第33話 社会と科学とスピリチュアル

 現代においても、まだまだ肉眼で見えない世界の話は、認めるとか当たり前というレベルには達していません。人それぞれの考えがあるので、肯定も否定も自由だと思いますが、すこしだけ理不尽な気がします。

 よく勘違いされているのは、霊能者、超能力者と呼ばれる人たちがいつでも完璧なように言われていますが、それは違うと思っています。

 こういったジャンルの能力も感性や感覚です。

 野球で言えばホームラン王の感性や感覚です。昨年ホームラン王だから今年もホームラン王というわけにはいきません。肉体的・精神的な調子や、環境や状況、本人の意欲など、いろいろな条件が整ってはじめてバカスカとホームランを打っているのだと思います。いつもやってるから、いつでもできるということではありませんし、頻繁にホームランを打つから打ち続けられるということでもありません。

 ホームラン王とは言わなくても、日常生活の中で昨日はできたけど今日はできないことなんて、誰にでも体験があると思います。また明日になればできるようになっているかもしれませんしね。

 霊的な能力を持つ人も同じです。いつも百パーセントというわけにはいきません。これまで見えていたのだから、今も見えて当たり前とか、いつでもどこでもオーラが見えるということではありません。

 でも霊的なことを否定する人たちは、「いつでも見える」とか「どこでも前世が分かる」と、霊能者を完璧な存在だと考えている人が多いように感じています。何も霊的なことを学ぶことなく、ただ否定したいだけなのだろうとは思いますが。知識もなく、根拠もなく、調べたわけでもなく、単純に「この私が霊など存在しないと言っているのだから無い」と考えていて、調査結果もないままに霊能者と呼ばれる人を完璧なマシーンのように考えているのだと思います。

 霊能力というものは、誰もが持っている感性だと思っています。簡単に言えば「才能」みたいなものです。誰でも本気で取り組めばいくらかでも磨かれるものです。

 たとえば、自転車に乗るという行為は、多くの人ができると思います。とは言え、最初から調子よく乗れるわけではないですし、乗れない人からすれば、どうやってバランスを取っているのか分からないということがあります。

 鉄棒の逆上がりもそうジャンルのことです。出来る人からすれば何でもないですが、出来ない人からすれば、足が上にあがっていかない理由は分からないと思います。

 そうは言っても、本人が本気を出して、きちんとした指導の元で練習すれば、おそらく自転車にも乗れるようになるでしょうし、逆上がりもできるようになります。人間国宝に選ばれることや宇宙飛行士になることも、本人が気持ちを入れて努力を続ければ、そうなれる可能性は格段に上がります。

 では霊的な力はどうでしょう。多くの人が本気で学ぶこともなく、メディアの情報だけを信じて、あるとかないとか言っているにすぎません。本気で取り組めば、いわゆる上手いヘタというのはあっても、まったく体験できない人はいないと思います。

 嫌な予感、虫の知らせ、以心伝心など、日常生活で使われる言葉を見てみても、霊的な作用の言葉があるぐらいですから、きっと昔はもっと身近だったのではないでしょうか。

 大切なことは、人からの受け売りを自分の考えとして固定したり、意見として口にするのは危険だ、ということです。

 否定から始まって、事が前に進むことはまずありません。まずは「分からない」というところからスタートするのが、肯定するにしても否定するにしても、最も正しい選択ではないでしょうか。


 社会というのは、物質世界だけのことを言います。物理のルールのみで物事が判断されて、決定されています。

 人間は大きな意味で集団生活ということになりますから、一定のルールは必要ですし、それをみんなが守るということも重要です。

 とは言え、犯罪者は毎日のように現れます。ジャンルは多岐にわたっていると思いますが、とにかく法律が無視されているのが現実です。罰則があるにもかかわらず、です。

 なぜそんな世の中になっているのかを考えてみました。

 本来であれば、法律があるからはみ出さないようにする、ということではなく、もっと単純に、人に迷惑をかけないとか、相手の立場になって考えるというのが基準ではないかと、ぼくは思っています。もちろんそれでも誰かに迷惑をかけることもありますし、自己中心的な考えになってしまっていることもあります。それでも土台には、そういうことはしてはいけないという、個人個人のルールがあるわけです。

 そういった土台となるもの、自分を律するということがなくなってしまったのではないかという考えに至りました。

 昔の日本では「お天道様が見ているから悪いことはできない」という考えがありました。要は太陽を神さまに見立てて、神さまが見ているから悪いことをすると罰が当たる、という戒めのような考えです。

 現代では、神さまの存在も初詣というイベントになり、自分が困ったときだけお願いするようなおまじないになっていますし、ご先祖さんの霊魂もお盆やお彼岸というイベントになっています。中には本気できちんと参られている方もいるとは思いますが、おそらく今では少数派ではないでしょうか。

 誰も、神や仏、御霊も信じなくなってしまったこと。それは思考の見張り役がいなくなったということに繋がると思います。神も仏も信じていないということは、天罰や罰当たりという観念もなくなっているでしょうし、天国や地獄という概念もないでしょう。そうなれば、個人個人のルールなどどこにも存在しなくなります。

 物理的に見つからなければ悪いことではない、うまくやればいい、そんな考えが蔓延してしまった結果、人は自由と身勝手をはき違えて、現代社会を作っています。

 たしかに天罰や罰当たりはないと思います。また天国や地獄もないと思います。しかしその代わりに「引き寄せの法則」や「類は友を呼ぶの法則」という法則の存在が明らかになりました。

 これらの法則は、自分が本当に信じていること、本当に考えていることを現実化してしまうものです。

 たとえば、お金が欲しいと考えている場合、「自分はリッチになる」と一生懸命思い込んだとしても、「これからリッチになる」、つまり「まだリッチではない」という考えが、本当に考えていること、本音になりますから、リッチではない現実が引き寄せられることになります。どれだけ犯罪を犯しても、けっしてリッチになることはできません。ムリしてまで求めるものは、まず手に入りません。一時的にリッチになれたとしてもいつかかならず正反対以上の破綻を迎えることになります。

 それよりも、普通に生きていく中で、身近な幸せや豊かさを見つけて「あ~幸せ」とか「豊かだなぁ」と感じることが、手っ取り早くリッチになれる可能性があるのです。基本的には小さいことの積み重ねになりますが、誰かに追われたり、逮捕されたり、収監されたりしない分、ずっと幸せを体験できますし、豊かさを享受できます。

 現代社会に足りないものは、目に見えなくても存在するものを認めることだと思います。それは霊とか妖怪の話ではなくても、心とか愛とか、信じること、などです。今の世の中、人の心を信じられずに愛を探し求めているように、ぼくは見えます。

 心や愛の存在を、頭ではなく、自分という全体で分かることが望ましいです。


 ぼくはこういうジャンルのお話を書いていますが、自然科学も好きなんです。しかし、きちんと学んだことはないので、雑誌や本、ネットの記事などから知識を得ているだけの薄っぺらい科学好きです。

 天文や医療などのジャンルが好きですが、とくに量子の世界が本当に興味深く、本も何冊も買って読んでいます。読んだところで理解が追いつかないという事実からは逃げられませんが、やはり面白く感じてしまいます。

 科学万能と言われていた時代がありました。今もそう言われているのかどうかは分かりませんが、確かにそういうことを言う人がいた時代がありました。

 でもその時代よりもはるかに、現代のほうが進んでいます。その当時になかった技術や発見があり、科学の力は拡大の一途です。だとすると、科学万能と言われていた時代は、本当に万能だったのでしょうか。

 この世は科学で成り立っています。物理のルールで物事が決められていく以上、科学は絶大な力を持っています。

 その一方で、科学ではまだ答えが出ないこともたくさんあります。今もどこかで、まだ答えの見えない研究をされている人がいると思いますが、実質、「今・ここ」ではまだ答えは出ていないわけです。

 治せない病気もたくさんありますし、地球上の未知の領域もまだ残っています。つまり、万能というわけではありません。科学がどれぐらい発展するのか分かりませんが、現時点では全知全能ではありません。全知全能ではない科学の知識や技術が、完成されているとは、ぼくには思えないんです。

 科学は便利ですし、必要です。日常生活には欠かせない存在ですが、それだけでこの世界ができているわけではないということも事実です。

 先ほども書きましたが、心や愛など、誰もが認識できることであっても、科学で割り切れない問題もあります。人生もそうです。十人十色、百人百色の人生ですから、科学の原則である、すべての人が同じ答えになるという、基本的なルールを守ることができません。

 科学は物質が対象です。人生や愛など非物質の相手はできません。確率や可能性という部分では近似値は出せるかもしれませんが、正解を出すことはほぼ不可能です。

 つまり、科学は科学で大切ですが、まだそれ以外があるということを知っておくべきだと思っています。科学の外側というか、今はまだ科学でカバーできていない部分があることを認識しておくべきだということです。

 その点で言えば、量子物理学は、これから科学の外側に食い込んでくるような気がしています。「結果は観察者によって変化する」、これだけでも今までの物理学とは違ってきます。まだまだこれからなのかもしれませんが、ものすごく楽しみにしているジャンルです。

 科学で語ることができるのは、物質として存在するものだけで、そうでないものを科学で語ることはできません。

 これまで不思議な現象とされていたものが、科学で解き明かされるというのは、素晴らしいことです。頭ごなしにオカルトに持っていくのも違うと僕は考えます。どんどん解き明かしてほしいとは思うのですが、答えありきで無理やり手順を踏むような考えはやりかたはやめてほしいと思っています。

 霊的な現象に対して、「霊は存在しない」という答えを決めてから、理屈を並べていくのは、真実を遠ざけてしまうのではないかと思うんです。もし霊的な現象が脳の誤作動ならそれでもいいと思いますし、それでもそういうセンスが存在することの証明にもなります。しかしそれは一から手順を踏んでいかなければ、間違ったところに到着してしまいます。それは残念すぎます


 社会も科学も、物理世界という箱庭の中のお話です。その外側に霊的なものや神的なものが存在する可能性は誰にも否定できません。「まだ分からない」が今のところ正しいのでしょう。しかし、実際に何かを体験した人でなければ分からない事実というものもあります。体験していない人には想像もできないことがあります。その結果がいずれどうであったとしても、現時点で「無い」という否定は、進歩を止めるだけです。

 見えないものでも在るんです。体験していないからありえないという考えは、幼稚ですし、自らの成長を止める利己主義であることを知ってほしいと思います。

 あってもなくてもどっちでもいい、これぐらい余裕があったほうが幸せです。社会だけを信じる、科学だけを信じる、スピリチュアルや宗教だけを信じる、ではなく、まだ他になにかあるかも・・・という余裕を持って生きていくことをお勧めします。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る