第3話 神を定義してみる

 神さまというと、白髭で白装束、あとは杖を持っていたり、頭に月桂樹の冠をかぶってたりしているかもしれません。ほとんどの人がそういうイメージを持っているのではないでしょうか。

 また、悪いことをすれば天罰を与えてきたり、信仰という形で崇拝しなければならないとか。あるいは信仰に際して、衣装や儀式、言葉や文言など、宗教によって違いはありますが、決まったものがあり、そこから逸脱することは許されない、とか。

 神さまがいると信じている人たちの多くは、第三者的な存在として理解されていると思います。その結果が上記のイメージではないかと思います。ネタ元はギリシャ神話でしょうか。

 もちろん、そういう形で信仰されている方や、そうであってほしいと考える方は、そのままで結構だと思います。「生きる」中で最も大切なことは自分が「幸せである」ことだけで、その形を問うものではありません。

 ここでは、そういう形の神さまを信じられない人たちへの、ひとつの仮説として読んでいただけるとありがたいです。


 ぼくの中には、先ほどのパブリックイメージ的な神さまは存在しません。

 その理由としてはいろいろあります。端的に言えば矛盾が多いということです。

 そのひとつとして、神さまがこの世界を創ったのであれば、なぜその姿が地球人の形をしているのか、ということがあります。

 地球からでも夜になれば肉眼でも、無限とも言えるようなたくさんの星が見えます。また肉眼では見えない星はもっとあります。数えきれないほどある星の中に、地球人と同じ姿をした存在がどれだけいるのかという疑問があるのです。ぼくはもっと違った姿かたちで存在していると考えています。それは地球人から見ておぞましい姿なのかもしれませんし、奇天烈な顔をしているかもしれません。なのになぜ神さまは地球人の姿形なのか。

 ぼくのたどり着いた答えとしては、人間の姿であるほうが、理解しやすくとっつきやすいということだと思いました。怪物や妖怪などは人間や動物、植物、また器物などの形から変形したり、何かと何かがミックスされたものが多数です。ぼくの知るかぎり、クトゥルー神話に出てくる旧神だけがグロテスクで、あからさまに異形の存在です。

 どこかの時代のどこかの誰か、おそらくは富や権力を自分、あるいは自分たちに集中させたい人たちが、想像力を駆使して生み出した存在ではないか、と考えました。きっと本物の神さまに会った人はいないのでしょう。人間の想像力を超えていない気がします。もし会ったとしても言葉にすることはほぼ不可能な存在だと思います。

 また、愛の象徴である神さまが、人間のやることぐらいで目くじらを立てて天罰などという面倒なことをするのかという疑問がありました。

 人間を創りだしたのが神さまであるなら、失敗作になってしまった人間は削除すればそれで話は終わります。反省させて更生するという手間を考えると、削除するのが手っ取り早いです。

 全知全能であるならば、犯罪を犯したり、戦争を始めたり、銃火器を発明したりする人間を生みだすでしょうか。生み出すとしたら何のために地球があるのかという疑問が生まれますし、地球を壊すような真似をする人間を生みだした時点で、何がしたいのだろうと考えてしまいます。最初から完成形の地球と、完成形の生物を用意すれば、永遠に地球は存在するかもしれません。ただその地球に何の意味があるのかは分かりませんが。そもそも、神さまが目くじらを立てるとは思えないです。

 また人間に自由を与えているのだ、ということであれば、天罰を与えるとか、地獄行きなどというペナルティーは必要ないわけですし、ここにも矛盾を感じてしまいます。

 他にもありますが、このふたつの疑問が、ぼくの中でパブリックイメージ的な神さまが存在しないという大きな理由です。


 さて、ここからはぼくの思想の根幹のお話になります。

 ぼくは「すべては神である」と考えています。

 太古の人々が神と崇めたものの多くは自然現象です。自然の猛威や天変地異を体験したときに感じる恐怖や畏怖心が、神を生みだしたのだと考えています。それがアニミズムに繋がっていると考えています。

 今でもネイティヴ・アメリカンの人たちの思想として、森羅万象に神が宿るという考えがありますし、アイヌの人たちも同じような思想です。

 「すべてが神である」と考えると、もちろん人も神であるということになります。

 実際にぼくは誰もかれもが神であると思ってます。それどころか無機物や有機物を問わず、何もかもが神だと考えています。

 ではなぜ人間は全知全能ではないのか、という疑問が生まれます。

 今のところの答えということになりますが、自我が人々の神性みたいなものをを阻害しているのではないでしょうか。

 生まれたての赤ちゃんに対して「天使みたい」という言葉を聞くことがあります。

 このことについてぼくは、「みたい」ではなく、ある部分「天使」だと考えています。

 自我もまだなく、誰かや何かとどっちが上だの下だのと比較することもなく、損得勘定で動くこともなく、「今・ここ」というかけがえのない瞬間を、精一杯に生きて存在している。これがこそが神の本質であると考えています。ある部分というのは肉体があるかないか、その一点です。

 大人であっても、その心には神性が存在しています。誰もが赤ちゃんの時代があるわけですし、覚えていないかもしれませんが経験がないわけではありません。ただ大人には、社会性という名の自我がフタになって、神性の部分を閉じてしまっているので、その神性の力が発揮されず、まったく気づかないまま日々を生きる状況になっているのです。

 ここで言う神性とは、忘我の境地というと分かりやすいでしょうか。誰しも、我を忘れて集中する時間を体験したことがあると思います。本を読んでいたり、映画やテレビドラマを見ているときなど、それ以外のことを一切考えていない時間、集中力の極みみたい瞬間に、その人は神性を発揮しているのです。「無我夢中」という言葉がありますが、まさにそれこそが神である瞬間です。

 ほとんどの人たちは、つねに次の段取りのことを考えていたり、今考えなくてもいいことを考えています。人は一日に六万回思考しているという記事を目にしました。一日、八六四〇〇秒のうち、寝ている時間は別にして六万回も思考しているのです。これだけ考えごとをしていれば、自分の本質などに気づく暇もありません。

 社会的な側面、つまり仕事や学校、家事などでしなければならないことがあるのも分かりますし、それゆえ考えなければならないことがあるのも仕方がないと言えば、そうかもしれません。でもそうやって考え続けた結果、今のあなたが出来上がっています。

 あなたが今のあなたに満足しているのであれば何も問題はありません。でもそこに不平や不満があるのなら、すこし生きかたを変えて、あなたの本質である神性に目を向けてみてもよいのではないでしょうか。


 神さまは、いつも自分の中にいて、すべての中に存在しています。

 それには形などなく、特定の何かということでもありません。いわばエネルギーのようなものだと考えると分かりやすいかもしれません。

 これがぼくにとっての神の定義です。


 最後になりますが、何度も「神」という言葉を使っていますが、「神」は人間が想像して作り上げた存在なので、ぼくは普段「神」という名称を使っていません。

 この世界を、そして自分の人生を創造する存在であることから、ぼくは「創造主」と呼んでいます。スピリチュアルの世界では「大いなるすべて」とか「グレート・ワンズ」と呼ばれていることもあります。

 今後、「神」という言葉は使わずに「創造主」で統一しますのでご承知おきください。

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