第36話 運命という名の青写真

 一般的に、人生には「運気」や「運」または「運命」というものがあると言われています。生きているあいだには浮き沈みがあり、いいときもあれば悪いときもある、というものです。

 ただ、ぼくはないと思っています。

 自分の人生は自分が創造しています。

 自分の思考が設計図となり、創造主の力で現実化し、体験します。

 こういう書き方をするとファンタジーな感じですが、現実的な言いかたをすると、人は自分が考えているように、あるいは信じているとおりに行動するものなので、自分でも気がつかないうちに、考えている方向に進んでしまう、ということなんです。

 以前にも書きましたが、すこしだけ復習を。

 あなたが道を歩いていて、「次の四つ角を右だな」と考えたとします。その角につく頃、あなたは自然に右に曲がっていきますよね。「ここで右に曲がれるだろうか」とか、「右に体重移動しなければ」と考えることはないと思います。

 その脳のシステムを利用すれば、自分の人生をコントロールすることは可能ということです。

 ただし注意点。自分の希望や夢が手に入るということに対して、一瞬でも不安になったり、疑ったりすると台無しになります。四つ角を右に曲がるときと同じです。右に曲がるという行為に不安をいだくことはないですし、疑うことはありません。

 不安や疑うということは、「こんなことで本当に夢が叶うのか」とか「自分には無理ではないか」などという考えがあるわけです。つまり、「夢は叶わない」とか「自分には無理である」という部分が意図になってしまうわけです。先ほども書いたとおり、人は信じているとおりに行動します。信じていることは自分でも気づかないことが多々ありますし、変更するのも簡単ではありません。どのみち、その意図どおりの体験をすることになります。

 とりあえず、ネガティブな意図が現実化したとしても、「本当に思考は現実化するんだ」と思えたら、学びになりますし、「引き寄せの法則」が機能した証拠にはなります。

 人生は「類は友を呼ぶの法則」と「引き寄せの法則」によって成り立っているようなものです。自分の人生は自分の意図によって創られているのであり、それ以外の周囲の影響というのは、自然災害をのぞいて、あなたがそれを自分の人生に取り込むかどうかを選択するだけです。

 極端な例になりますが、誰か近い人が亡くなったとき、葬儀に参列するかどうかを決めるのはあなたです。一般的には参加して当然ですが、行くと決めるのはあなたであって、法律での罰則規定があるわけではありません。会社の飲み会、あなたは行きたくないと考えていて、それでも参加する、それもあなたの選択ですし、参加しないのもあなたの選択です。

 もちろん社会という枠の中のことですから、しがらみや後々の付き合いなどのこともあるでしょう。どんなことであっても、今回の出来事について、あなたがあなたの人生に取り込むかどうか、という選択を繰り返しています。

 なので、「運」や「運命」存在しないということになります。

 幸運な出来事の場合は、あなたの過去のポジティブな意図が、必要なタイミングで現実化しただけのことです。過去のあなたがずっとポジティブであれば、その後の人生は幸運としか思えない体験しかなくなります。ただそこまでポジティブでいられる世の中かどうかというのはありますが・・・。

 そして「運気」という言葉は風水などでよく聞く言葉ですが、「運」というものが存在しないので、「気」だけが流れています。

 「気」というのは「愛」や「魂」のことで、この世に愛があると考えれば、巷を流れていても、なんら不思議なことではありません。

 流れている気も結局は「愛」なのでポジティブなものもネガティブなものもあります。「愛」を簡単に説明すると、人の気分や感情のバロメーターの名前です。ただのバロメーターですから、いわゆる「愛」や「好き」から、「怒り」や「憎しみ」まであるわけです。

 これらはあなたの信じていることや思考によって、どちらが寄ってくるのかが決まります。これを「類は友を呼ぶの法則」と言います。

 元々、風水というのはその家で暮らす人が過ごしやすい環境を作るためのもので、おまじないの類ではありません。今風に言えば住環境プロデュースみたいなことになるでしょうか。

 整った過ごしやすい住環境で暮らしていれば、気分も良くなります。気分が良くなれば、「類は友を呼ぶの法則」によって、気分の良い「気」が集まります。おそらくこれが風水の原点ではないかと考えています。


 「運命」というものはないと言っても、運命的に感じることがあるのも事実です。どうしても避けきれない人生の障害が起こることもあります。

 人生には「青写真」というものがあります。

 これはあなたがこの世で肉体を操るようになる前に決めてきた、人生のハードルのようなものです。

 なぜそんなものがあるのかというと、アメリカのあるスピリチュアリストが本で書いていますが、「創造主は創造主を体験できないから」ということらしいです。ぼくは創造主と話したことがないので事実かどうかは分かりませんが、納得はできます。詳しくはまた別の機会にお話しします。

 主に過去世で乗り越えられなかったことや、うまくかわすことができなかったことがハードルとして用意されます。人生で起こることで「神は自分を試しているのか」と思えるようなことで、自分がその種をまいていないのであれば、「青写真」で決めてきたことです。

 「青写真」で決めてきたことは、けっして具体的なものではなく、誰でも大雑把なものです。そして「青写真」で決めてきたことは、正面からぶつからなければいけないということではなく、うまく避けることもひとつの体験になります。

 ここですこし想像力を働かせてみてください。


 あなたは気がつくと車を運転していました。片側一〇車線ある道です。ほどほどに他の車も走っています。高架の上に道があるようで、車窓から見える風景は遠くまで見渡せます。あなたは一〇車線のうちのいちばん右の車線を走っています。しばらく走っていると、遠くにちょうど車線ひとつをふさぐように大岩が落ちています。あなたはそれを確認すると、ひとつ左へ車線変更しました。ふと横を見ると、いつの間にか左隣の車線に車が並走しています。


 イメージしていただけたでしょうか。

 このイメージで言うと高架の道は人生です。高架である理由は、途中で車を降りてしまう人がいるためです。大岩は「青写真」で描いてきた障害物です。そして、左隣を走っている車は、今あなたのまわりにいる知人の誰かです。

 細い木の枝などの障害物は踏んで走り抜けていくことも可能ですが、車線をふさぐほどの岩になると、避けて通るしかありません。つまり、人生における障害物は、正面から行ってもいいし避けてもいいということです。

 どの車線を走るかはあなたの自由です。実際の人生の車線数は無限ですが、障害物はあなたが準備してきたものなので、それはかならず出会うことになります。

 あなたがどれほど好き勝手に生きても、人生は車線として存在します。それと同時に、障害物もかならず現れます。仮に「運命」というものがあるとすれば、これが運命ということになるのかもしれません。しかしこの世に生まれてきて、肉体的、年齢的成長に合わせてエゴが育つにつれ忘れてしまっただけで、自分が準備したものですから、運命と言っていいのかどうかは微妙です。本のあいだに挟んで忘れていた一万円札が、たまたまのタイミングで出てきたときに「運命」と思うかどうか、みたいなことですね。「あぁ、昔ここに挟んだなぁ」と思うか、「なんだこれ、ラッキー」と思うかの違いです。


 「運命」と思いがちな出来事や体験も、実は自分が用意していて忘れていたこと、と考えると、一般的に言われる運命っぽさは、それほどでもないような気がします。

 ぼくの個人的な考えですが、「運命」や「運」という考えを多用することは、自分の人生を自分以外に委ねてしまったり、責任を自分以外になすりつけたりするようなこと、だという気がします。良くも悪くも自分の人生で起こることは、かならず自分スタートで始まっていますから、そこは覚悟を決めて、都合の良くないモノやコトを引き寄せないようにすることが本質ではないかと思います。

 自分の人生を自分以外に委ねるということは、他人に自分の人生をコントロールさせるようなものです。それが気にならない場合はいいですが、霊感商法や怪しい宗教などにハマっている場面で、つい真実を知ってしまったときにものすごく後悔するので、オススメはできません。

 「運命」だと思われるようなことが起こったとき、たいていは自分に都合の良くないことになりますが、そういうときは、「自分があっちで用意してた青写真が今ごろ来たか」ぐらいに思って、うまく避けるなり、乗り越えるなりすることが、魂の成長になり、今世でのスキルアップにつながるのです。

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