第45話 「目に見えない存在」の推論
このお話はあくまでも推論です。事実とは違うことも考えられますので、あくまでもぼくが考えだした机上の空論として、ご了承いただけるとありがたいです。
「目に見えない存在」の有無については、読んでくださってる皆さんに結論をお預けします。ここではぼくの「何かしらある(仮)」という結論を元にしてお話を続けさせていただきます。
目に見えない存在としてぱっと思いつくのは、霊的なものや天使でしょうか。
霊的な体験をされた方の中には、しっかり目撃した人も多いですし、話をした人、握手などで相手に触れた人など、体感的な体験をされた方もかなりの事例が世に出回っています。中には虚偽報告もあるかもしれませんが、それにしたって数が多すぎると思っています。
霊についてはいつかのお話で書いたような気もしますが、あらためてもう一度、すこし内容を加味したりして書かせていただきます。
ぼく個人の考えとして、霊は「思い」ではないかと考えています。亡くなった人の残り香というか、目に見えない遺産というか、その人の個性みたいなものが、念、あるいは心みたいなものとしてこの世に残っていて、それをいわゆる霊感のある人がキャッチして脳内で画像や音声を再構築するのです。
人の痛みが分かりすぎるという気質があります。HSPと呼ばれていて、人工の約二十パーセントの人、つまり約五人に一人はこの傾向があるそうです。これは気質であり、先天的に持って生まれたものだそうです。
ぼくはこのHSPの延長線上に霊感のようなものがあるのではないかと考えています。
人の痛みや変化に敏感で、共感しやすいというところは、霊的な存在をキャッチすることに非常に重要な感性です。
敏感過ぎるがゆえに、その場所や物に付着する思いを、脳が勝手に感じ取ってしまう人を霊能者というのではないでしょうか。
「ただならぬ空気」とか「ただならぬ気配」という言葉がありますが、そういう状況や場所というのは、多くの人が感じ取れるのではないでしょうか。もうすこし敏感な人だと、たとえばホテルなどの部屋に入った瞬間に「ここイヤだ」と思ったりするようになります。霊的なものに遭遇する前から感じ取ってしまうのは、その敏感さゆえでしょう。
目で見て何かいる、というのは五感によるものですが、ホテルの部屋のたとえで言うと、まだ、何も見ていない、何も聞いていない、何も嗅いでいない、何も味わっていない、何も触れていないという、五感には一切感じるものはない状態で、イヤな感じを受け取っていると考えると、やはりHSPの延長線上にある第六感的なものではないかと考えてしまいます。
すこし話がそれましたが、その場所や物などに付着する思いというのは存在するということになってくるのですが、ぼくの考える霊的な存在がこれなんです。
人は死ぬと肉体的な機能を失います。肉体的な機能を失うということは、脳も活動をやめてしまいます。当然ですが五感の機能も同時に失います。しかし、心やエゴというのは残ります。元々カタチの無いものですから滅びるということはありません。
心やエゴは、死を受け入れていればスムーズに「魂」の本体に戻ることになりますが、死を受け入れられない場合や、自分の死を理解していない場合、いずれは「魂」本体に戻りますが、死を受け入れている魂と比べると、物理的に時間がかかります。
時間がかかっているあいだに何をしているかというと、たださまよっています。自分という意識はあるのに肉体はありません。自分が存在していることは分かっていても、周囲の人は誰も自分に気づかない状況ですから、気づいてくれる人を探してさまようわけです。誰もが霊感に長けているわけではない上に、霊的なものを否定している人にいたっては、しっかり見ることができていても、幻覚を見たとか、見間違いをしたという結論にしてしまいますから、亡くなったほうとしては、なんとか「私はここにいる」ということを伝えたくて、さまよい続けることになります。真の孤独は本当につらいものですからね。
そうやって亡くなった人の意識が、思い入れのある場所などにとどまります。それを霊感のある人が肌感覚というのか、第六感というのか、そういうものでキャッチして、脳内で画像や音声、匂いや触れられた感覚などを組み立てます。五感センサーの誤作動みたいな感じかもしれませんね。
つまり霊的なものは亡くなった人の「心」であり、人の形をしたものではないと考えています。
昔、海外の実験で、死刑囚を被験者にしてベッドに固定し目隠しをします。実験者は熱湯だったか焼け火箸だったかを当てると言って、何かが焼けるような音や匂いだったり、熱を感じさせるようなことをしてから、氷水だったか氷だったかを足に当てると、やけどしたように水ぶくれができた、というお話があります。
人間の体はすべてセンサーとしてだけ機能していて、それが何であるかを判断するのは脳です。視覚以外の情報だけを元にして脳が判断すると、氷でもやけどの水ぶくれができる可能性があるのです。五感で受け取っている情報をまったく信じない、というわけにはいきませんが、面倒でも、自分の幸せに関わるようなことは、いちいち確認しておいた方が無難だと思います。
それから、いわゆるあの世と呼ばれる、この世を含んだ上での非物質世界は、非物質なので時間や空間という概念がありません。違う場所に同時に現れることも、時代をまたいで現れることも、とくに不思議なことではありません。この時代に武士の霊が現れても、「よほど思いが強いんだろうな」ということです。それが恨みなのか伝えたいことがあるのかは分かりませんが、そこに存在することに驚くことはないということです。
「魂」のお話でも書きましたが、この世には空気のように魂が満ちています。思いがどこに残っていても、どんな体験をしても不思議ではありません。
そして、天使のお話です。
こちらは霊的なものとは存在が違います。霊的なものは元々人であって、そこにエゴや思い出など、肉体の記憶があります。
しかし天使は、元々物質世界に存在していたというわけではありません。最初からファンタジー的な世界で存在しているだけです。元はケルトの神話らしいですが、途中でキリスト教が取り込んだようです。
結論から言うと、天使というのは、エネルギーではないかと考えています。
エネルギーとするならば、やはりカタチはありません。なので、天使の絵画などを見ても、赤ん坊からおじいさんまでたくさんの作品があります。もちろん画家の想像力の賜物でしょうが、幅が広すぎます。誰もちゃんと固定された天使の姿を想像することはできない、つまりカタチがないからいろいろな受け取りかたをされる、と考えるほうが、いろいろスムーズに考えることができます。
天使に会ったとか会話したというお話もありますが、これは先ほどの霊的なものと同じシステムで会ったり会話しているのだと思います。超敏感な人が天使であるエネルギーを受け取って、脳内で変換、再構築したとすれば、脳内で会うことも会話することも可能です。ただその姿は人それぞれになるでしょうが。
とすると、天使というエネルギーは、霊的な存在である心と同じなのかという疑問が出てきます。
ぼくは系統は同じだと思っています。物理のお話で例えると、密度が違うとか、濃縮度が違うとか、伝導性が違うとか、そういう違いがあるだけだと考えています。モノは同じでも密度が違えば、普通の石と軽石のように、水の上に浮くものと底に沈むものに分かれますが、その程度の違いだと思います。
そもそもカタチを持たない天使ですから、それは「創造主」と同じで「すべて」であるということになります。すべてであるのなら、いつも、そこかしこに存在していることになります。
先ほども書きましたが、この世は空気のように「魂」が充満しています。この魂と天使は基本的には同じ系統のエネルギーです。そう考えればどこにでも天使がいるというのは理解できるのではないかと思います。
天使は「魂」と同じエネルギーではありますが、決定的な違いがあります。それはエゴと無縁であるということです。肉体がなければ脳もありませんから、エゴも生まれません。ある意味、純粋培養の魂と言えるかもしれません。
そしてもうひとつ、純粋培養ゆえの、ということかもしれませんが、すべてをポジティブな状況や状態にするため、奉仕が当たり前のようです。実際のところ、ぼくにも理由は分かりませんが、人助けをしてくれます。本当に困ったとき、助けを求めると、そのことについてだけは、かなり簡単に解決します。これは実体験です。
ちなみに助けを求めるときは、場合にもよりますが、本当に生命の危機などの緊急事態の時は、助けを求めただけで大丈夫なようですし、まだいくらかでも余裕があるときは、助けを求めた上で「助けてくれてありがとう」と感謝の意を伝えておくと、さらに手早く助けてくれるようです。これも実体験です。
そのときに必要なアイデアが浮かんだり、とりあえずあてもなく動いてみると、想像していたよりもスムーズに、より素晴らしい結果に導かれることがあります。「~ことがあります」というのは、こちらの意図が整っているかどうかという問題があるので断言できないためです。
天使たちにはまったくエゴがないので、ポジティブ・オンリーです。ポジティブ同士で気が合ったから、「ちょっと手伝うよ」的な結果なのかもしれません。
個人的には、天使は存在しますが、絵に描かれているような人のカタチではないようです。創造主は何もしてくれないので、天使に助けを求めて、危機を乗り越えることができていますが、その姿を見たことは一度もありません。
瞑想時に何度か姿を見ていますが、それはぼくの脳内にある情報から組み立てられた姿ですから、それが正解とは言えません。
霊的な存在も天使も、物質世界、物理のルールだけを信じているかぎり見ることも出会うこともありません。信じないのは人の自由ですが、存在しないと否定するよりは分からないとしておくほうが、今後いろいろな機会に恵まれるのではないかと思います。
すべてはひとつであり、霊も天使も人も、すべて根源は同じものである、と考えると、何が存在していてもとくに不思議なことではないのだと思います。
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