第28話 本質を知る そして生きる
以前、「この世は幻想」という内容のお話を書きました。
たとえば目に見えるものはすべて目というセンサーから入ってきた情報を元に、脳の中で組み上げられた映像であり、エゴというフィルターを通して理解するので、たいていの場合、自分が望んでいる方向性の意味をつけて見ている、というお話です。
もちろん音声や触れるという感覚もそうです。五感はすべてセンサーで、それが何なのか、どんなものなのかを理解しているのはつねに脳内の処理によるものです。
この世に色はありません。リンゴを例にすると、太陽の光を受けたリンゴが太陽光線の中の赤い色だけを反射しているので、人間の目には赤く見えているだけです。では実際のリンゴの色は何色かというと、分かりません。反射した色ばかり見ている世の中ですから、本当の色を知ることができるのかどうか。
それは色だけにかぎりません。たとえば二台の車の交通事故でも、信号の色が黄色だったか赤だったか、どちらが優先だったか、前方不注意はなかったかなどなど、今はドライブレコーダーや街角の監視カメラで確認できることも増えていますが、一昔前は水掛け論になることも多くありました。二台の車の運転手によって、見えていた光景が違うからです。自分は黄色だと思っていても、相手の記憶によると赤になっていた。そんなこともしばしばです。
人の記憶はすぐに改ざんされます。自分が不利益を被らないように、あるいは、自分に都合がいいように、ほんの数分前の出来事でも記憶を変更します。
つまり、自分が見ている光景は事実ではないかもしれない、ということです。
ただし、ほぼすべての人がそういう状態なので、事実がどうなのかということはあまり関係がないかもしれません。法律に触れるようなことであれば、状況証拠や物的証拠で事実を固めていきますから、日常生活という枠の中では、あまり気にする必要はないかもしれません。
日常生活の中で気にせずにいることは本人の自由なのですが、自分の見ているものや考えたことがそのまま「事実」である決めつけてしまうと、自分の人生の足かせになる場合があります。あなたの事実は、あなただけの事実で、あなたのエゴというフィルターを通して認識した事実でしかないからです。
ぼくが見ているこの世は、あくまでもぼくのエゴフィルターを通して見ている世界ですから、ぼくだけのものです。誰とも共有することはできません。だからぼくが書いていることを絶対正しいと言うことはけっしてありません。「こうしなさい」と声高に言うこともありません。それぞれの事実があることを理解しているつもりです。
この世に存在するほぼすべての人が、自分のエゴフィルターを通してこの世を見ている。それは肉体があるかぎり、脳が機能しているかぎり変わることはありません。
つまり、それぞれの人が見ている、それぞれのエゴフィルターを通したこの世。実は誰とも共有することが出来ていないので、「この世は幻想」となります。
今見ているこの世が幻想であるということは、この世は真実ではないということになります。では真実はどこにあるのでしょう。
それは肉眼では見えません。霊能力とか超能力とかそういう話ではなく、そもそも形がないのです。無色透明、無味無臭なので、気がつかないだけなのです。
ではどうすればそれが分かるかというと、エゴフィルターを外すだけです。エゴを手放したとき、真実の世界が幻想であるこの世に重なって姿を現します。
霊的な存在や現象も含んではいますが、それはほんの一部に過ぎません。
大切なのは、本質を知ること、そして生きることです。
幽霊がいようがいまいが、自分に火の粉が降りかからなければ関係のない話です。それよりも「今・ここ」から次の「今・ここ」へとつながる人生をより良いものにするほうが大切なのです。人は幸せを体験しにこの世に生まれてきたのですから。
さて、本質とは何か、ということからお話します。
本質とは、エゴフィルターを通さない、あるいは「自分だけのモノサシ」を振り回さない状態で物事を体験することです。エゴやモノサシは、どうしても自分中心で自分視点なので、主観でしか物事を体験することができません。ここでいう体験とは、大きな行動や行為だけではなく、五感の作用など基本的なものを含んでいます。
主観で物事を体験するとき、かならずエゴフィルターを通ります。これまでの自分の体験や得てきた知識などを比較対象として理解しようとし、未知のことや理解が追いつかないことなどは、過去の体験や知識を拡大解釈して、なんとかその枠に収めようとしたり、無理やり違う意味をつけたりします。
分かりやすいのが心霊現象ということになります。何度も体験のある人はそのままを受け止めて、理由などを考えずに体験したことをそのまま認識します。しかし初めての体験だったり、そういうものを否定している人は、たとえば拡大解釈した場合、幻覚とか見間違いと考えますし、違う意味をつける場合は、何も体験していないことにしたりします。「そんな夢を見ただけ」というのが多い考えかも知れません。
こういう認識の仕方は、典型的なエゴフィルターの作用です。自分自身が体験しているにもかかわらず、ありのままを受け入れることをしない。もちろん、受け入れるかどうかはその人の自由ですが、一考すらしないというところにエゴフィルターが頑張っている様が見て取れます。
本質というのは、自分が体験していること。それをありのままに受け入れて認識したとき、現れるものです。柱などに足の小指をぶつけて痛いとき、足の小指が痛いこと、それだけが本質であり、ぶつけた先が柱でもテーブルの脚でも、ぶつけてしまったあとではどうでもいいことです。自分が体験していることは足の小指が痛いこと、ただそれだけです。
先に書いた交通事故の話で言えば、自分が運転している、横からぶつかってきた、ケガはない、あるいはケガをした。それだけが本質です。実際に信号の色が何色だったかは、関係ないのです。信号を持ち出すなら、間違いのない確認をしなければなりません。何色の信号を見ていたか、それだけが自分の体験したことです。仮に、自分に過失があったとしても、そこに来るであろう警察官や事故の相手、目撃していたかもしれない周囲の人は、皆それぞれのエゴフィルターで物事を見ますから、自分には関係のないこと、どうしようもないことになります。自分の話が通じないのはよくあることです。あとはドライブレコーダーや監視カメラなどの客観的な証拠による、事実だけを見る目と、道路交通法という法律に則った状況証拠や物的証拠による結果を待つしかありません。
自分だけが損をしそうですが、人生に起こるすべての出来事に意味がありますから損をすることはありません。そもそも損というのは物理的な意味であり、幻想の中のお話です。「魂」主体の生きかたをするのであれば、最初からそれなりの覚悟は必要になります。すべては学びであり、今後の人生をより良いものにするためのチャンスなので、つねにポジティブな意識を持つことが重要です。
こういうときに虚偽の報告をしたりするのは、恐れに飲み込まれている証拠です。脳内の思考がネガティブな状態になっていて、かならずいつか、同じような気分を引き寄せることになります。そんなことを繰り返していて、平穏で幸せな人生を楽しむことはまず不可能です。
対外的な面だけでなく、自分自身の本質を知り、生きることも重要です。
自身の本質というと、自分のわがままというイメージがあるかもしれませんが、そうことではありません。たしかに誰でも身勝手な部分もあるとは思います。でもそれは周囲の人との「自分だけのモノサシ」が合わないだけということもありますし、どうしても譲れない部分というのもあると思います。
そもそも自分自身の本質とは、「魂」で生きることです。
「魂」で生きるとは、この世で肉体を持ったまま霊的に生きる、ということなのですが、分かりにくいですね。簡単に言えば、悟った状態と言えるかもしれません。
生きているということは肉体ありきなのですが、肉体があるということは脳もありますから、さまざまな迷いや欲望など、いわゆるエゴによる煩悩ももれなくついてきます。この煩悩を手放すことで、本質的な自分が浮き上がってきます。その本質的な自分を、頭ではなく、自分という存在のすべてで分かったときが、悟ったときです。
理解ではなく、分かるということが大切です。理解というのは文字どおり、理屈を解釈した結果ですが、分かるというのは体験的・体感的なもので、理屈や理由は一切存在しません。なので、そのときに分かったことを言葉にできるのであれば、それは理解しただけ、ということになります。「分かる」というのは言葉で表現することがまったくできないものなんです。
本質はすべてのものに存在しています。それを分かるには何も脚色せず、まっさらな状態で受け入れる以外に方法はありません。色眼鏡なし、モノサシなしで、ただあるがままを受け入れることができれば、その物事の本質に近づきます。
それは自分自身に対しても同じです。周囲からの目線や流行りもの、誰かや何かと比較することなく、ただ自分のありのままを生きていれば、本質で生きてます。
そして本質を知ったときというのは、言葉で言い表すことはできませんが、かならず自分で分かります。頭からバケツの水をかぶるような、というか、雷に打たれたよう、というか。とんでもない解放感や感動に包まれたり、わけもなく面白かったり、見るものすべてが輝いているように見えたり、生きていることの喜びに体が震えたりします。
本質で生きるようになると、何よりも達観したような意識でこの世を見るようになります。俯瞰で物事を見る、客観的に物事を見る、と言えるかもしれません。そうなれば、人生にネガティブなことなど何もないことが分かります。ただ出来事や物事が起こっているだけで、そこに意味をつけているのは自分である、ということです。どんなことも「人生は良くも悪くも自分が決めているのだ」ということが分かります。
エゴのフィルターを止めて、自分が創りだした幻想から抜け出してみましょう。
本質の中で生きること、その人生は幸せ一択です。
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