越絶の華
水城洋臣
第一集 謁見
その娘の歳の頃は、十代の中程と見えた。
着古した麻布の短衣に、それを留める腰紐は荒縄で、泥だらけの裸足、乱雑に伸び放題の髪。ただ外に見えている腕や足は獣のようにしなやかな筋肉が浮き出ており、少女と言われねば少年にも見える。
目立つのは、腰に
ともすれば、山で拾ってきた貧乏な娘に、名工の作った剣を渡しただけにも見えた。
「我は剣術師範を探せと言ったのだぞ? この娘がそうだと言うのか?」
娘は今この国の王の前にいた。
玉座に座ったままの王は娘の姿を訝しみ、それを連れてきた軍師へと不機嫌そうに疑問を呈した。
だがこの軍師は笑みを浮かべたまま頷く。
「この娘ひとりで百人の兵に勝ります。この者と同じ剣技を会得できた兵士が百人でもいたならば、その部隊だけで万の敵に打ち勝てましょう」
軍師がそう発言しても、王も周囲の者たちも信じきれぬ様子。その反応も当然と分かっていた軍師は「では実際にお目にかけて証明してみせましょう」と言うと、予め集めておいた百人の兵士全員に
軍師はというと、娘が負けるなどとは微塵も思っておらず、それどころか「兵を殺すな」とまで言い含めるほどである。
娘の方はと言えば、慌てるでもなく、かといって闘志を燃やすでもなく、表情もなく静かに腰の剣を抜くと、いつでもかかってこいとばかりの余裕を漂わせた。
「手加減はいらぬ。娘を殺すつもりでかかれ。むしろ娘に傷でも付けられたなら、その者には褒美をやろう!」
そこまで言い放った軍師に、王も思わず心配の視線を投げたが、当の軍師は涼しい顔のままである。
間もなく兵士たちの怒号と共に一斉に娘に戟の切先が襲い掛かった。
しかし次の瞬間に、娘の腕が消えた。そう思ったと同時に、凄まじい金属音が鳴り響き、最前列にあった戟の切先だけが同時に宙を舞った。
いつの間にか娘の腕は、その顔の上に掲げられており、その腕の先には光を反射して輝く名剣。
娘の腕が消えたように見えたのは、実際に消えたわけではなく、あまりの素早さに常人には目で捉えられなかったのだ。
兵士たちは一瞬怯むも、事前に兵士を殺すなと娘に言い含めていた軍師の言葉を聞いていた事や、一太刀でも入れば褒美がもらえるという状況に、再び怒号を張り上げて次々と襲い掛かる。
しかし今度は娘の姿自体が消えたかと思うと、軍勢のあちこちで兵士たちが呻き声を上げて倒れていく。
見ている者たちが何が起こっているのか理解する間もなく、いつしか百人の兵士は皆、その場に倒れ伏しているか、武器を破壊されて戦意を喪失しているかといった状態になってしまっていた。
そうして立っているのは、剣をその手に持ったまま、表情もなく静かに立ち尽くす娘のみ。
その体には一切の傷は付いておらず、周囲の兵士を眺めても、一滴の血も流れていない。
これほどの乱戦にあって、自分が傷を負わない事は当然ながら難しいが、敵を殺す事なく無力化するのは、ただ殺すよりも遥かに技術が必要な事である。
誰もが静まり返った中で、変わらずに笑顔を浮かべている軍師が言い放った。
「その一剣、百兵を以てなお敵すること能わず!」
こうして誰も異議を唱える事なく、娘はこの国の剣術師範として迎えられたのである。
後世に春秋時代と呼ばれた時代の終わりごろ。天下の中心は
長江中流域の北岸側にある
この
越王・
そんな中で呉が長江を超えて北へと領土を広げようとした事を好機と見た越は、その背後を突く形で遂に決起し、呉に一撃を加える事に成功したのである。
しかし呉を滅ぼすまでには至らず、体勢を立て直す呉と、最終決戦で完全勝利を目指す越が睨み合いとなったわけである。
そうしていずれ来る決戦に備えた越王・勾践だったが、兵士の練度に大きな開きがある事を嘆いた。
敵である呉国は先代の呉王・
孫武は呉を離れたと聞いていたが、それでも彼の鍛えた軍の精強さは未だ天下に轟いている。
先の決起で呉王不在の隙をついた越軍を、留守居の部隊だけで押し返してしまったのも記憶に新しいのだ。
そこで勾践は、呉の属国に落ちてからも支え続けてくれていた軍師・
そうして范蠡が連れて来たのが、先述した娘であったというわけだ。
その娘の名は
越の南方にある
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