとつの手だと思います。お金も時間もかかると思いますけど、どうしても、というのであればそれもアリなのではないでしょうか。

 そしてもうひとつ。自分なりの他力本願という手もあります。

 これはスピリチュアル的なアプローチですが、天使やアセンデッドマスターなどの力を借りるという方法です。アセンデッドマスターについてはネットで調べてみてください。有名人ぞろいです。

 天使やマスターの力を借りると言っても、「楽して~」ということではありませんが、もう一歩が踏み出せないとか、危機的に困っているときなどは効果てきめんで、背中をそっと押してくれたり、力を貸してくれたりします。

 ぼくはお風呂で瞑想します。一日のうちで最もリラックスしている時間を狙っています。もう数年前になりますが、会うための方法というか瞑想中の思考の仕方というのがあって、その実験を続けていました。

 この瞑想中に天使の数人、マスターの数人に会うことがありました。そして彼らにはぼくの知らないことを教えてもらっていました。

 はじめは自分の妄想かと思っていましたが、自分が知らないことを話されると、信じるしかなくなります。それからは今もそうですが、仲の良い友人のように付き合わせてもらっています。ちなみに、天使もマスターも崇めたり、奉ったりする相手ではありません。そう本人たちが言ってました。「すべてはひとつである」ということだと思います。

 そうして、実際にぼくは会ってしまったので、そういう存在があるんだということが分かりました。なので、出会ったことがなくても、そういう存在があるんだと信頼して、お願いして感謝すれば、力を貸してくれる可能性があると思います。ぼくは何度か危機的なときに助けてもらっています。そういうときは自分では想像できない流れが生まれて、あれよあれよと話が片付いていきます。

 そこに必要なのは圧倒的な信頼と、期待ではなく希望です。「何か起こってくれ」ではなく、「何か起こる」という確信があれば、彼らも背中を押しやすいのだと思います。

 ただ口を開けて待つのではなく、目に見えない力やエネルギーを信じて、自分にできるかぎりの一歩を踏み出す。これが他力本願の本質ではないかと思います。

 宗教であっても、文言を読み上げればいいのではなく、それによって自分が変わるのだという確信を持ちましょう。確信は、誰かがかならず背中を押してくれます。

 人生は自分のものです。口を開けていても誰も食事を運んできてはくれません。でも、自ら行動して、上手くいかないとき、行先に迷ったときは、きっと誰かが手を貸してくれます。それが神さまでも仏さまでも、天使でもマスターでも、両親でも親友でも、なんでもいいんです。

 本質はあなたの人生が幸せであること。そのために宗教も天使もマスターもご先祖さんも、いつだって近くで待機してくれているんです。

 目に見えない世界を、もうすこし信頼して、試してみてください。

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