第42話 社会がなくても人は生きる
想像しながら読んでみてください。
あなたは今、無人島にひとりで生きています。
あなたの記憶のもっとも古いものを思い出しても、最初からひとりです。
果実や野菜、木の実など、一年をとおして食糧には困りません。枯れることのない湧き水もあり飲み水も確保できています。
住むところは洞窟ですが、生活スペースは基本的に快適です。室内の明かりは雨の降りこまない、横に開いた天窓的なものがあり、よほど曇ってなければそこそこ明るく過ごせます。もちろん夜は焚火などできますが、部屋の照明はそれだけです。
お金を稼ぐための仕事はありません。無人島にひとりですからお金を作りようがないですし、社会がないので通貨という概念がありません。
通信手段もありません。誰もいないですから通信する必要がありません。
時間に追われることもありません。そもそもカレンダーや時計がありません。なので、「誰かと約束」ということもなければ、出勤時間という概念もありません。
衣服は身につけていますが、葉っぱや木の皮をやわらかくして編んだものです。自分ひとりですので裸でも問題ありません。
移動手段は徒歩のみです。
自分で工夫して道具を作ることはできますが、あくまでも原始的な道具であり、電気を使うものや、自分が持っていない知識から生まれるものは作れません。
気候は日本のように一年間で四季があります。
死ぬときはひとりで、こっそり死にます。
頭の中でイメージしながら読んでいただけたでしょうか。
ひとりの人間の人生です。今もまさにその中にあなたは生きています。
人は生まれたときから社会の中にいます。社会での生きかたを学ばされ、社会での役割を与えられます。社会の歯車となり、数十年にわたって必死に動き続けますが、役に立たなくなると、急に社会から放り出されます。これが現代の日本社会です。
学校などでは社会人として生きることを主軸にして、学びが行われます。しかしそこに、人として生きることの意味や価値を学べる授業はありません。
人が成長するということは、心や思考も同じように成長するべきだと思います。
肉体的な面では、食事があって、あとは生活環境さえ整っていれば、まずまず育ちますから、ある意味、餌をやっておけばいいという状態です。
しかし精神的な面は、ほとんど無視されています。今はどうか知りませんが、以前は学校教育の中にも道徳や倫理という授業はありました。しかしほとんど記憶に残らないレベルです。
社会という枠の中では、「肉体的には育ててやるから、心や思考は自分でやれ」と言ってるような状態です。
でもこれは仕方のない一面があります。いつからかは分かりませんが、おそらく近代化したころでしょうか。日本は物質至上主義になってしまい、目に見えないものは存在しないというような考えが広まってしまいました。
幽霊や妖怪を否定するのは、まだ理解できるとしても、心や精神など、人に備わっているものまで否定してしまうと、肉体ばかりが完成した、中身のない人間ばかりができてしまいます。
あまり言いたくはないですが、現代はそんな状況だと、ぼくは思っています。
誰もが、社会という枠こそが「生きる」ことのすべてだと信じているように見えますし、科学が理解していることがこの世のすべてだと信じているように見えます。
ちょっと考えてみてください。誰もいない無人島であっても、条件さえ整っていれば、人は生きることができます。ひとりですから社会性はゼロです。社会がなくても人は生きるんです。そう考えると、社会の枠がすべてであるという考えは、すこし違っているような気がしてこないでしょうか。
また、科学というのは、起こっている現象を理論立てて解明したり、何かの現象に対してすべての人が同じ答えになることが最低限のルールです。しかし現実は、まだ科学で解明できていないことがまだまだありますし、「偶然」や「たまたま」、「奇跡的」ということもかなりの頻度で起こっています。もちろん天文学的な確率での結果ということはありますが、その場合、「すべての人が同じ答え」という部分が揺らいでしまいます。つまり、今現在、科学がすべてを把握しているわけではない、ということになります。
社会という枠組みも、科学という枠組みも、人が集団で生きるときには有効な手段ですし、今となっては必要不可欠ですが、その反面、それがすべてではないということも言えるわけです。日本史だけで科学は理解できませんし、その逆もまた同じなんです。つまりそれは、学問の一ジャンルでしかない、ということです。
心を学ぶことがないまま、人は成長し大人になり、その大人に子供が生まれ、自分が知っていることだけを伝えていきます。心を学んでいない大人ですから、その子供はさらに心の学びを知ることがないままになります。それを繰り返してきた結果が現代ではないでしょうか。
心の学びがないとどうなるか。それは人間関係の破綻がメインとなります。「相手の立場になって考える」とか「相手を思いやる」など、相手の心をくみ取ってこちらの行動を決めるという学びがないわけですから、自己主張や自分勝手な考え、承認欲求など、自己中心的な判断や選択基準によって、人格が形成されてしまいます。誰もがそんな思考をしていては、円滑な人間関係などできるはずもありません。
また、心の学びがないということは、学校教育で教えられたことがすべてとなり、社会以外の生きかたを知る機会がありません。社会百パーセント、科学百パーセントという考えしかないんです。それは目に見えるものだけで物事を捉えるということであり、目には見えない人の心や気持ち、愛や生命について分かるということはないということです。頭の中では理詰めによって気持ちや生命を理解していても、現実の気持ちや生命については何も知らない状態ですから、無茶なことを起こしたり、精神的に病んでしまったとしても不思議なことではありません。
人が「生きる」というのは、社会の中だけではありません。無人島にひとりでいても生きることになります。
社会の中の利便性や快適さの中で暮らしているうちに、忘れてしまいがちですが、利便性や快適さは、「生きる」という観点から見れば付録のようなものです。便利ではなくても人は生きてきましたし、快適さがなくても人は生きています。
現代の人たちが背負っているものは、この付録の部分が多くなっていて、まるでヨロイの重ね着のようになっています。見栄を張り、虚勢を張り、世間体を気にして、周囲が期待する自分を演じて、嫌われないように気を遣って、疲れた作り笑顔で仕事や学校に行って、家に帰る。これは完全にエゴの生み出したヨロイの重ね着です。
便利な生活のためにお金を稼ぎ、快適さのためにお金を稼ぐ。それが悪いということではありませんが、そのためにもっと本質的な部分、たとえば自分の思いとか希望など、そういうものを犠牲にしてまで付録が必要かどうかという疑問が、ぼくにはあります。
そのせいで、本当の自分にフタをして、周囲の視線を気にして、嫌々でもしがらみに巻きつかれて、クタクタになってイライラして、誰かや何かに八つ当たり。それが幸せな人生と言えるでしょうか。
今さら利便性や快適さのすべてを捨てることはできないと思います。しかし、人生の主軸になるものが、自分ではなく現代的な生活ということであれば、人生が上手くいかなくても文句は言えません。人生の主役を現代的な生活に明け渡しているわけですから。
社会がなくても、利便性が思ったほどでなくても、快適さがほどほどでも、人は生きています。なぜなら人生の主人公はいつでも自分だからです。それぞれの自分という存在が、それぞれの人生の主役をしていて、それが重なってこの世が構築されています。
まずは重ね着をしているヨロイをすこしでも脱いでいきましょう。すこしずつでも脱いでいけば、身をもって足取りが軽くなっていくのを感じられます。これは体験的に、本当に身も心も軽くなっていきます。
今の世の中は、企業による影響が大きく、必要のなかったはずの利便性や快適性がないと、まるでダメだと言わんばかりです。企業としては当然の戦略でしょうが、個人的に考えたとき、「足るを知る」ということも、自分のストッパーとしてあったほうがいいような気がします。
優先して求めるのは、人生における幸せや喜びであり、利便性や快適性はそのあとでいいはずです。自分が身をもって幸せであると体験してからでも、利便性は遅くありません。
「生きる」ということは、幸せであるということです。それを後回しにしてしまっては、生きている意味を見失います。そして利便性や快適さで得られる幸せは、一時的なものであり、心に刻む思い出にはなり得ません。
無人島にひとりで生きていると考えたとき、つまり社会的なものや現代的なものの概念が一切なかったとしたら、あなたは何を求めるでしょうか。
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