第38話 宗教について

 スピリチュアル的な話ばかり書いていますが、ぼくはスピリチュアリストではありません。宗教家でもありません。こんな言葉があるかどうか分かりませんが、「人生研究家」とか「幸せ探究者」かもしれませんが、肩書はいりません。とにかく「人が生きるとはどういうことか」を探している人です。

 幼稚園のころからピラミッドやミイラに魅せられて、とくにミイラからの流れで死に興味を持ち、そのころは亡くなった人も見えることがあったので、余計にのめり込んで、いまに至っています。ちなみに、最初の「小悟」があったころから徐々に亡くなった人は見えなくなってきて、今は気配を感じることがある、という程度です。

 そういった人生ですから、スピリチュアル的な本やチャネリングに関する本、そして、宗教関連の本は浅い読みかたかも知れませんが、いろいろ読んで学びました。

 そうした中で気づいたことをすこし。

 ぼくは宗教が苦手というか嫌いというか、あまり良い印象は持っていません。それは当然なんです。ぼくの場合、自分が自分の人生の「創造主」であることを知っていますから、何か目に見えない存在を頼るということがありません。もちろん社会の中で、物理的に誰かに頼ることは当たり前にあります。しかし、自分の人生について誰かを頼ったり、依存することはありません。

 若いころは占いなども好きで、いろいろ見たり調べたりしていましたし、自分でもタロットカードを使っていました。今はもう触ることもないですが。

 「自分の人生は自分が創造している」、ということが、本当の意味で分かると、そういうものがムダだということになってしまいます。明日の自分は自分が創っているんですから、好きなように創りたいわけです。誰かの意見など必要ありません。

 まとめてしまうのは乱暴ですが、占いや風水、ほとんどの宗教は、自分を信じきれないので自分のすることに責任がもてず、その怖れから第三者に責任を持ってもらいたい、という考えになり、いろいろ頼ったり依存しているように思います。

 それが悪いということではありません。自分では背負いきれない何かというのもあると思います。でもぼくの場合、この世に答えのない問題はないと考えていますし、その瞬間に答えは出なくても、いったん棚上げしたり、見てみぬふりをして時間を稼いでいるうちに答えに出会ったりしています。まず「受け入れる」ことにして、冷静に考えてみれば、抜け道だったり、ド正論の答えが見つかったりしています。

 さて、以前のお話でも書きましたが、ぼくは禅宗のひとつである臨済宗の修行のひとつ、「公案」によって小さな悟り「小悟」を得ました。これが本当にそうなのかどうかは分かりません。ぼくの師匠は本なので、この「小悟」が本物かどうかは答えてもらえるわけもありません。しかし、知識や知性では理解できない体験したことは事実なので、「小悟」したと信じるようにしています。

 にもかかわらず、宗教自体は苦手というか嫌いなんです。

 あくまでも「ぼくは」ということですが、何かの象徴的なもの、たとえば形や像などに依存する形の宗教では、ある決まった思考状態、たとえば百パーセント信じているとか、宗旨なり教祖なりを盲信しているということにならないと、幸せを感じることはないと思っています。そしてそのすぐあとにやってくる「もっともっと」という渇望。そういった依存状態になることが危険に思いますし、その人の人生を奪ってしまうものとして感じてしまうので、苦手意識があります。


 宗教とは本来、学びの場所だったはずです。

 たとえば、奇跡を起こす人がいたとして、誰もが同じ奇跡を起こせるのでそのやりかたを伝えます、ということになり、それを学ぼうと人が集まってきたはずです。

 おそらくその奇跡とは、人が幸せに生きる方法であり、豊かになる方法だったと思います。空中に浮かんでも、空腹は満たされませんからね。最初のうちは、多くの人がまじめにその方法、きっと「引き寄せの法則」の利用の仕方などを違う形ではあったでしょうけど、学んでいたのではないでしょうか。

 いつの時代も浅はかな人というのはいるものです。それが権力者か金の亡者かは分かりませんが、その奇跡を起こす人を利用して、自分の権力や富を大きくしようと考えた結果、誰もが奇跡を起こして幸せになれる、ではなく、奇跡を起こす人にあやかる、という形に変化させました。

 今もそうですが「引き寄せの法則」を利用するには、思い込みを外したり、「今・ここ」に生きるようにしたりと、これまでとは違う思考で生きなければ難しいものです。「私は貧しい」と考えている人の思考を、「私は豊かである」と変えなければなりません。しかしそれは他の誰かができることではなく、本人の意識の在りかただけが変更を可能にします。それがなかなか上手くいかない人もいたのでしょう。

 多くの人が、なかなか結果が出ないことで、やがて奇跡を起こす人がなんとかしてくれるという考えかたに変わったとき、宗教は現代の形になったのだと考えます。

 洋の東西を問わず、現存している宗教のほとんどは依存型です。何かの像や形、あるいは文言や儀式、物品にすがるような形のものがほとんどです。

 しかし先に書いたとおり、自分の人生は自分で創造しています。自分の幸せも喜びも、豊かさも安心も、すべて自分が創りだしているわけですから、何かに依存したところで、その思考が変わらなければ何も変わりません。


 現代の宗教の多くが、決まった形、決まった儀式、決まった文言など、いろいろなルールがありますが、本当にそれが必要なのかがぼくには分かりません。

 「創造主」とは「すべて」です。すべてとはこの世の森羅万象だけではなく、まだ人類が知らない宇宙の果ての果てや、まだ人類が知らない違う次元も含めての「すべて」です。

 その創造主が「崇拝しなさい」とは言いません。言う必要がないのです。

 創造主は崇拝や尊敬の対象ではなく、ひとつの大きなエネルギーです。そもそもカタチとして存在していないのです。それは「すべて」であるからこそ、何か決まった一定のカタチとして存在しようがないんです。不思議なもので、カタチとして存在していないものは崇拝されません。崇拝できないと言ったほうが正しいでしょうか。

 奇跡を起こした人も、すべてを分かってしまった人も、誰かにあなたを変えてもらいなさいとは言ってません。あなたが自分で変われるように、こちらは知っていることを伝えますね、というだけです。というか、あなたを変えられるのはあなたの意志だけですから、その道順を伝えるぐらいしか方法がないんです。

 「自分で変わる」、その意味がわからないエゴイストたちが、その伝説的な人たちのしたことを文章に残したところで、視点の違うそのお話で、いったい何が伝わるのだろうと思ってしまいます。結局、神や仏という大雑把なくくりにして、依存させる方法しか伝える術がなかったようですが。

 そこにお金や権力、地位や名誉など、エゴ満載のモノが欲しい人たちの力が加わって、形や儀式、文言などが用意され、このシステムに則っていればうまくいく、という流れができてしまったのでしょう。また、カタチがあることで、信じることがしやすいので、人々もすがりやすかったのでしょう。今もそうかもしれません。

 ぼくの知るかぎり、自分が幸せに生きるために、豊かな毎日を過ごすために、形も儀式も文言も、何も必要とはしていません。生贄なんて論外です。別の魂を不幸にして幸せになれるわけがありません。すべては責任逃れです。

 ルールが細かく設定しておけば、たとえ上手くいかなくても、結果が出なくても、偉い人たちは「信仰が足りない」とか「儀式どおりにやっていない」と、いくらでも言い逃れができますしね。そもそも初期にそういうものはなかったはずです。


 宗教は学びの場です。伝える側も長い時間の中で忘れてしまっているようですが、「生きる」を学ぶ場です。日常の思考の在りかたや行動の方法を学ぶ場です。けっして、誰かに奇跡を起こしてもらったり、救ってもらったりする場ではありません。

 学ぶべきは、あなた自身が、「自分で自分の人生を創造している」ということと、その本質である「すべてはひとつである」ということです。

 固有名詞は出さないように気をつけていますが、ぼくは臨済宗の公案という禅問答によって、人生が変わりはじめました。おそらく曹洞宗も同じような考えだと思いますが、本物の禅の思想だけは、個人的に自信をもってお勧めできます。カタチのことではないのでお間違いなく。

 世の中にはいろんな宗教がありますが、他の宗教とは違い、禅は仏や経文への依存ではなく、自分で自分を磨くことを教えています。臨済宗の公案は「自分だけのモノサシ」を破壊して、人の思考のさらに向こう側を体験して分かるためのものですし、曹洞宗の座禅は思考を整える中で「今・ここ」と一体化して、「すべてはひとつである」ことを分かるためのものです。

 ただ最近は、形や儀式に執着しがちで、本質を忘れているような気がしてしまう昨今の姿が、すこし残念な気がしています。それでも自分を磨くのなら、元々の禅の思想はお勧めです。

 誰かが何かをしてくれるという期待は、「自分が不幸である」という意識の裏返しですから、「引き寄せの法則」は意識の根っこにある「不幸である」未来を創造してくれます。期待するというのは他力本願であり、他人は何もしてくれません。してくれないというか、出来ないのです。

 自分の人生は、自分でしか変化させることができません。「スイッチ」としての宗教なら意味もありますが、ただの依存で、手を合わせるとか祈るだけでは、根っこの意識が現実化するだけです。


 最後に、この記事は宗教を否定するものではありません。宗教を伝えるほうも受け取るほうも、本来の目的である「学びの場」であることを忘れては、何も変わりませんよ、というお話でした。

 そして、繰り返し書かせていただいてますが、ぼくは無宗教ですし、どこにも属していません。信仰しているのは、自分の体験と知識です。臨済宗のまわし者ではありませんし、反宗教活動家でもありません。幸せを模索する一般的ではないかもしれませんが、普通の人ですので、勘違いのございませんように。

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