第23話 創造主とはなにかという推論

 最初のお話で「目に見えない~」ということを書きました。それきりあまり触れていなかったのでここで書くことにしました。

 ぼくは死んでいるわけでも、死んだことがあるわけでもないので、あくまでも推論です。いろいろな本で知ったことや、自分の体験を踏まえて、前提はあるものの論理的に話を進めていければと思っています。物理学の世界では理論物理学とか理論天文学というのがありますが、いわば「理論スピリチュアル」みたいな感じで受け止めていただいて、読み進めていただければ幸いです。


 前提としてキープしておいてほしいのは、「目には見えなくても存在するものがある」ということです。

 目に見えなくても存在するモノとしては、「心」や「愛」、「虫の知らせ」や「以心伝心」などが挙げられます。とくに「虫の知らせ」などは、たいていの方が偶然として片づけられると思います。でも、目に見えなくても存在するものとつながりがあると考えれば、この世から偶然や奇跡はなくなります。まさに科学的です。

 何度も書いていますが「魂」は大きなかたまりがひとつあるだけで、そこから各個人に分配されています。

 果樹で考えると分かりやすいかもしれません。元となる果樹の大木(魂)があり、枝の先には果実(肉体)がなっています。大木から送られているエネルギーが果実を実らせています。果実の時期が来て大木から離れると、果実は腐って終わりですが、果樹そのものはずっと立っている。そんなイメージです。

 果実と果実の間には大木があり、それぞれがバラバラなわけではなく、果樹という本体を通して繋がっています。その結果、果実と果実が意思の疎通ができても不思議ではありません。これが「以心伝心」になっているのでしょう。人間は個で存在するのではなく、何か主になるものがあり、そこから伸びた枝葉のような末端である、と考えるといいのかもしれません。

 さらに、大木の見ている世界と果実の見ている世界は違います。木の低いところでなっている果実と、高いところでなっている果実でも見ている世界は違います。大木はこれから起こる出来事を先に見て危険性を感じたとしたら、果実に伝わる可能性があります。その危険性について思い当たることがあるとしたら、果実にとっては「虫の知らせ」になるのではないでしょうか。


 幽霊や心霊現象なども、ほとんどの方には理解しがたいことかもしれませんが、それが「生きていた時の意識」と考えれば、理解しやすくなるのではないでしょうか。

 そもそも「意識」というのも目に見えるものではありません。でもぼくたちはそれが存在することを、確認できないまま理解しています。今でも科学的に確実な答えは出ていませんが、意識があることに疑う余地はありません。

 たとえば、こんな体験はないでしょうか。

 どこかの宿に行ったとき、生まれて初めて入る部屋なのに、その場の空気を重く感じたり、雰囲気が悪いと感じたりなど。それは、以前に部屋にいた人の残留思念なのかもしれません。さんざん言い争いなどがあったとしたら、その部屋には強力にネガティブな意識があり、それを肌感覚で感じ取ってしまっている、ということが考えられます。

 その流れで考えると、亡くなった人の意識が、その場に残っていても不思議ではなくなります。部屋の中には誰もおらず、すこし前にいた人のネガティブな意識だけが残っているわけですから、すこし前にいた人がいま生きているか死んでいるかなど関係がなくなります。

 ぼくは個人的に、幽霊は物質的な存在ではなく、亡くなった人の意識だと考えています。エネルギーとしてその場に留まっていたり、亡くなった人が誰かや何かに執着していれば、いわゆる憑りつくという状態になるのではないかと考えています。

 ポルターガイストと呼ばれる物理的な心霊現象も、意識がエネルギー化していれば、できるのではないかと思います。電気的なエネルギーや磁力的なエネルギーが合わされば、手に触れずとも物を動かしたりすることができます。リニアモーターカーなど地面から浮いているわけですし、超電導の理屈で言えば摩擦がほとんどないようなものですから、意識というエネルギーが強力であれば可能なのではないかと思います。

 霊視と呼ばれる力は、そこにある、亡くなった人の意識を受け取る能力で、霊的な存在も人の形で存在するのではなく、霊能者の脳の中で像を結んでいるような気がしています。そう考えると、誰もが見えるわけではないことも理解できます。

 感覚というのは人それぞれです。誰もがメジャーリーグでホームラン王になるわけではありませんし、百メートルを九秒五八で走れるわけでもありません。

 よく霊能者を何でも見えるとか、いつでも見えると考えている人がいますが、そんな霊能者はほとんどいないでしょう。草野球ではホームランを打つ人も、ドーム球場でホームランを打てるとはかぎりません。すこし感じる人もいれば、ものすごく感じる人もいます。その感度というかセンサーみたいなものは、環境や条件、体調などによって変わるのはアスリートと同じです。そして霊能者側だけではなく、そこに残る亡くなった人の意識の調子というのもあると思います。

 結局、分かる人には分かるというお話になりますが、それこそ「愛」や「心」、それこそ「意識」も存在証明はできないのに在ることになっているのですから、それと同じだと考えています。


 意識と同じ種類のエネルギーかどうかは分かりませんが、「愛」や「心=魂」も似たようなエネルギーなのだと考えています。

 誰かを愛するとき、そのエネルギーがあふれ相手に伝わります。相手に好意があれば、それは受け止められて、相手側の好意の意識が高まります。逆に相手に好意がなければ、そこからスタートするのか、避けられるかのどちらかになるでしょう。それをきちんと伝えるために言葉があります。言葉は意思表示であるとともに確認作業なのではないかと考えています。愛する気持ちが高まってきてそのエネルギーを送り出し「こちらから愛を送りましたが、いかがでしょうか」、ということを明確に伝えるために「大好きです。つきあってください」という言葉を使います。

 何となくではあっても、自分が好かれているということが分かるときがあります。これは勘違いもあるかもしれませんが、本当にそういう時もあるものです。

 「愛」を送る側はもちろん、「愛」を受け取る側も、「愛」を送受信する無線のようなものが必要になってきます。その無線のようなものが「創造主」なのです。

 神さまというと、人の形をした姿をイメージしますが、そもそも宇宙まで創造した存在だとしたら、人の形である必要はありません。というか、人の形のほうが不自然な気がします。

 地球人に分かりやすく地球人の姿で、ということは考えられますが、「愛」の化身ともいわれる存在が、天罰を与えたり地獄を用意する意味が分からなくなります。やはり一般的にイメージされる神さまは、時の権力者や権力が欲しかった人が、シンボルとして使用するために作ったイメージではないかと思います。具体的な像やシンボルなどがあると人を惹きつけたり、団結しやすいというのは戦時下でも同じです。

 「創造主」に姿カタチはありません。それだけに理解しにくいということがありますが、すべてに宿ると考えれば、理解しやすくなるのではないでしょうか。

 姿カタチがないのですから、肉眼で見ることはできません。しかもすべてに宿るわけですから、どこかに留まる必要もありません。とどまる場所ですら創造主です。

 つまり創造主は流動的なエネルギー的存在で、つねにすべてを満たしているということになります。

 「愛」の高まるところに創造主というエネルギーが集中したとしても、どこかに穴が開くということはありません。「すべて」ですから。

 スピリチュアルなどで言われる天使も、ぼくは同じエネルギーではないかと思っています。いわば思念エネルギーのようなものです。エネルギーそのものを創造主や天使、守護霊などと分別して呼んでいるだけではないか、と思っています。


 そう考えると、人間ではない特殊な存在というのを用意しなくてよくなります。

 創造主や天使、守護霊も精霊も、「魂」や「愛」も、また「引き寄せの法則」や「類は友を呼ぶの法則」で利用される作用も、このエネルギーを使用するときの方向性で名前が違うだけなのではないかとも考えることができます。

 何度も書いていますが「創造主」は「すべて」です。「引き寄せの法則」というシステム自体が創造主であったり、生命の危機があるとき天使が現れて助けてくれるというお話がありますが、それも創造主なのです。また自分が希望する人生を歩もうとするとき、最初の一歩はまず自分で踏み出さなければなりません。その直後から、希望の道へと推し進めてくれる追い風も創造主であると考えれば、ぼく個人としては納得できてしまいます。

 ただどうしても「これが事実です」と言って正解を提出することはできません。人生そのものが答えなので、答えが知りたければ自分で体験するしかありません。それでも、ぼく自身は「創造主」や「天使」、「引き寄せの法則」などを体験したことがありますし、三十年ぐらい前までは、その辺にいる半透明の人たちを見ることがありました。それらすべてが具体的に物理的に存在していると考えるより、意識とか思念のエネルギーが脳の中で像を結んでいるとか、日常生活で、理屈は知らずに利用しているけど便利なもの、と考えるほうが、話がスムーズになるような気がしています。

 そのエネルギーの使いかたを伝えているのが、現代のスピリチュアルと呼ばれるものではないでしょうか。

 ただ昨今の、いろいろな物質、たとえば道具や飾り、文言や儀式などに依存するやりかたは、個人的にどうかと思っています。意味がないとは思いません。意識を切り替えるスイッチとして機能しているのだと思いますが、物に依存すると自分を手放してしまうので、どうなのかなとは思ってしまいます。

 ぼくの見つけた考えや実践方法は、思考を変えて、行動を変えることだけです。モノはなにも必要ありません。呪文もないです。これぐらい気軽により人生を変化させて、幸せに生きることも可能であることを知ってほしいだけです。

 繰り返しになりますが、そんなものがあるかどうかは調べようがありませんから、ぼくの体験だけでは確信が持てませんし、何ひとつ断言することができません。このお話はあくまでも推論、仮説のたぐいである、ということでご了承ください。

 でも、肉眼で見えないからとなんでも否定するよりは、何かあるかもと考えることができて、もしよい方向に行くなら試してみようか、ぐらいに考えられるほうが、人生が楽しくなるような気がしませんか。実際に楽しい人生にするためのものですし。

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