第14話 「死」を考えて生きていく

 ぼくはすでに両親を亡くしていますが、母親を亡くしたときのお話です。

 肝臓がんで大腸などに転移しました。がんが発見されて半年で亡くなりました。

 そのとき、病室の看護師さんたちはもちろんお世話になりましたが、がん相談支援室という部署の看護師さんに大変お世話になりました。中村さんという方でしたが、とても笑顔の素敵な方で、会うだけで気持ちがすこし軽くなるような、素晴らしい女性でした。

 ぼくはうちの奥さんを伴って、その看護師さんにいろいろ相談させていただいたり、世間話のようなこともさせていただいていたのですが、その中で今でもしっかり覚えている、とても印象に残る言葉がありました。

 「世の中で絶対と言えるのは死だけです」

 ぼくはこの出来事以前から、スピリチュアルというのか、禅的というのか、そういう生きかたをしていたので、頭では分かっていたのですが、この言葉を中村さんの口から聞いたとき、すべてが一気に腑に落ちるような感覚になったことをよく覚えています。体で覚えるとはこのことだ、と今ごろ思っていたりします。ぼくもまだ発展途上です。


 ここでは「死」についてぼくが知ったことや気づいたこと、考えた結果などを書かせていただきます。

 人によっては「死」に対して嫌悪感をいだく方がいらっしゃるかもしれません。そういう方は今すぐここを離れてください。受け入れられないものを無理強いする気はありませんし、反対の考えを持つ方もいらっしゃると思います。内容によっては不愉快な気分になることがあるかもしれません。あくまでもぼく個人の結論であって、それが正解であるとは言い切れません。そのあたりをご承知おきの上、読んでいただけると幸いです。


 どこの誰であっても「死」を避けて通ることはできません。冷凍保存などで延命をしたとしても、冷凍されてるあいだは死んでるようなものですし、その間に地球がなくなったりしたらどういうことになるのかなと思ったりします。

 結局、人の人生とは、たとえ短命であったとしても、生きている間にどれだけたくさん幸せを味わったり楽しい思いをしたのかだと、ぼくは考えます。

 人が「死」に際して持っていけるものは思い出だけです。しかもその人生の総集編みたいなものですから、幸せや楽しさあふれる思い出がいっぱいあるに越したことはありません。

 幸せというのは、振り返って味わうものです。幸せ真っただ中のときはあまり気づかないものです。人によっては周囲が見えなくなりますし、それが当たり前であるかのように錯覚することもあります。だからこそ、幸せ自体は思いっきり味わって、感謝することが大切です。きちんと心から感謝することで、そのありがたさがもっと身に染みてくるはずです。

 そうやって振り返りつつ味わってきた人生の集大成が、「死」の瞬間に訪れる走馬灯と呼ばれているものです。

 死の瞬間に「幸せだった」と思える人の走馬灯はそれに沿った、幸せで楽しい思い出に浸る時間となりますが、「幸せだった」と言えない人は、ただただ反省や後悔しかない走馬灯になってしまいます。それがその人の人生だったということであり、人は生きてきたようにしか死ねないということです。

 人が死ぬということは、五感もなくなっていきますし、仕事や経済活動などまったく無意味になります。地獄の沙汰も金次第という言葉がありますが、天国や地獄は存在しないので、お金に執着してること自体が無意味になります。天国や地獄についてはまた別の機会に。

 そもそもお金に執着するのは、突きつめれば「死」を恐れているからです。どんなことでもたどっていけば、究極の恐れは「死」になります。

 仕事をしている理由はなんでしょう。好きでやっているだけの人もいるとは思いますが、ほとんどの人がお金のため、あるいは食べるためだと思います。なぜ食べなければいけないのでしょう。飢え死にしてしまうという、「死」に対する恐れということにならないでしょうか。

 おそらくそこまで考えて仕事をしたり、経済活動などしている人も少ないとは思いますが、本能的に避けようとしているのだと思います。誰もが思考のどこかで「死」を意識しながら生きているはずです。


 それでも結局、「死」を避けることはできません。一時的に避けられたとしても、この世に生まれたものは有機物であれ無機物であれ、いつかはかならず「死」に見舞われます。

 なのになぜ、そこまで「死」を恐れるのでしょうか。

 きっと、その先が見通せない、ということではないかと思います。「死とは何なのか」は時代を超えて議論されていたり、オカルトの酒の肴にされています。わりと話題にあがるテーマですが、真面目に取り組んでいる人はごくわずかです。

 結論から言えば、「死んだら分かる」ということになるんでしょう。しかしそれでは身も蓋もないので、ここではぼくなりの解釈を書かせていただきます。

 まず「死」を恐れる理由としては比較対象がないからです。

 脳は何かを理解しよう、認識しようとするとき、それに近い何かと比較してみて、「それではないからこれである」という考えかたをします。「白ではないから黒である」、「犬ではないからネコである」という考えかたです。

 「死」を認識しようとすると、それと対になるものが「誕生」ぐらいしかありません。しかしほとんどの人が自分の誕生の瞬間を覚えていません。そのせいで比較対象を失ってしまい、「死」だけが目の前に置かれた状態になっています。「本当に怪獣が現れた」と同じようなことですね。多くの人が呆然とするでしょう。比較対象がないので、比較のしようがない脳から見れば、得体の知れない「死」というイベントがこの先の未来に堂々と立ちはだかっている状態です。

 さまざまな想像を繰り返し、あーでもないこーでもないと考えたところで、「死」を理解したり認識したりすることはほぼ不可能です。「死」というイベントに参加しなければ何も分かりません。その結果、理解できない恐怖、避けられそうもない恐怖として、自分の未来に「死」が立ちはだかっているのです。

 中には、たとえば自分が病気などで、近々死ぬことが分かっている人などは、受け入れるしかないことを悟り、清々しく残りの人生を楽しむ姿勢になる人もいます。それは「今・ここ」が幸せであったり、平穏に過ごしている人にとっては、自然なことになっていて、恐怖のサイズ感が小さくなっているのです。


 たしかに「死」は恐怖を感じるもので間違いありません。ただ、いろいろと余計な想像をしたり、あーでもないこーでもないと考えることで、必要以上に「死」に対する恐怖を、自分で増やしたり大きくしたりしているのが現代人です。

 極論かもしれませんか、すべての人がかならず死ぬのだと。逃げることも避けることもできない。出来ることがあるとして、すこしばかりの先送りぐらい。「じゃあもうしょうがないか」、そういう考えが腑に落ち、体で分かったのなら、必要以上に恐れることはなくなります。

 誰もが老衰で穏やかに死ぬとは限りません。病気の苦痛の中で死ぬかもしれません。そういう場合、五感が失われることで苦痛は取り除かれるわけですから、逆に楽になって嬉しいかもしれません。それも死んでみないと分からないということです。

 生前の自我が強ければ苦痛が残るかもしれません。五感というのは脳が管理していて、肉体はすべてセンサーです。足の裏でおかきのかけらを踏んだとします。もちろん痛いわけですが、「こちら足の裏、危険な刺激のある何かを踏んだ」と脳に連絡が言って、脳が「痛いアラート」を発動することで痛いと感じるわけです。

 自我が強いまま死ぬということは、死後もそのセンサーの感覚を機能させておきたいという自我の意思があるわけですから、死後もまだ、自我を含んでいる脳内で生まれた意識や意図によって、感覚の誤作動が起こる可能性が高くなるというわけです。そうすれば、肉体が滅び火葬もしたのに、意識や記憶にある苦痛が残り続けます。本当かどうかは分かりませんが、亡くなって四十九日までは、魂がこの世に残っていると聞きます。そのあいだまだ自我があり、ネガティブな思考が残っていれば、おそらくそれが地獄ではないでしょうか。

 自我はつねに自分を意識しています。そうやって「周囲とは違う自分」とか「私は○○である」と自分を位置付けています。おそらくその根っこにあるものは安心感への欲求だと思います。あくまでも自我の側面のひとつですが。

 「死」を前にして、まだ「死」を覚悟することができず、受け入れられない人の場合は、苦痛が残るかもしれません。でもほとんどの人が、「死」を理解し、受け入れているようです。


 人は主観でしかものを見ることができません。生きている人から見た「死」は恐怖でしかありませんが、肉体から離れた人たちの主観で見ればどうでしょう。いわゆるあの世というのは天国であることが多いようです。

 「死」はあの世から見れば誕生であり、誕生は旅立ちにあたります。

 物事の本質は肉眼で見ることができません。創造主、魂、愛、心などがそうです。本質が肉眼で見えないのであれば、人の本質も目には見えないモノのほうが主軸となるのではないでしょうか。そう考えると、あの世こそが本質であり、この世は体験の場と言えるかもしれません。

 五感のない存在にとって、肉体があることは苦痛であったり大変だったりします。重力は感じるし、お腹はすくし、暑いの寒いの、痛いの苦しいのと、幸せとは縁遠いような体験が目白押しです。

 しかし、肉体のない状態から考えれば、体験をするために肉体を利用すると考えても不思議ではありません。暑い夏に吹く冷たい一陣の風や、寒い日にあたるストーブの温かさ、ざるそばの喉越しなど、肉体無しでは味わえません。そうやって幸せや喜び、楽しさや充実感を味わうためにこの世があると考えることができます。そのほうがこの世の存在意義も見えてきますし、理解しやすいです。

 つまり「死」とは、この世で出来る体験を終え、母の胎内に戻るようなものではないでしょうか。

 必要以上に恐れるのであれば、いつ死んでも後悔しないように「今・ここ」を幸せで満たすことに力を注ぐほうがいいのではないかと思います。

 どうあがいても「死」を避けることはできません。ならば、どう生きるかを考えるべきではないでしょうか。「死」を考えなければ「生きる」ことは考えられません。「生きる」ことを考えたとき、「死」は恐怖の対象ではなくなっているはずです


 最後に。

 自殺はやめたほうがいいです。

 ぼくが過去に体験した自殺者の魂は、生きているときに味わったであろう、もっとも苦痛がピークの時の気分を抱えたまま、何度も自殺を繰り返していました。苦しいまま、つらいままです。おそらく自我を手放すまで続くのでしょう。

 死んだら楽になるという考え。楽かどうかは死んでみないと分かりません。ぼくが見てきた自殺者たちは百パーセント、すべての人が苦痛のままでした。人生における問題の答えを、あまり簡単に出すのはやめておいたほうがいいと思います。詳しくはまた別の機会に書かせていただきます。

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