第九集 一閃
二十年前、夫差が会稽に攻め込んで勾践が降伏した時とは、今や全く逆の立場である。当時は両者とも若かったが、今では共に髪には白髪も混ざり、顔には皺が刻まれ始めていた。
だが傍から見れば、特に夫差の方が一回り早く老け込んでいるように見えた。近年の酒色に溺れていた日々に加え、今度の敗戦の絶望により余計にそう見えた。
「早く殺すがいい……」
夫差はそう呟いた。
だが勾践はそうしなかった。内応した呉の大夫・
かつて呉に命を救われた越王が再起した事をお考え下さいと
かつて勾践が越の旧領にそのまま戻されたのとは違い、呉の領土は召し上げた上で、夫差を
二十年前の互いに若かった頃とは違い、今の白髪混じりで、裸一貫からの再起など不可能に近いという判断である。
生かすという条件はしっかり飲んだ。そこから再起できるものならしてみるがよい。できぬなら、みじめに老いて死んでゆけ。
それが勾践の、夫差に対して下した処置だった。
王として死ぬ事も許されず、王である事を剥奪されたままみじめに生きていけと言われた形となった夫差は、もはや言葉もなく真っ青な顔で兵に連行されていった。
その後ろ姿を、二十年以上も夢見ていた勾践は、呵々大笑しながら眺め続けていた。それは勝利の雄叫びの如くであった。
呉王の処刑がされないという噂はすぐに広まった。
これに
揃った陰陽双剣を彼に届けた
ひとしきりの怒りを吐き出した阿赤が、床に涙を落とす姿を見て、奇奇はひとつの決意をした。
「阿赤……、君って文字は書けるかな……?」
そんな奇奇の質問に、阿赤は怪訝な顔で見上げつつも静かに頷いた。
失意の夫差は、甬東へと流されるまで、監獄へ入れられる事となった。
かつて呉が越を降伏させた時も、最初の数年間は勾践を呉の奴隷として扱ったものだ。
そこでの従順な姿に心を打たれ、
あの時も結局、伍子胥が正しかった。
今更そう思っても仕方のない事ではあるが、夫差は伍子胥の顔を思い浮かべずにはいられなかった。
兵士たちに連行されていく夫差の前に、まるで行く手を塞ぐように、抜身の剣をその手に持った短衣の少女が、表情もなく立ちはだかった。
夫差はもちろん、周囲の兵士も何事かと思った。
兵士たちはそれが剣術師範の奇奇であるとすぐに分かった。
一方の夫差は、相手の顔は知らないが、その手に持った剣に見覚えがあった。亀甲模様の白い剣。父の廟に捧げられた剣。それを作った男は……、そうだ自分が……。
その刹那の事だった。
風を切るような音がしたかと思うと、それまでダラリと下げられていたはずの奇奇の剣が、いつの間にか振り抜かれて、その顔の横へと持ち上げられていた。
一瞬の静寂の後、夫差がその首から血を噴き出して倒れ伏した。
返り血にその顔を染めつつ表情のない奇奇は、床に血だまりを広げていく夫差を冷たく見つめながら、その手に持った
周囲の兵士たちは突然の事に慌てふためいた。
これが王命なのか、師範の上司である軍師の独断か、或いは師範自身による独断なのか、正直なところ末端の兵士に判断など付かなかった。
しかし斬られた夫差自身は、薄れゆく意識の中で、目の前の少女に感謝すら覚えていた。これで生き恥を晒さずに済むと。
夫差は
こうして、一時は天下に覇者の名乗りを上げた呉王は、静かに世を去っていった。
剣術師範が呉王を独断で斬ったという話は、瞬く間に国中へと広がった。
「やっぱりお前の指示か?」
「とんでもない、私とて寝耳に水だ。しかし予測できなかったのは私の落ち度だな……」
范蠡は今回の件は全く知らなかった。すなわち奇奇の独断だった。
しかし奇奇は范蠡の直属の部下であり、また范蠡自身も直前まで夫差を処断するべきと主張していたのだ。范蠡が指示したと誰もが思うであろう。
呉王の仇討ちを望んでいた阿赤に、奇奇を引き合わせたのは自分だった以上、呉王が処刑されないとなれば、こうなる事も予想しておくべきであった。
范蠡がそれを耳にした時には、既に奇奇や阿赤の姿はどこにもなく、范蠡の部屋には
「ごめんね はんれー さよなら」
それを見て、范蠡は全てを悟ったのだった。
戦に勝利した以上、早々に引退するつもりだった。勾践の性格を鑑みれば、苦境にある時は共に歩めても、敵がいなくなり平和になってしまえば、恐らくは道を違えてしまうだろうと思っていた。
そうなれば国を出るしかない。それが予想以上に早く来てしまっただけだ。
「行くのか……」
どこか寂しげな文種のその言葉に、范蠡は苦笑して答えた。
「ここまで早いとは思わなかったけどね。君も進退の時を間違えるなよ。野兎が狩りつくされれば、次は猟犬が煮込まれるものだ」
数千年の後世にまで伝わる范蠡の残した言葉である。
こうして親友である文種との別れを済ませた范蠡が向かった先は、
戦いが終われば死んでも構わぬと思っていた范蠡の心を変えた理由がそこにあった。
越に戻った夷光は、着衣の上からはまだ気づかれにくいが、下腹部が膨らみ始めていた。その身に、夫差の子を孕んでいたのである。
夷光は、呉が滅び、夫差が処断される以上は、その子を宿した自分も諸共に処されるものと覚悟を決めていた。
しかし范蠡もまた、それを自分の子だと偽って夷光の身を引き受ける覚悟を決めていたのである。
こうなってしまった以上、国にはいられぬわけだが、当然ながら夷光を放っておく事もできず、共に逃げ出す事を選んだわけだ。
「他の国に流れて名を変えてしまえば、誰の目にも妻子にしか見えないさ」
死すらも覚悟していた夷光にとって、とうに諦めていた想い人から、そう笑顔で言われた事には、涙を流して喜ぼうというものだった。
そして今後何があろうと、范蠡についていこうと思いを新たにしたのである。
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