第19話 思考と自我

 思考と自我


 人間は思い込みの生き物です。

 自分に都合の良いものだけを信じ、それを正しいとします。自分に都合の悪いものは否定し、間違いだとします。

 また、それが「今・ここ」における自分にとって正しいかどうかはともかく、一度納得してしまうとかたくなに維持しようとします。いわゆる「俺たちの時代はこうだった」が典型的な例です。時代や今の自分のスキルなどが考慮されず、自分たちが当時正しいと決定したことをいつまでも引きずっているパターンです。

 これが本人の人生にプラスに働くことなら問題はすくないかもしれませんが、自分の人生の幅、伸びしろのようなものを見るには、確実に視野が狭くなっています。

 人は思考によって行動を選択・決定しています。

 どの服を着るとか、どの靴を履くとか、どの道で行くか、どこに行ってなにをするかなどから、歯の磨き方、道のどこを歩くか、何を言うかに至るまで、すべて自分で思考し、たくさんある選択肢の中から一つを選び、決定して、行動に移します。目が覚めてから眠るまでの意識が働いている間、ずっとそうやって選択と決定を繰り返しているのです。

 そう考えると、人生の幅を見る視野が狭いというのは、自らの可能性を狭めているということにもなります。

 基本的には誰でも、人生の可能性は無限にあり、その人が決定し、強い意志と信念をもって行動を起こせば、ほとんどのことは可能になります。もちろん物理のルールという枠や得手不得手ということもありますが、それはやってみなければ分かりません。なので、早くに動き出した人ほど、善かれ悪かれ結果も早く出て、切り替えまでがスムーズになります。

 人生を見る視野が狭くなると、今やれることやこれからやりたいと思えることの可能性の幅もどんどん狭くなります。そういう視野の狭い人の口癖として「自分にはムリだと思う」というのが多いような気がします。

 元々自分の人生の幅、その全体像を見ようとしていないので、はじめから可能性の枠がとても狭く、自分の枠内に入ってこないものがほとんど、ということになります。もちろんこれは自分でそう思い込んでしまっているだけです。その気になればいつでもだれでも可能性は無限大です。なぜなら、誰もが自分の人生の「創造主」だからです。

 人は「魂」というエネルギーによって動かされています。そして魂は「創造主」であると繰り返し書かせていただいています。

 「創造主」とは「この世界」にないものを生み出す、創造する主です。人ひとりの人生の可能性など、どれだけでも広げられて当然です。

 しかし、目に見えるものだけが真実だと信じていると、創造主的可能性は途端に小さくなり、自分の体験したことや見聞きしてきたこと、つまり自分の過去の体験や経験だけで、自分のこれからの人生を創造することになります。宇宙規模の創造主とどこかの町の中で育った人間の想像力、その差は歴然です。

 べつに「創造主」がどうだという話はなくても構いません。大切なのは「自分には知らないことがある」と認めることです。この世のことだけでも人間が知っていることなんてほんのわずかです。しかも専門的に勉強や研究をしている人のお話を受け売り的に知っているだけの人がほとんどですから、それは知らないのと同じです。

 「自分にはまだ知らないことがある」と考えることは、確実に可能性を広げます。知らないことは知りたくなります。そうやって本物の知識を蓄えていくのも素晴らしいことだと思いますし、それもまた人生の視野を広げ、可能性を広げてくれます。


 思考とは自分の「今・ここ」での行動を決める指針です。その情報量や発想はどれだけあっても損はしません。

 ただ、この思考というのは扱いを間違うと一気に人生の道幅を狭めてしまいます。

 最初にも書きましたが、人は信じたいものしか信じません。たとえ肉眼で見ていても、自ら体験していても、信じたくないものは信じません。幽霊話などでよくある話ですが、肉眼でちゃんと見て、自分が不思議な体験もしたにもかかわらず、「見間違い」や「気のせい」という解釈で、事実を曲げてしまう人、多いです。

 自分の体験したことを疑いはじめたら、それまでの人生も疑わなければならなくなります。誰でも体験できることではないのに、なぜなかったことしてしまうのか、とても不思議です。

 この「今・ここ」でのリアル体験を信じられず、自分が育ててきた正論を信じてしまう状態を「思い込み」といいます。勘違いということもたしかにありますが、それなら間違っていたと分かった時に、それを受け入れて、自分の信じていたことを変更すればいいんです。それが勘違いと分かっても頑なに受け入れない、という人も中にはいらっしゃいます。これが「思い込み」です。

 「思い込み」はほとんどの場合、プラスに働くことがありません。

 正しく理解していると信じていることは「普通に知っている」という思考です。ごく当たり前のことだと理解していると思います。

 もしそれが間違っていたと分かったとき、正しく理解していると思い込んでいる人は、適当にごまかしたり、話を流したり、人によっては怒りだすこともあります。間違いを認めることができないのです。間違っていることを正しいことで上書きできない人は、より良い人生、幸せな人生を生きることができるでしょうか。

 より良い人生を味わうのなら、頑固さは必要ありません。頑固という漢字、「頑なに固まる」って書きます。「頑」という字も「固」という字も、人で表すと周囲を拒否している状態です。何事も否定をしていては、より良い人生の尻尾を見ることさえできません。頭を柔らかくして、すべてを受け入れるような器が大切なのです。間違いは間違いとして認め、すぐに変更できることが、人生の視野を広げてくれます。


 思い込みがより強固になるパートナーがいます。それが「自我」です。

 自我はエゴという言葉のほうが一般的に通用しているかもしれません。

 エゴを自分勝手という意味で使われていることが多いようですが、意味が微妙にずれているような気がするので、ここまでのお話では「自我」と書いていましたが。ここからは「エゴ」という表記にさせていただきます。ちなみに「自我」は一般的な言葉で、「エゴ」は哲学用語です。意味は同じです。

 簡単に説明すると「自分が認識している自分は自分である」、あるいは「周囲のすべてが自分ではないので、自分は自分である」と、自分を定義するものです。「我思うゆえに我あり」という大昔の言葉もありますし、辞書だと「自己」と書かれていることが多いのですが、自分が自分であるという精神的・思考的支柱です。


 社会生活において、エゴは生活必需品です。常識やモラル、マナーやエチケットなど、人が二人以上いる場面では、絶対的に必要です。法律を守るのもエゴがあってこそです。人が自分も含めて二人以上いればそれは社会です。親子、夫婦、カップルなど、どれだけ親密でも自分と他人がいればそれはもっとも小さな社会です。つまり、自分ではない誰かが他にいるのなら、エゴは必需品になるということです。

 しかし、自分の人生という、自分だけの個人の世界では、かなりの頻度でエゴがジャマになります。

 自分が正しいと信じて疑わないことに他人があれこれと言ってきたとき、たいてい聞く耳は持ちません。信じて疑わないのは「思い込み」です。それと同時に聞く耳を持たない、反発するとか拒否するいうのは、「自分は自分である」というエゴの機能です。もちろん自分は自分でいいのですが、その反発や拒否が自分の人生の幅を狭めていたり、壁になったりしているとしたら、そのエゴはジャマでしかありません。

 極端な例になりますが、戦争が起こるときのトップの人たちの頭の中は、思い込みとエゴのかたまりです。まったく周囲の様子を見ることも、話を聞くこともなく、自分が正しいと信じている理屈や屁理屈だけで突っ走りはじめます。いがみ合って始まった戦争であれば、対戦相手も同じような思考になっています。

 当人たちにしてみれば、どちらも自分が正しいと信じていて、疑うことはまずありません。そうなると巻き込まれる一般の人たちは大変です。反対の意思を表明したところで、トップの人たちの頭の中は、戦いのお花畑状態ですから、まったく聞く耳を持ってくれません。

 ほとんどの人が、その小さいサイズのことをやっています。人間にエゴがある以上しょうがない部分もあるのかもしれませんが、自分の人生をより良くするためには、なるべくエゴを出しゃばらせないようにしたいのです。

 思い込みという思考とエゴが合わさったものを、ぼくのお話の中では「自分だけのモノサシ」と呼びます。

 誰もが「自分だけのモノサシ」を持っていて、自分にしか通じない正論らしきものを他人に押し付けてしまうことがあります。その場において、自分だけは優越感や満足感を得られるかもしれませんが、確実に他人との摩擦を起こしますし、自分の人生の幅を狭めるだけの行為です。また人の幅の限定をしてしまうものでもあります。

 ただでさえエゴというのは、「私が~」、「私は~」と自分を主張するものです。この性質は人生を見失うのに十分なパワーを持っています。「私が~」という強い自己主張は、「引き寄せの法則」で言えば、私はそれを持っていない、私はそうなっていない、という否定の思考に繋がっているため、マイナスの人生を引き寄せます。

 先述しましたが、エゴは社会生活の中では、なければ生きるのが難しくなります。区別があるから各々の立ち位置があり、それが合わさって社会を構築しています。そのためだけではありませんが、エゴをなくすことは不可能です。自分が生きているかぎり、他者とのかかわりがあるかぎり、エゴは必要ですし、なくなりません。

 それが自分の人生だけを考えたときには、エゴがジャマになる場面というのが多くなります。エゴをなくすことはできませんから、どれだけエゴを抑えるか、ということがポイントになってきます。

 エゴを抑えると「私が~」という主張が抑えられます。それができれば、「思い込み」の思考とのつながりも弱体化することができます。その結果「自分だけのモノサシ」も曖昧になり、振りかざすことも少なくなります。

 「自分だけのモノサシ」が弱体化できると、他者との無用な摩擦を起こすことはなくなりますし、「思い込み」の視点から解放されますから、自分の人生の幅を俯瞰で見ることができるようになります。俯瞰で見る自分の人生はほとんどの場合、可能性無限大です。それを限定してしまうのですから、エゴと思考の組み合わせは、よくよく気をつけていなければなりません。

 人間は思い込みの生き物であることをきちんと理解して、思考の方向性に気をつけてください。エゴは生きているかぎり何も変わりません。自身のアイデンティティですから、急に変わっても困ってしまいます。しかし思考はあなたの意識の仕方で、いくらでも方向性を変えることができます。

 あなたにとって幸せな思考を持って、エゴに出しゃばらせないようにすることが、より良い人生に不可欠なのです。

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