第35話 悟るという意味

 ぼくは「豁然大悟」、つまり完全には悟ってはいません。「小悟」という小さな悟りが何度かあっただけです。それはワンネスだったかもしれませんが、それを体験したことで、ぼくの生きかたや人生に対する考えかたが変わったことは事実なので、それを「悟り」として話を進めさせていただきます。

 禅寺で修行されている方や、あるいは禅師の方がこのお話を読まれたら「それは違う」、「禅をなめるな」と思われるかもしれませんが、あくまでもぼく個人の体験と言葉として書かせていただきますので、大目に見ていただけると嬉しいです。


 まず、ぼくが最初に「小悟」したときのことから書かせていただきます。

 住んでいたのは関西方面の田舎町。二十歳ごろのぼくは、夜になってから近所を車で走るのが好きでした。暴走はしてません。車で音楽を聴くのが好きだったんです。

 その日は車で十五分ほど走ったところにある、その辺では大きめの本屋さんに、とくに当てもなく行きました。音楽雑誌でも買おうと思って入ったのですが、とくにめぼしいものはなく、なんとなく普段は立ち寄ることのない、専門書の棚まで足を進めました。そこで、これまた普段見ないような宗教や哲学などのコーナーを何気なく見ていて、一冊の本の背表紙に目が留まり、手に取りました。

 日本一のオカルト雑誌のムックで、「禅の本」というタイトルでした。

 とくに興味もないままペラペラとページをめくると、本の巻末付録というんでしょうか。そこには公案を集めた、「禅問答の世界」というコーナータイトルの特集がありました。

 今でもどうしてなのかは分からないんですか、立ち読みし始めた最初の公案から、いわゆる沼にハマったような気分でした。

 公案とは、禅問答のことで、頭でどれだけ考えても答えの出ない問いに対して答える、という真理に気づくシステムのことです。ここで説明するには長すぎるので、詳しくはググってみてください。

 本屋で公案の数々にハマり、感動で立ち尽くしているうちに、なぜか「これが自分の探していたものだ」と分かって、その本を持ったまますぐレジに向かいました。

 帰宅後、当時同棲していた今の奥さんに興奮気味でこの本を見せびらかしていたことを記憶しています。

 それから毎日、公案の数々とその解説を繰り返して読みました、解説には一応答えに近いものが書かれていたので、それで分かった気になり、理解した気になった日々が続きました。もちろん本質は分かっていませんし、理解するものでもありません。

 それから十年ほど経って、ぼくたち夫婦は北海道に移住し、こちらでの暮らしになじむ努力を続けていました。このときもまだ「禅の本」を読み続けています。とくに公案のページは百回、二百回と繰り返して読んでいました。

 そんなある日、ぼくはひとりで近所まわりのドライブに出ました。昼間で、曇り空だったような記憶があります。このとき、車が動き出した瞬間から不意にひとつの公案が頭に浮かび、考え始めていました。詳しくは省きますが、タイトルは「百条野鴨子」という公案です。

 車にはカセットテープのカーステレオが今でも積んであります。そして、昔から好きなバンド「モトリー・クルー」の四枚目のアルバム「ガールズ・ガールズ・ガールズ」をかけていました。

 そのアルバムの二曲目がタイトル曲なんですが、最初にバイクのエンジン音が聞こえてきて、数秒後に音楽がはじまります。聴いていただけると早いと思いますが、急に「ジャーン」という感じで始まります。

 その瞬間でした。ぼくはすべてが分かりました。本当に「すべて」です。まず最初に「あっ」と声が出て、すべてが自分の中に流れ込んできたような。例えるなら、宇宙が自分の中に入ってきたような、そんな感覚になりました。

 それが楽しいやら、嬉しいやら、感動するやらで、一気に涙があふれてきました。ぼくは慌てて車を路肩に寄せて、ハザードをつけました。そのあいだも涙は止まりませんし、同時にへらへらと笑えてきます。

 意味も理由もないです。ただただうれしくて、楽しいんです。それまでの人生の中で最も幸せな瞬間でした。今も幸せですが、あのときのインパクトはとんでもなかったなと、今でも思います。

 一〇分か、一五分ぐらい経ったころにやっと落ち着いてきたので、涙を拭いて、ドライブの続きを始めました。このときのドライブは人生でもっとも浮かれていて、もっとも冷静なドライブになりました。


 長々と申し訳ありませんでしたが、これがぼくの最初の「小悟」体験です。

 このとき考えていた「百丈野鴨子」という公案の答えも、言葉にはできませんが完全に分かりました。分かると同時にやってきた、巨大な安心感や幸福感は今でも忘れられません。

 「悟り」とは理解することではありません。「分かる」ことです。理解するというのは頭の中、脳の作業であり、文字どおり「理屈を解かる」ことですが、「悟り」はそういう理屈を超えたところにあるもののようです。

 これまでのお話も、これからのお話もぼくの体感で言うと、その内容にストライク判定は出ません。限りなくストライクに近いボール球だと思っています。言葉で説明できる範囲は、「生きる」ということの理解を進めていただくのに大いに参考にしていただければ嬉しいのですが、どうやってもストライク判定にはなりません。このストライク判定になる部分が、「分かる」ということなんです。

 「分かる」というのは体験であったり、直感であったりするんですが、人生と同じように、最終的には超個人的なものなので、人それぞれということになってしまいます。そのせいで「真理」や「悟り」というものを説明することが不可能なんです。冷たい言いかたすれば「最後はご自分でどうぞ」ということになってしまいます。自分というキャラクターに合った「分かる」しか存在しないということです。

 何かひとつの作業について、他の人はこの方法だけど、自分はこっちのほうがやりやすい、ということってありますよね。その「こっちのほう」というのが分かるということです。

 一般的には、いろんな面でマニュアル化が進み、何かの作業方法やものの考えかたについても、前例を踏襲することが多いように思います。自分独自のやりかたをしようものなら、「ここではこうやるんだから、そうしてくれ」と言われることも多いのではないでしょうか。

 新しい発想というのは受け入れられにくく、無視されたり、攻撃されがちなのは昔から変わりません。もちろん、作業効率などで変えるべきではないということも存在します。でも、これならどうだろうとか、こうやってみるとどうなるだろう、という議論的な余地がもうすこしあってもいいような気がします。

 そしてこういうことはきっと、自分の人生という点においても同じように、思考のマニュアル化がされているのではないでしょうか。「前に体験した○○については、こうやって解決した」とか、「こういう場合はこうするもんでしょう」という決めつけや思い込みを元に、行動を起こしていないでしょうか。

 大きな体験や出来事に関しては、誰でも一度立ち止まって考えたりもしますが、日常的な体験に関しては、思っているよりも流れ作業的な思考によって、意識しないまま前例踏襲している場合が多々あります。

 「今・ここ」に存在しているのであれば、ひとつひとつの体験が新鮮に感じられますし、人生で初めての体験であることも、そのときに分かるものです。


 「悟る」とは「今・ここ」というポイントを、エゴではなく「受け入れて」、生きていく、その結果です。

 自分という存在を「自分だけ」という視点ではなく、風のように、空気のように、自然とともに存在する、あるいは自然の一部として認識します。

 というと、堅苦しい感じがしますが、「ありのまま、自分という存在を楽しむ」ということだと思っています。

 「ありのまま」ですから、誰かや何かと比較して、見栄を張ったり、マウントを取るなどの思考や行為とは無縁です。誰かに見せるために「映え」を追いかける必要もありませんし、「いいね」とか「フォロワー数」を気にすることも必要ありません。

 縁あってこの世に生まれてきた「自分という存在を楽しむ」ように生きることが大切です。

 何事も好きでやっていて、楽しいうちはそれでいいのですが、それをすることで苦しくなったり、悩みの種になるのは違う、ということです。苦しんだり、ネガティブに悩んだりするのは、すでにエゴが発動している証拠です。あくまでも「自分という存在」ですから、周囲は関係ありません。自分で考えて、自分で選択して決断し、自分で体験という、その結末を受けることが自分を楽しむ機会になってきます。そうなると、人生を創造する意図は、とても重要なものになります。

 だからこそネガティブな思考にならないように、エゴの発動を抑えて、自分が楽しいように、自分の魂が喜ぶような思考をしたほうがいいわけです。

 それでも自分の身に何かネガティブなことが起こったときは、「受け入れて許す」ことで、学びとなります。「こういうことって起こるんだなぁ。またひとつ勉強になった、スキルが上がった」と考えることができれば「感謝する」こともできます。

 だから「今・ここ」、「受け入れて許す」、「感謝する」はとても重要なことなんです。これが完璧にできるのであれば、悟っているのもほぼ同じです。


 「悟る」ことは、何も仏になるということだけではありません。自分の人生をいかにより良いものにするか、より幸せに生きるか、ということに直結しています。言いかたを変えれば、「達観した人の人生はより良い」というこです。

 「小悟」を何度か繰り返した結果、ぼくが「今・ここ」を生きていて言えることがあります。それは「自分はすべてであり、すべてはいつも幸せ」であるということです。

 「自分が」、「自分は」というエゴ全開の考えはなくなりました。というか、「自分」という意味があまりないような気がしています。名前なんかどうでもいい感じですし、生きてるとか死んでるなどということに興味がなくなりました。

 自分が誰であろうと、好きでやってること、やりたいと思うことに変わりはない、という気づきがありました。もちろん生活環境は重要ですけど、「今・ここ」において生活環境は問題になっていないので、「これでいいのだ」という感じです。

 また、いい意味で人の話を聞かなくなりました。人生に関わることについては、誰もぼくの身代わりができるわけでもありませんし、これまでの自分の生きてきた道を知っているのは自分しかいないので、知らないはずの他人の助言めいた言葉などにはまったく意味を感じません。もちろんそれが、自分にプラスになるようなことなら、ありがたくいただいて、受け入れてます。

 人が二人いれば社会のはじまりです。夫婦でも親子でも、自分以外の誰かが近くにいれば、そこには社会性が生まれますし、約束やルール、共有すべきことなどが生まれます。

 この社会性の中では、ちゃんと聞く耳を持つようにしていますし、理解もしています。ただ、ぼくの人生についての話は、耳に入っていても理解できない、あるいは理解しないという感じになってます。自分の思考を知ることができない他人の人生アドバイスは、たいてい社会の中のお話であって、真理には程遠く、意味がないことがすでに分かっているためです。「この人は何を言ってるんだろう」という感覚が、ナチュラルに起こります。

 あと、すべてにおいてとは言えないんですが、軽く達観してしまって、どうでもいいことばかりになりました。

 楽しいことは楽しいと感じますし、好きなことをしていればご機嫌になります。「今・ここ」においての気分であって、過去や未来のことではありません。極端な言いかたをすれば、「過去は無いものとし、未来は無いものとする」という感じでしょうか。それこそ今日の晩御飯のおかずに何が食べたいかとか、それぐらいの希望はありますし、ときどき欲しいものがあったりはしますが、入手できなければ腹が立つとか、そういうことは起こりません。入手できたときがベストタイミング、ぐらいに考えています。

 人は生まれたときから幸せになるように出来ています。動物としても苦痛や面倒は避けたいという本能がありますし、めちゃくちゃ幸せ、とまでは行かなくても、平穏無事でありたいと望むものです。

 そう望んでいるだけであれば、誰もが平穏無事な人生になりますし、それが本当の幸せであることも気づくはずです。

 エゴという自我が芽生え、成長していくにつれ、余分なものを背負い始めていきます。それが見栄だったりしがらみであったり世間体であったりします。承認欲求もそうです。とにかく比較して自分中心でありたいと望んでしまうようになります。

 しかし世の中というのはつねに、上には上がいて、なかなか自分の思うようにはならない。それを受け入れられないから、苦しみやつらさが生まれるんです。

 つまり、エゴが考える「自分がこの世の中心である」とか「自分はこの世に絶対に必要である」などというものを捨ててしまえば、人生は一気に楽になります。それこそ平穏無事な人生に変化するわけです。

 そのためには「あきらめる」ということが必要です。もちろんいい意味でのお話です。達観とはいい意味であきらめることです。それは投げ出すとか放り出すという意味ではなく、周囲と比較しない、身の丈を知って無理をしないというポジティブな意味です。

 現代では、世の中を数字が支配しています。順位や成績、時間など、すべてが数字に置き換えられて、人はいつも数字に追いかけられているように見えます。しかし人や人生、「生きる」ということを数字に置き換えることはできません。データ化できないのです。それだけ千差万別であり、人それぞれだということです。

 なので比較をしようとしても、それは元々無理なことなんです。国家や企業の戦略によって、数字に置き換えられていることに気づかず、口座の数字が増えていくことや、「いいね」の数を欲しがることは、まさに国家や企業の手のひらの上でもてあそばれているようなものです。

 そういうことを抜きにして、自分は自分らしく、身の丈にあった生きかたを模索して実行すること。これが出来れば誰でも幸せになります。背負うものが必要最小限になりますから、身も心も軽くなり、足取りも軽くなるでしょう。この状況を想像しただけで幸せな気分にならないでしょうか。

 「悟る」とはこれらのことを、自分という存在のすべてで分かることです。自分という存在のすべてで分かるからこそ、自分の軸がブレないですし、いろんなことを変えることができますし、そこに恐れは生まれません。


 これを伝えたくて、禅僧の方たちは日夜修業し、まず自分が分からなければならないと、努力を続けていらっしゃるわけです。

 このお話は、あくまでもぼくの体験から得られたものですので、本当に悟ったかどうかは分かりませんし、基本的にはどうでもいいことだと思っています。ただ、ぼくの人生や生きかたがこれで変わった、というだけです。

 なので、絶対に悟りを得なければいけないとか、そういうことではありません。悟りを得れば、もしかしたらこんな楽な生きかたに変更できるかもしれませんよ、というお話であると、念を押させていただいて、このお話のシメとさせていただきます。

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