第32話 ネガティブ思考の元凶は「死」

 基本的に人はポジティブ思考、つまり何事も肯定的に捉えるように出来ています。なぜなら、そうでなければ物事が前に進まないからです。失敗を失敗としか思えず、そこで投げ出してしまうと、そこから学ぶものもありません。「成功にたどり着く道として、この道では上手くいかないことが分かった」と捉えると、学びにもなりますし、新たな道の模索を始めます。そんなトライアンドエラーを繰り返して、成功にたどり着くものです。

 しかし人間は、脳という便利でありつつ、使いかたを間違うと負のスパイラルに落としてくる厄介なコンピューターを持っています。

 社会生活の中では本当に優秀ですし、さまざまな出来事を処理する能力に長けています。過去に事例があることなどは、すぐに対処法を導き出し、解決する能力があります。

 ただ場面によってはその優秀さが仇となることがあります。

 処理能力の高さは、つねに何かと比較していることで維持されています。

 「あのときはこういう対処をしたから同じように」とか「あのときとは違うからこの方法で」など、記憶にある前例や対処の仕方を比較して、「今・ここ」に対処しています。

 比較することで答えを導き出す方法は、ポジティブな思考のときはとてもうまく活用できますが、ネガティブな思考のときは負のスパイラルに落ちていくことになります。

 ネガティブな思考とは、否定的な思考です。否定的な思考とは、認めない、受け入れないということです。認めず、受け入れることができなければ、その案件だけでなく、人生における自身の成長も止めてしまいます。

 身近な例を挙げると、料理をしていて包丁で指をすこし切ってしまったとします。そのとき、指を切ったことを受け入れたら、指を切った事実だけに焦点が合いますから、すぐに治療をするだけです。指を切った、傷薬を塗る、絆創膏を貼る。それだけです。

 同じ条件で、受け入れることができず、自分のミスだと強く考えたとすれば、「なぜ自分はこんなミスをするんだ」と自分を責めるでしょう。こんなミスをする自分は料理に向いていないと考えて、そこで料理は終了してしまうかもしれません。逆に自分は悪くないと考えれば、包丁や食材などが悪いということになり、それらが変更されないかぎり、もう料理は進まないということになります。

 こういうことは日常でもあります。自分の関わっていることなのに、自分から放棄したり投げ出したりする人や、周囲に責任を転嫁したりする人、いると思います。


 そもそも、自分の人生に起こることは、すべて自分の責任です。「類は友呼ぶの法則」なのか「引き寄せの法則」なのかは分かりませんが、いつかの自分が無意識にでもネガティブな意図を生みだしたので、タイムラグを経て、このタイミングで結果が出た、というだけのことです。まったく自分のせいではないことに巻き込まれたとしても、巻き込まれている自分が実際にいるわけです。それがしがらみなのか、世間体なのか、理由は分かりませんが、自分が許可して、そのゴタゴタに巻き込まれているのですから、やはり自分のせいということになります。

 どうしても断れない、ということもあるでしょうし、自然な流れの中でゴタゴタに巻き込まれた。ということもあるかもしれませんが、引き寄せられるのはいつも「気分」ですから、どこかの過去でそんな気分になる意図を自分がしていたという証拠でしかありません。

 「今・ここ」というポイントでネガティブな思考を持っているから、それが未来のどこかのタイミングで、面倒なことに巻き込まれたり、イヤな気分を味わったりすることになります。これと同じことを過去にしているから「今・ここ」がイヤな気分になっているわけです。

 ではなぜネガティブな思考を持ってしまうのか。

 先ほども述べたように、脳というコンピューターの使いかたを間違えているためです。

 ポジティブなときはとても優秀で、「今・ここ」を楽しくも面白くもしてくれますが、元々、比較することで答えを出すようになっていますから、何と何を比較するかによっては、ネガティブな思考になってしまいます。

 人はとかく数字に追われやすいようです。たしかに、もっとも分かりやすく正確な比較の基準にはなります。会社や学校の成績、賃金や資産の額、いいねやフォロワーの数、ランキングや評価の星の数など、すべてが数字で表現されて、その数字によって多くの人が一喜一憂しています。

 しかし、会社や学校の成績と幸せは別物ですし、賃金や資産の額も別物です。そこから自己肯定感や自己満足は得られるかもしれませんが、それが死ぬまで続くわけではありませんから、いつも転がり落ちていく恐怖に怯えながら、つねに変化する数字を見つめ続けることになります。

 そのジャンルで優秀な仲間やライバル、持っている物の価値や量、各種成績など、他人や何かと比較していると、どうしてもネガティブな思考になってしまいます。それは、自分がつねに一番でありたいのに、そんなことは不可能だからです。この順位付けも数字の呪いに憑りつかれています。

 また、自分の理想とする状況や状態と比較して、そうではない場合にも不安や心配といった考えに支配されてしまいますし、怒りを覚えることもあるかもしれません。

 怒り、不安、心配、嫉妬、恨みなどなどネガティブな思考はたくさんありますが、これらを生みだしている根源は「恐れ」です。

 恐れは「愛」というバロメーターの中でも最もマイナスの感情です。すべては「恐れ」を元にして、そこから派生しています。

 怒りは恐れていることに対抗する威嚇の表現ですし、不安は恐れていることが起こるという予想や予測から生まれます。嫉妬は自分の理想どおりではない状況に不安を感じて恐れます。すべてが「恐れ」を発生源としています。

 では「恐れ」とはなにかというと、究極的には「死」です。

 「死」は当たり前ですが未知であることから、情報がとても少なく、臨死体験やチャネリングによるお話を見つけたとしても、自分がその情報をどこまで信じられるかという問題があります。そうなると結局、情報は無いに等しく、自分だけの不安な想像を拡大して、そこから「恐れ」が生まれてしまいます。

 多くの人が、お金を稼ぐために仕事をしています。何のためにお金を稼ぐかというと、まずは食べるためだと思います。食べられなかったら「死」が待っています。進学するのも、やがてはたくさんお金を稼ぐため。もちろんそれも食べるためであり、食べられなければ「死」を意味します。「周囲に合わせる=人の目を気にする」というのも、元々人間は集団生活の習性がありますから、集団からのけ者にされたら食糧が手に入らず、太古であれば「死」です。

 人間が抱えている「恐れ」の原点は、このようにいつも「死」が居座っています。

 「死」に対する恐怖を持っているのは当然です。誰でも未知のことには不安になるものです。さらに誰もが避けてとおれないわけですから、やはり恐怖でしょう。しかし、現代ではあまりにも「死」を遠ざけすぎたため、必要以上に恐れをいだいているように見えます。

 情報がほとんどない状態なので、想像に想像を重ねてしまって、今では「死」がモンスター化しているのではないでしょうか。

 それならば自分なりに学んでみればいいのです。

 恐怖は、正体が分かれば案外なんでもないことも多くあります。未知のまま放っておくからありもしない想像をしてしまいますし、その想像も悪い方向へ膨らんでいくのです。そうは言っても、「死」への恐怖からか学ぶことさえ恐れてしまい、ただただ遠ざけているだけですから、やっぱり必要以上に恐れてしまうのだと思います。

 しかし「死」はいつでもどこでもそばにいます。いつ、どんなきっかけで自分に死が訪れるか分かりません。一分後か十年後かなんて誰にも分からないのです。地震大国に生きていれば想像はたやすいのではないでしょうか。しかし、そんな状態で日々を生きていればいつかは心を病んでしまいます。ぼくから見れば、社会に埋もれていく恐怖から生まれる自己顕示欲や承認欲求などは、病気になりかけているように感じることもあります。


 まずは「死」を理解しましょう。死んだら無になる、それも有りです。死んだらあの世に行って天国で平和に過ごす、それも有りです。死んだら指導霊となって誰かの人生を盛り立てる、それも有りです。アテにはならないかもしれませんが、死や死後関係の本は、書店に行けばたくさんあります。なにかひとつ手に取って、できればいろんな人の本を目にして、学んでみてはいかがでしょうか。何かひとつのことにスジを通して、そうなるのだと信じていれば「恐れ」の力は弱まります。「死んだら無になる」だけはちょっと分かりませんが、どうせ避けられないのですからあきらめることもひとつの手だと思います。

 もうすこし詳しく知りたければ、既存の仏教のお寺で講話を拝聴するということも有りだと思います。古くから続いている宗派のお寺に行くこと、これが大切です。続いているということは納得できる答えやヒントを持っているということです。ちょっとひらめいた、思いついた、ぐらいの屁理屈を学んでも長続きしません。

 そして、「いつか自分も死ぬときがくる」と受け入れたとき、世の中に対する恐れが弱まっていることに気がつくはずです。お金は必要な分があればいい、とか、身のまわりの人が健康で元気であれば幸せだ、とか考えるようになっていると思います。それは「生きる」ことを学んだ証拠でもあります。逆の見方をすれば、がっついている人は恐怖に囚われている、と言えるかもしれません。

 自分の「死」と向き合うことで、「今・ここ」に存在する自分の「生きる」が輝きだします。具体的に言えば、充実や充足、満足などを元に、「今・ここ」での自分が幸せに生きている、と分かるということです。

 また自分の生きかたを自分で決めるようになりますから、自分を信じて生きていくようになります。自分を信じる力、それが自信です。自信に満ちた人はまわりから見ても生き生きしているのが分かります。そして、そんな人は幸せに見えますし、実際に幸せです。

 自分の「死」を避けて生きているあいだずっと、何かに恐れながら生きることになり、そのストレスを発散するために散在したり、浴びるようにお酒を飲んだり、弱者に対して攻撃的になったり、心の病になったりしている人をテレビでも見ることがありますし、身近にもいました。

 「死」はその等身大を恐れるだけで十分です。過大評価をしても自分の首を絞めるだけです。それよりも、「死」を意識することで「今・ここ」に存在する自分の生きかたの糧にしてください。一週間後に自分が死ぬと分かっていたら、あなたはどんな一週間を過ごすでしょうか。もし明日、自分が死ぬとしたら、あなたは今日という日をどう生きるでしょうか。

 そう考えることで、「生きる」を学ぶことができ、人生は明るい未来へと続く道を照らしてくれます。世の中に流されることなく、誰かの視線を気にするのでもなく、前例など蹴飛ばして、自分が選んだ生きかたを信じて、自信をもって生きることができるようになります。

 日本には四季があります。植物には開花時期があり、動物には繁殖期があります。人の「死」も人間に与えられたシーズンのひとつだと受け入れて、美しく生きて、美しく死ぬというのはどうでしょうか。

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