第25話 思い込みが固定観念に
ぼくのお話の中によく出てくる「自分だけのモノサシ」というものがありますが、これは固定観念のことだというのは以前どれかのお話で書きました。
固定観念というのは、分かりやすく言うと「○○は△△である」という形で、確認もせずに決定してしまっている物事のことです。昔の言葉で言えば「レッテル」です。
この世で固定できるものは何もありません。「諸行無常」という仏教の言葉がありますが、すべてのことは移り変わり、いつもと同じというものはない、ということです。たとえば、部屋の家具の配置は昨日と一緒だとしても、そこに積もるほこりの量は昨日とは違います。あなたの細胞も昨日とまったく同じということはありません。髪の本数も違うでしょうし、履いている靴の底は減っています。時間は進んでいましすし、ここにある空気と二酸化炭素は昨日と同じものでありません。
諸行無常だというのに、固定観念というのはおかしな話です。
人は固定したがります。あれこれ考えて生きるよりも、「だいたいこんなもの」という大きな枠組みで捉えたほうがエネルギーを使いません。そのほうが脳にとっては効率的なのです。
これは自然な作用で、意図的に脳を効率よく使おうとしてもできるものではありませんが、肉体を維持するために、エネルギーは効率よく使うほうがいいに決まっています。脳としては、この体を生き永らえさせることが最も重要なことなのです。
そうは言っても、固定観念だけで生きることは、人生での体験の幅がなくなります。いつもと同じような体験、いつもと同じような気分では、幸せや喜びも数をこなすほど減少していきます。
人生で幸せや喜びを味わうときというのは、自分の希望に沿った体験をしているときがほとんどです。
欲しかったものが手に入る。望んでいた職業に就くことができる。好きな人に会うなどなど。あるいは、どうしてもお金が必要なときにちょうど必要な額が手に入る。車で事故を起こしそうなときギリギリで回避できる。苦手な人に会いそうなときに回避できるなどなど、すべてその瞬間の希望に沿った体験です。
このような体験を経て得られる気分は、「神様、ありがとうございます」とつい言ってしまうこともあるぐらいです。
これが固定観念だけで生きていると、思考が固定されていきますから余白がなくなり、意図することは、すべて無意識の意図ばかりになります。そうなると、自分が正しいと考えていることが世の中でも正しいこと、あるいは、当然と考えるようになってしまいます。正しさは地域性もありますし、民族性もあるでしょう。何よりも人によって正しいことはそれぞれです。その中で自分の考えが正しいという形で固定された思考は、「ゆえに世の中が間違っている」という考えにたどりつき、そういう理屈で起こった痛ましい事件も起こっています。
本人の中だけで「これが正しい」と考えるのは自由ですが、世の中にはそれぞれの考えがあり、個人の「これが正しい」は通用しません。それでも自分を変えようとせずに、世の中が変わらなければおかしい、という発想になるのでしょう。
これらはすべて「思い込み」によって生まれる固定観念であり、誰も幸せにならない思考です。脳だけは効率的だと喜んでいるかもしれませんが。
正しさばかりではありません。たとえば仕事の仕方とか、家事の仕方とか、いつもの自分のやりかたが自分にとって効率的なのは間違いありませんが、誰にとっても効率的どうかは分かりません。人のクセのようなものや得手不得手で効率の違うやりかたがあるかもしれません。それでも脳は効率重視なので、いつも慣れたやりかたがいちばん効率的であると考えてしまいます。
脳にあらがうことはとても難しいことです。自分の意思だけでコントロールできません。いつも勝手に動いているのが脳です。五感はすべてセンサーでしかなく、そこから得られた情報で「痛い」とか「暑い」とかを判断して体に反応させているのは脳です。自分の意思で判断して反応しているわけではありません。
だからと言って、放置を続けていると、いつの間にかちょっとした思い込みが固定観念となり、どんどんいびつな「自分だけのモノサシ」を作り上げてしまうかもしれません。
「私は大丈夫」と思う人もいるかもしれませんが、それはすでに固定観念の中です。昔から「一寸先は闇」と言います。もちろんぼくが書いていることは、闇を見ずに済むようにと思って書いていますが、あなたの過去の意図がどんなモノかは分かりませんし、おそらく本人もどれが意図になっているかは分からないと思います。だとするなら、どのタイミングで「一寸先は闇」を体験することになるのかは誰にも分からないのです。それは「私は大丈夫」と考えた時点で、脳の効率性に飲み込まれているということです。
「大丈夫」と考えることは、ポジティブな思考であり、素晴らしいことです。しかし過去にしてしまった無意識の良くない意図がクリアになるまでは油断大敵です。良くない意図を消化したあとの「今・ここ」は、何の問題もなく、ほんのりでも幸せに生きているはずですから、すぐに分かると思います。
思い込みは、決めつけるところから始まります。物事を決定するということはあなたの正しいが出来上がるということです。なので、決めつけをやめることが必要です。
「今・ここ」に生きているといるのですから、今後変わらないものは「あなたが幸せな人生を歩む」ということしかありません。つねに「今・ここ」だけを生きていれば、何も決めつけることができないことが分かると思います。「今・ここ」はほんの一瞬ですから、変化も固定も存在しません。ただ瞬間の存在するだけです。
なので「幸せ」以外の決めつけは、あなたの人生を束縛していくだけだと理解してください。どんなことを決めつけても、あなたの人生の幅が狭まり、あなたの視野が狭まり、あなたのさまざまな可能性の芽を見えなくするだけです。あなたのすぐ脇を通り抜ける幸せですら見えなくなってしまいます。
決めつけをやめれば固定観念は生まれません。エゴがある以上、社会生活に必要な最低限度はかならず残りますから、ほとんどの固定観念はなくても大丈夫です。
それよりも、「今・ここ」というかけがえのない瞬間を、その新鮮さを楽しんでください。固定観念がなくなれば、何かの出来事に遭遇したとき「前にこれ体験した」という感想は出てきません。ということははじめて近い感覚で、以前に体験したことを楽しめるのです。
昨日が今日になり、今日が明日になるわけではないのです。それは記憶の再生でしかなく、今日は今日でしかありませんし、今のこの一瞬は、この一瞬しか存在していません。昨日のような今日というのは、昨日を思い出して、同じようにすれば楽に生きられると考えてしまう、脳による効率化です。
ちなみに「楽」と「楽しい」は違います。楽をしてはいけないということではありません。ただ「楽」のために人生のわきへ避けていた体験などは、いつかどこかで目の前に現れます。そのときになって、片付けなければいけないものは片付けなければならなくなるのです。結局のところ棚上げしたにすぎないということです。反面「楽しい」はその場で体験を消費しますから、全力で楽しめばいいだけです。その違いは覚えておいてください。
「いつもどおり」とか「普段どおり」などというのは、「今・ここ」を生きていないという証拠です。「今・ここ」を生きていれば、昨日など存在しないことが分かります。あると思っているのは記憶だけで、実際に存在することはありません。今日は今日のやりかたで生きることが、思い込みを生まず、固定観念を作らない基本です。
繰り返しになりますが、一瞬前と同じというものは「今・ここ」に存在しません。すべては一瞬に生まれ、次の一瞬で消滅します。そして次の一瞬でまた新しく生まれています。細胞も時間もあなたの体験も同じです。ずっと同じなどありえません。
いつも「今・ここ」に存在し、起こる体験を新鮮に味わって楽しんでください。
思い込みは幻想です。今見えているモノは、この世という次元ではそのように固定されて見えるかもしれませんが、実際は固定できるものではありません。固定していると思っていても、砂で出来た城のように次の瞬間には砂に戻るのです。あなたの脳の効率化につきあう必要はありません。
「楽」であることも、やがて新鮮味がなくなり、楽しいことは減っていきます。楽につきあってしまうと、その道の上で何をしようと、代り映えのしない「今・ここ」を感じてしまうのです。しかし代わり映えのしない「今・ここ」は、あなただけにそのように見えているだけで、つねに変化や進化をし続けているのです。
今という瞬間、あなたの身近を確認してください。よくよく観察すれば昨日とは違う「今」が転がっているはずです。
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