第12話 この世界は真理 この世は幻想

 日常生活の中で、自分の目で見ているものが真実であると信じているでしょうか。

 ぼくたちの目が見ている世界は、あくまでも光の信号です。

 ちょうど地上デジタルのテレビに似ています。外部から信号が送られてきて、それをテレビの中で処理して画像と音声を組み立てる。ぼくたちの見ている世界もまさにそれで、外部から光による信号を目でキャッチして、脳内で画像にしています。

 そんなことバカなことはないと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、真っ暗闇では何も見えないという事実があります。光の信号が遮られれば、目から信号が入ってこなくなり、画像にする手立てがありません。だから何も見えなくなるのです。

 つまり、ぼくたちの見ている世界は脳内で作られた画像を、現実だと認識しているにすぎないのです。

 そして脳には自我があり、主観があります。

 ぼくのお話では主観に「自分だけのモノサシ」という名前を付けています。

 「自分だけのモノサシ」とは、その人だけの当たり前や普通、常識だと信じているものです。一般的な言葉で言えば「固定観念」のことです。普通や常識と言っても、あくまでもその人だけのものであって、すべての人と共通するものではありません。中には一部共通することもありますが、それも突き詰めていくと少しずつずれていきます。それは人生における体験が違うからです。まったく同じ人生を生きている人でないかぎり、親子でも双子でも親友でも、まったく同じモノサシは存在しません。

 脳内にある「自分だけのモノサシ」は、自分の内から出るだけではなく、外から入ってくるものにも影響を与えてしまいます。それが「脳内フィルター」の役目です。

 昔の言葉で「色眼鏡で見る」というのがありますが、まさにそれです。青いものも黄色いレンズを通して見れば緑色になります。モノサシを通すことで、事実が自分の理想に沿って見えてしまう効果があります。一般的な言葉で言えば「偏見」です。

 偏見というと、対人関係などでよく使われますが、生きることすべてにおいて影響があります。とくにモノサシを振りかざすタイプの人は顕著です。

 たとえば、ある家で火事があったとします。あっという間に燃え広がり全焼は間違いない様子です。そのとき、一人の男がその家の子供を抱きかかえて脱出してきました。ここまでなら子供を助けた英雄です。しかしその男、実は窃盗犯だったらどうでしょう。あなたなら善悪、どちらを重視するでしょうか。

 物事というのはどんなことでも、その一面だけを見てすべてを理解することは不可能です。表側が真っ赤でおいしそうなリンゴも、裏を見ればさんざん虫が食べた跡があるかも知れません。身なりがきちんとしていて、さわやかで紳士的な男性であっても、結婚詐欺かも知れません。逆に、やんちゃな雰囲気しかない人なのに、心優しく紳士的であったりすることもあります。このようなこともあるので物事の一面だけを見て理解した気になってしまうのは、場合にもよりますが危険ですらあります。


 ではこの世はどうでしょうか。

 多くの人たちが、訳知り顔でこの世を語っているのを見かけます。

 科学について、研究者でもない人がまるですべて知っているかのように「科学的ではない」と言っていたりします。ぼくの学生時代、日本史の授業では「足利尊氏像」として教えられた肖像画も、今ではただの騎馬兵になっています。

 気づいてほしいのは、この世のすべてはまだ途中経過であって、「絶対」はなく、対象の一面しか見ていない、ということです。今のところ、この世での絶対は「生まれたら死ぬ」ぐらしかないのではないかと、ぼくは考えています。

 アスファルトの敷かれた道路のようなもので、その薄皮の下に何があるのかを、誰も正確に把握してはいません。そこに地震のような刺激が加わったとにきに道路が割れて、はじめて自分の目でアスファルトの下に何があるのかを知るのです。

 この世も同じで、ぼくたちが普段目にしているのは、アスファルトのような薄皮でしかなく、その下に何があるのかを考える人はあまりいません。にもかかわらず、アスファルトこそが常識であって揺るぎないものだと考えています。これこそが「自分だけのモノサシ」の「脳内フィルター」効果です。

 人は誰でも安心したいものです。安心とは、変わらないものや固定されたものによって手に入ります。アスファルトのような薄皮でも、ずっとそこにあれば固定されていると勘違いして、安心することができます。こうやって安心したいがゆえに固定されていると決めつけてしまう思考がフィルターです。しかし地震など、何らかの衝撃によりアスファルトが割れてしまうと、とたんに不安が全身を駆け巡ります。今まで固定されていると信じていたものが崩れてしまったからです。

 自分の理想的な状態を維持したいがために、多少無理をして事実を曲げてでも捏造しているのが「自分だけのモノサシ」による「脳内フィルター」効果なのです。

 自分の信じているものが変わってしまうのは誰でも不安です。しかし、そもそも固定されているものなどなかったとしたらどうでしょう。自分勝手に固定されていると決めつけて信じていただけで、実際には何も固定されていなかったとしたら。自分の信じているものが真実ではなかったら。


 この世は幻想です。目に映るものすべては「自分だけのモノサシ」という「脳内フィルター」を通したものであり、真理ではありません。

 ぼくにしてもあなたにしても、自分の都合のいいようにしかこの世を見ていないので、当たり前であるとか普通であると信じていることも、結局は自分の都合で捻じ曲げられたものを見て、さらに自分にとって都合のいい「この世」を信じて、固めつづけているだけです。

 分かりやすい例で言うと、心霊現象などは結論が出ないまま時間が経っていますが、今のところ、「そんなものはない」ではなく、「分からない」というのが科学的に正しい答えだと思います。誰も研究対象にしていませんし、すこしぐらい霊的なものに近い研究がなされても、根っこに物理のルールを置いていては、最初から立ち位置が違うので研究成果が出ることはないでしょう。

 もしこういった心霊現象が、真理の世界の一部だとしたらどうでしょう。奇跡的に「この世界」に触れたとしたら。


 「この世界」とは「真理」や「悟り」のことです。人間には分からなくても、永遠に存在する世界のことで、いわば「創造主」そのものです。ということは、「魂」そのものであり、「愛」そのものだということになります。ある工学博士の言葉を借りると「ゼロポイント」とも言えるでしょう。始まりであり終わりであり、AでありZ、であり、光であり闇であるもののことです。

 人類がまだ知らない宇宙のはしっこからはしっこまで、また人類がまだ知らない多次元の数々、さまざま存在やその存在の仕方、多様な思考も含めて、その「すべて」のことを「この世界」しています。ネイティブ・アメリカンの人たちが「大いなるすべて」と言っているのは、もしかしたらこのことに気づいていたのかもしれません。

 話がそれますが、ぼくは幽霊という物質としての存在は、ほとんどないと思っています。その人の「心」、それに伴う少しばかりのエゴが存在していて、いわゆる霊能者が見る幽霊というのは、この世に残っている「心」を、最初に書いた地デジのテレビみたいに脳内で具現化しているのではないかと考えています。詳しくはまた別の機会に書かせていただきます。

 話を戻します。

 場合によっては意図的に、場合によってはさまようように、生死の区別なくさまざまな人の「心」が存在している「この世界」と、何かのきっかけで周波数的なものが合ってしまって、真理に触れてしまう、ということがあってもおかしくないのではと思います。

 周波数的なものというのは、「魂」の波動と言ってもいいと思いますが、魂と思考が上手く同調しているとき、それは「創造主」の力を発揮するときで、そのタイミングであれば人は「創造主」の目を持つことになり、「この世」だけではなく「この世界」を体験できるのではないかと思います。

 「この世界」に触れることができれば、「この世」がいかに小さくて、不安定で、固まっていないかが分かります。それとは逆に真理はまったくの不動です。そもそも「すべて」ですから、動きようがありません。このことを昔の人は全知全能と言っていたのだと思います。「すべて」であるなら、どんな知識も体験も、どこかの誰かの思いですら知っていて当然です。

 臨済宗の禅僧は、公案という禅問答で悟りにたどり着きますが、頭で考えることを突きつめて過ぎて、もう考えることができないとなったとき、その先にある感覚だけの世界にたどり着きます。そこで「悟り」=「真理」を体験しているのではないかと考えたりもします。ぼくは我流でしたがこのパターンでした。

 また、身近なところで言うと、以心伝心やテレパシー、シンクロニシティーや偶然の一致、虫の知らせなども「この世界」での出来事だと思っています。それに近くて理解しやすいのがバタフライ・エフェクトかもしれません。

 大雑把な話かもしれませんが、今はオカルトという枠に入れられている現象も、もしかしたら「この世界」での出来事であり、真理かも知れません。

 ぼくの記事を飛ばし読みされてる方がいらっしゃれば、ぜひ「創造主」についてのお話を読んでみてください。もうすこし詳しく書いてあります。


 まだ詳しくは触れませんが、ぼくが小さな悟りにたどり着いたときに得たものがあります。それは「すべてはひとつである」という考えです。詳しいことはもうすこしお話を進めてからのことになりますが、おそらくこれが「この世界」での究極の答えだと思います。

 その断片が、「この世界」とは真理そのものであること、「この世界」とは「創造主」そのものであること。つまり「すべて」であるということです。

 孤独や分断などは「この世」的、物理的な見かけだけであって、「魂」や「愛」という真実の視点で見てみると、何ひとつ分断などしておらず、すべてが繋がっていることが分かります。というかすべてが同じものだと理解できます。

 そんな「この世界」に含まれている「この世」で、分担や仲違いが起こるのは、そういう体験をする人たちが自我を優先しているためだと思っています。人が生きている間というのは見かけに騙されるものなのでしょう。誰が上だとか、数字がどれぐらいだとか、「創造主」にとってはまったく意味のないことです。なぜなら、すべては同じですからね。どんぐりの背比べにもならないです。

 社会の中で生きている以上、「この世」のルールに振り回されることはしょうがないかもしれません。きっとどうしようもないことなのでしょう。でも、仕事をするとか学校に行って勉強することと、「生きる」ことは別です。仕事や学校に行くことのゴールというのは、必ずしも幸せということではありません。超エリートでも犯罪者になってる人って、けっこういますからね。

 しかし「生きる」ことのゴールはかならず幸せです。自分自身の意図的な思考は必要になりますが、生きているもののすべてが幸せを目指していますから、真理と意気投合して、あっという間に幸せの道を歩むことになります。

 だからこそ、幻想の「この世」に惑わされることなく、真理の「この世界」という大舞台を知り、体験して、遊びほうけてもらえたらと思います。

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