銀白色は写さない

飯田華

銀白色は写さない

 伝えたい想いを、ファインダーの内側にぶつけて、伝え損ねて。

 それでも私はカメラを構える。  

 銀白色を写さないよう注意を払って。

 レンズのピントは、彼女を捉えるためだけに絞られていた。

 

 

 

「はーい撮るよー! こっち向いてー!」

 晴れ舞台。卒業式が終わり、同級生たちとの別れも早々に済ませた後。

 筒に入った卒業証書を右脇に抱えて、ぎこちない笑顔を浮かべながら左手でピースを作る私には今、黒々としたカメラのレンズの先が向けられていた。

 その機械的な網膜に対して、念入りに焦点を合わせる。

 もちろん、いくら目を細めてみても、レンズの奥の奥までを透かして見ることなんてできはしない。それでも、真昼の攪拌した光を一身に浴びるカメラを持つ彼女の表情を、なんとしてでも目にしたかった。

 

 きっと、とてもきれいな顔をしているから。

 

 パシャリパシャリと、もう着ることのない高校指定のブレザー服を身に纏った私の全体像が切り取られていく。

 当分撮影をやめる気はないようで、「いいよいいよー!」と、まるでモデル専属のカメラマンのような声掛けをする彼女の指先は、一向にシャッターの上から離れる気配がない。

 正直写真を撮られることも、そのために表情を作るのも苦手だけど、彼女が楽しそうならいいかとできるだけ頑張ってカメラの前に立っていた。

「これで最後! はいちーず!」

 パシャリ。

 やっと満足したのか、彼女、日葵ちゃんはカメラから顔を引き剥がして、こちらに満面の笑みを差し向けてくる。とてとてと私の元へ歩いてきて、カメラの確認画面を翳して「上手く撮れてる?」と訊いてくる表情は、さながら遠くへ放り投げたフリスビーを取って帰ってきた子犬のようで可愛らしい。

 翳された画面に映る高校生最後の日の私は、棒立ちのままほとんど閉じかけているピースを顔近くに構えている、なんとも写真慣れしていない出で立ちをしていた。

 それでも日葵ちゃんの撮影技術が巧みであるからか、普段学校行事のときに写される生気のない立ち姿とは違い、デジタル画面の中の私は普段より凛々しく見えた。思わずさすがだと唸ってしまう。

「うん、よく撮れてる。すごいね日葵ちゃん」

「あははっ、そうでしょ~! この日のために腕を磨いてきた! ってわけじゃないけど、力になれて嬉しい」

 日葵ちゃんがポリポリと頬を掻きながら元気よくそう答える。あどけない顔立ちに朱の色合いがさっと宿って、無意識に頬の方へ視線が引き寄せられる。

 けれど。

 頬に伸ばされている左手の人差し指の付け根には、銀白色の円環がぱちりと嵌っている。

 その色彩は周囲に咲き乱れる桜色よりも艶やかで、だからこそ浮かばれない。

 

 両親の代わりに卒業式に出席してくれた日葵ちゃんは、率先して私の写真を撮ってくれた。私の表情をことこまかに見据え、シャッターを何度も切る姿は実に熱心で、他の父兄に紛れていても難なく見つけ出せるほど。


 結婚式が六月に迫った、こんな忙しい時期に。

 

 口内にたまる唾はまるで他人のものかのように違和感を生じさせて、とっさに喉奥へと送り込む。自分でも惨めな胸中でいるのは自覚していて、けれど心はどこまでも利己的だから、望まない現実については目を瞑りたくなるのも当然のことだった。


 日葵ちゃんは歳の離れた従姉で、一昨年の暮れごろ、付き合っていた彼氏にプロポーズされて正式な婚約が決まったらしい。それからはとんとん拍子で事が進み、今となっては式場の準備もすでに終わり、晴れ舞台は目前というところにまで漕ぎつけていた。

 私としては、船のオールをへし折りたかったのだけど。

 そんな妄想だけで留めなければならない自分に嫌気が差して、一人落ち込む。そんな日々がずっと続いていた。

 両親が仕事の都合で卒業式に出席できなくなり、さてどうするかと親族が首を捻っていたとき、勢いよく名乗りを上げたのが日葵ちゃんだった。

「せっかくのイベントごとなんだから、記録係は必要でしょ」

 そう主張していた日葵ちゃんはカメラオタクで、休日は日がな一日一眼レフをいじっているらしい。

 だからもちろん、日葵ちゃんが私の卒業式に出席することに、さしたる意味はない。

 ただ、仲良くしていた従妹の晴れ舞台をこの手でレンズに収めたいというだけのことで。

 そうだと分かっていても頬を上気させてしまうのだから、私はたいそう燃費がいいのだろう。


「ふぅ、撮った撮った」

「撮りすぎだと思うけど」

 家路に着く途中の公園、敷地内を取り囲む桜が絵になるからとの理由で立ち寄ったそこで何十枚も写真を撮り続けていた私たちは、休憩ということでベンチに二人並んで腰を下ろしていた。

 ほがらかな気温が眼前を通り過ぎ、吸い込んだ空気には華やかな匂いが滲んでいる。

「これで里美ちゃんの結婚式に流すアルバムの数枚は確保できたね」

 一息ついて、今しがた画角に収めていた何十通りの私を確認しながら日葵ちゃんが声を弾ませる。明るい声色とは裏腹に、深く心中をえぐる言葉が私の喉元をひくつかせた。

 私の気も知らないで。

 そう思ってすぐ、知るわけないんだよなと我に返る。独りよがりの精神が去来して、「何言ってんの…………まだ早いよ」と返す言葉はいつになく不安定だった。

「えぇー未来はどうなるか分かんないよ? 大学生になれば、とんとん拍子でいい人が見つかるかもしれないし」

「それ、日葵ちゃんのことじゃん」

「うんそう」

「どさくさに紛れて惚気話しないでよ」

「へへへ、ごめん」

 ついでに、つけている指輪もどこか遠くへ放り投げてほしかった。

 嬉しそうに左手をかざす日葵ちゃんの笑顔は純粋無垢で、だからこそ暴力的だった。私に差し向けられていて、けれど感情は、私の知らない誰かとの未来へ放物線を描いている。

 彼女の艶やかな黒髪が春風に揺れるたび、あぁもうと愚直な視線の動きに嫌気が差す。

 

 まだ、追い駆けている。

 

 高校を卒業して、ほんの少し大人になって、着実に距離を詰めていくつもりだった。どこまでも追い駆けて、縋りつく形になろうと、彼女の視界の端にでも居座ってやろうと思っていた。

 でも、思っていただけじゃ、願いは輪郭を帯びなかった。

 言葉を出すための空気が乏しくなって、すんでのところで大きく息を吸い込む。唐突に涙が目尻に滲んで、咄嗟に見上げた空は群青色だった。

 突き抜けるような天蓋が宇宙まで届いていることを知っていて。

 けれど、もう届くことのない未来があることも事実で。

 舌先から滑るようにため息が零れる。

 真横に座る彼女に対して、何をどうしたらいいのか。感情の決着には、何が必要なのか。

 当てもなく、澄み切った青に視線を溶かしていた。


 パシャリ。


 いつの間にかカメラを構えていた日葵ちゃんが、こちらにカメラを向けシャッターを切っていた。

「なーに物思いに耽ってるの。やっぱり寂しい? 卒業」

「…………うん」

 さびしいと思う対象がまるで違うけど、そういうことにしておいた。

 今の私にできることは、彼女の幸福を唯々諾々と喜ぶことだけだ。

 そこに私の私情はいらない。遅すぎた私に、今の今まで行動のとれなかった私に「違うよ」なんて甚だしい。

 そしてふと、シャッター音に吸い込まれた、自分の横顔のことを考える。

 今、日葵ちゃんが写し取っている私は、『卒業にわびしさを感じている私』であって、終わってしまった恋を処理しかねている私じゃない。

 それはなんだか、感情のつり合いが取れていなくて。本当に勝手だけれど、だったら私も勘違いしたいとか、思ってしまう。

 笑顔の意味を捻じ曲げたいとか、願ってしまう。

 だから。

 日葵ちゃんの両手から、カメラを奪い取る。

「え?」

「はい! ちーず!」

 半ば捨て鉢になった心持で、撮影の合図を口にする。

「…………私を撮っても意味なくない?」

「あるよ」

 あるから、こうしてレンズを向けているのだ。

 ブルーになったと思えば、なぜか自分の顔を撮ろうとしている従妹に戸惑いながらも、日葵ちゃんは素直に左手でピースを作ってくれた。薄茶色の瞳をファインダー越しに捉えて、シャッターボタンに触れる指先がはかなく震える。

 画角に、気に入らないものが映りこんでいた。

 ピースを作った左手を無理やり下ろさせて、私と彼女を隔てる物体をできるだけ少なくする。余分なものを取り除いて、想像の余地を作る。

「こっちの方がいいよ」

 私にとっては、こっちの方が目に優しかった。

 だから笑ってと、祈るように呟く。

「う、うん」

 狼狽を言葉の端に滲ませて、でも、日葵ちゃんの笑みはきれいだった。目尻の端がたおやかに曲がって、口角が柔軟に曲がる。

 私を見据える視線に、特別な感情は微塵も感じられない。

 残酷な現実と、否応なく向き合って。

 私は、シャッターを切った。

 

 

 

 写真を現像し終えたら、私はその一枚を、一人暮らしのワンルームの隅なんかに飾り立てるのだと思う。

 しばらくはずっと、日常生活の切れ端に彼女の笑顔が浮かんでいて。

 私の気持ちに踏ん切りがついたら、いつかきっと、捨ててしまう。

 でも、それまでは。

 誰のものでもない笑顔を、ほんの一瞬、私だけに向けられた笑顔を、できる限り大切にしたいと思っている。


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銀白色は写さない 飯田華 @karen_ida

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