第5話 愛の本当の意味

 愛という言葉には二つの意味があると思っています。

 ひとつは「本質的な意味・神性としての愛」です。

 そしてもうひとつは愛情や恋愛などです。「好きという気持ちの最上級」としておくと分かりやすいでしょうか。


 さて、愛というと何を連想するでしょうか。

 甘酸っぱさやほろ苦さなどでしょうか。ぼくはあまり恋愛経験がないのでよくわからないですのが。

 多くの場合、人を好きになったり好かれたりとか、家族や友人など大なり小なり、コミュニティーへの思いということになるかもしれません。大雑把にまとめてしまうとポジティブな感情、ということになるかもしれません。

 では「憎しみ」はどうだと思いますか。まったく無関係の見知らぬ人に憎しみをいだくことはさすがにありません。知人であっても少々のことであれば憎しみという感情には至りません。しかし信頼していた人間に裏切られたときや、愛する人に無碍にされたとき、そんなときに憎しみが生まれるのではないでしょうか。

 つまり、憎しみも愛の一部なんです。恨みや嫉妬、恐れなども「好き」の裏返しであって、すべて愛の一部です。

 「愛」とは、人の心にあるバロメーターの名称だと考えてください。

 メーターの針がプラスのほうに動けばポジティブ、つまり肯定的ですし、マイナスのほう動けばネガティブ、否定的ということになります。

 いま解説している意味での「愛」はただのバロメーターですから、それ自体に意味はありません。大切なのはメーターの針をどちらに振るか、です。

 バロメーターの針は、思考の状態で変化します。

 日常的にポジティブであれば、起こった出来事を受け入れ、許し、すでに過去のものとして学べるものは学んで、さっさと忘れることができます。これは「楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう」という現象が代表作ですね。逆に否定的であれば、起こった出来事に対して怒りや恨みなど、負の感情が生まれ、いつまでもそこに引っ張られ続けます。引っ張られるというよりも、自らその出来事の時間的なポイントで思考停止してしまっている状態です。そこで止まっているわけですから、その間はずっと嫌な気分のまま過ごすことになります。

 日々、肯定的な思考で生きていれば、必要のない負の感情に振りまわされる必要はまったくありません。笑っても一分、怒っても一分です。人生は長いようで過ぎてしまえばあっという間ですから、すこしでも負の感情に振り回されないこと、「愛」というバロメーターの針をマイナスの方向に振らないことが、幸せにとっての重要な条件になってきます。


 愛はすべての人が持ち合わせています。

 恋人や好きな人だけではなく、見知らぬ人や動物や植物への愛、道具や物へのもあるでしょう。こちらは「与える愛」ですね。その逆、恋人はもちろん、見知らぬ人からの親切という愛や、動物や植物からの愛、道具や物からの愛もあります。「与えられる愛」です。壊れかけの家電に「今だけは仕事をして」とお願いすると急に治ったりしたことはありませんか。それもラジオからの「与えられる愛」なんです。つまりこの世界に「愛」のないものは存在しないということです。

 なぜなら、「愛」の別名を「創造主」というからです。神と言ったほうがイメージしやすいかもしれませんが、ここでは誰かがイメージした人工物の「神」ではなく、真理である「創造主」で話を進めさせていただきます。


 一般的に認識されている神という存在も、愛の象徴のように言われていますが、それは創造主も同じです。ただ、創造主に否定はありません。すべて肯定のみで出来ています。そこが「神」と「創造主」の決定的な違いです。

 否定の思考を持ついわゆる「神」と呼ばれるものは、大衆を惹きつけ誘導するための仕組みでしかありません。本当に全知全能であるなら、必要のないものは捨てればいいだけですから、「言うことを聞かなければ云々」とか、「罪を犯せばどうの」とか、そんなネガティブなことを言う必要はないはずです。結果「神」も創造主が創造したものだということです。

 「創造主」は、ひたすら創造を繰り返しているだけです。では何を創造しているのか。それは人生です。それぞれの肉体が無事であるかぎり、その人にとって都合が良くても悪くても、すべての人が「今・ここ」の次の「今・ここ」というポイントを創造しています。どんな次の瞬間が来るかは、各個人の意図次第です。その積み重ねが「人生」と呼ばれています。

 否定のない創造主は、ただ肯定するしかありません。誰がどんな生きかたをしようと肯定します。この姿勢こそが本質的な「愛」なんです。


 この瞬間も、すべての人が愛とともに生きています。どんな形であれ、愛を感じたり、与えたり、受け取ったりしています。

 「愛」という名のエネルギーは、「魂」から生きているぼくたちに向けて、肉体が動かなくなるまで供給され続けます。愛というエネルギーがなければ、生物は、とくに人類はすでに絶滅しているのではないでしょうか。

 そして、すべての人が「魂」そのものです。魂のない人は生きていません。この世界に存在する魂は、何もかもが創造主からの枝葉に過ぎません。とくに人類は誰もが同じ魂だからこそ、誰もが同じように自分の人生を創造する力を持つ「創造主」として生きて、つねに次の「今・ここ」を創造しています。

 さらに、「創造主」とは「愛」そのものです。愛こそが創造主とも言えます。この世界を支配しているのは今も昔も「愛」です。物質世界的な意味で言えば、ゼロから一を生みだすのも愛あってこそですし、子孫を残し、種を存続させようとする力も、愛です。思いやりややさしさなど、目には見えない非物質世界的な意味でも、根っこにあるの愛です。

 結果として、


「愛」=「魂」=「創造主」


 この公式が人間の本質です。

 あなたが生きている以上、「愛」というエネルギーを受け取りつづけます。その元締めはこの世界にひとつしかない大きな「魂」です。それは「愛」のかたまりであり、「創造主」と呼ばれています。

 これがひとつめとして挙げた、「本質的な意味・神性としての愛」です。


 もうひとつの「好きという気持ちの最上級」としての愛についてです。

 先ほども書きましたが、「愛」=「創造主」ですから、完全に肯定しかありません。創造主に否定的な思考や行動は存在しません。

 このことから考えて、愛するという思考や行動は、すべてを受け入れるということになります。否定しないということは、たとえばそれが人であった場合、相手の言動を受け入れる、つまり、すべて受け入れて許す、ということになります。もちろん無理やり受け入れたり、我慢してまで許したりすることではありません。自然に、ごくあたりまえに受け入れて許すことができるとき、本当の意味で愛していると言えるのです。

 たとえば、生まれたての赤ちゃんの失敗や粗相などに対して、否定的な言動をする親はめったにいません。その時はため息のひとつぐらい出るかもしれませんが、受け入れて許しているはずです。生まれて一年未満ぐらいの赤ちゃんというのは、自我がまだ確立していないので、親の自我とのぶつかり合いがないため、親のほうも苛立ちがそこまで大きくならないのでしょう。

 またペットが相手であっても同じような傾向があります。めちゃくちゃかわいいので許す、ということありませんか。

 この状態が「受け入れて許す」という、本当の愛なのです。

 しかし、自我が確立されてからの愛は、言葉が悪いですが、身勝手や自分勝手が前面に出てきます。「自分の思っていたのとは違う」とか「あなたはこうでなければならない」とか、ひたすら自分の自我をむき出しにしてしまい、個人的な自分の欲望を愛と勘違いして、相手をコントロールしようとします。その最たるものがストーカー犯罪です。そこには、受け入れることも、本人の意思を尊重して許す、という考えも存在していません。

 多かれ少なかれそういう傾向は誰にでもあります。誰だって恋人や好きな人には、自分の好きな髪形やファッション、趣味の方向性や笑いのツボなど、揃っていたほうが分かちあえて楽しいに決まっています。最近ではペットに対してもそういう傾向が見受けられますね。

 でもそれは、自分の趣味嗜好に合わせようとする身勝手や自分勝手であることを自覚しなければいけません。相手には相手の趣味嗜好があり、それを無視してまで主張を押し付けるのは違います。もし相手が受け入れてくれるのなら、大いに感謝すべき点です。相手のほうが「愛」に生きているということです。その場合は、強制している側が「生きる」を学べていないということになります。

 なので、「受け入れて許す」という思考と行動こそが本当の愛なんです。

 お互いが譲れるところは譲り、譲れないところは譲れないものとしてすり合わせる。その違いを受け入れて許しあえることで、本当の愛の体験になり、お互いが霊的な意味で成長していくんです。

 ぼくからすればそんな簡単に「愛してる」という言葉は使えません。ちなみにぼくは結婚していますが、数えるほどしか言えてないです。他人の人生を背負える覚悟がふわっとしかないので、「好き」という言葉だけですね。

 「愛してる」という言葉を口にするときは、「私はあなたのすべてを受け入れて許す。けっして見返りを求めないし、あなたがあなた自身に向ける意思決定のジャマはしない」と言ってるのと同じです。

 実際の場合、ほとんどそこまで覚悟をしないまま言葉にしているでしょうから、人間関係が上手くいかないことも当たり前と言えば当たり前なのかもしれません。


 愛は「すべての気分を計測するバロメーター」のことであり、また「見返りを求めず、すべてを受け入れて許すという覚悟」という意味があります。

 あくまでもぼくの思考や体験から導き出した、今のところの結論であって、これが正解かどうかはまだ分かりません。こういった問いはおそらく一生自分に問いかけていくことになるだろうとは思っています。

 ただぼくは、このひとまずの結論にたどり着いてから今までの十数年、ずっと幸せで、平穏に暮らしています。物理的ルールに縛られた人生の中で、特別なことはとくにありませんが、びっくりするほど平穏で順調です。順調って幸せなんです。

 簡単に愛を語る人は、本当の愛を理解していないのだと思います。それはそれで、当人や関わる人が幸せな状態や状況を維持することができればいいのですが、ほとんどの場合、そうはうまくいかないようです。

 それでも、あなたに「魂」があるかぎり、いつでも「愛」に包まれて、人生を「創造」して生きているということを忘れないでほしいと思います。

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