二百二十八話 故人の凋落

典黙はすぐには荀彧を訪ねなかった、今すぐ行っても彼は未だ現実を受け容れられないので行っても無駄になる


案の定郭嘉、陳群、鍾繇などは訪ねたが荀彧に会えなかった


七日後、荀府の門が開かれたと聞いた典黙がやっと酒を二壺抱えて会いに行った


荀彧はいつもと全く違う姿をしていた、髪と髭はを手入れせずに乱れた彼は数日会ってないのに十歳は老けたように見えた


「文若、そこまでなのか…?」

典黙は酒を降ろした


荀彧は何も言わずに酒壺の蓋を剥がしゴクゴクと飲み始めた


何も話さないなら仕方がない、典黙も荀彧に合わせて酒を飲み始めた


酒が半分くらい減って、少し酔い始めたか荀彧は過去を振り返った

「丞相に出逢ったのは遠い昔のように感じる。あの時の彼は未だ七星刀を手に董卓の暗殺に向かう熱血の志士、反董卓連盟を提唱した当時の豪傑、大漢のために土地を収復する忠臣だった!今は……」


荀彧は再び酒を飲み、濁った瞳は虚ろになっていた

「今の丞相は第二の董卓、既に私と天下を救うために戦う義士ではなくなった」


典黙は荀彧の話を聞くだけで何も言わない、彼のような人は思想に囚われそこから抜け出すのは簡単ではない


ブツブツ語ってから荀彧は典黙に目線を合わせた

「君も私を矛盾に思うか?天子を人質にした事を賛成しながら王への上進に反対した、そんな私を矛盾に思うか?」


典黙は首を横に振った

「いいえ、非常時には非常時の手段も必要でしょう。天子を人質にしたのはあくまでもその大義名分が必要だった、しかし丞相が王となれば話は別になった」


理解されてホッとした荀彧はしばらく典黙をボーと見た

「さすが子寂だ。君ならわかると思う、丞相の目的は王になることにはない。少しずつ枷を解いていずれは天子に成り代わろうとしている」


典黙が軽く頷いたのを見て荀彧は話を続けた

「この天下で丞相を説得できるのはもはや君しか居ない。しかし君はこの事で何も言わなかった、何故だ?」


「僕は君と違う」

典黙は笑った顔を変えずに答えた

「天子の姓が劉であろうと曹であろうとどっちでも良い。僕は天下の百姓さえ平和に暮らせれば良い。文若、天下の百姓も天子が誰だろうと興味は無いと思うよ?」


「君臣の理を蔑ろにしては礼崩楽壊!綱常倫理が崩れては民にも真の平和は訪れない!それでは世が増々乱れる!!!」

荀彧は激しく唾を飛ばしながら語った


「そんなに興奮しないでよ…」

典黙は袖で顔に付いた唾を拭きながら言った

「それなら武王が紂王を討伐したのも、秦が天下一統したのも悪い事?劉邦も秦王嬴政からこの天下を横取りしたでしょう?どの朝代もずっと権力を保持するのは無理な話さぁ」


荀彧が典黙をしばらく見てからゆっくり立ち上がって出口に立った

西日に照らされた荀彧は何も言わずに何かを考えている


もちろん荀彧は典黙の話を考えたのではなく、ただこれ以上の議論に意味が無いと思った


仕方の無い事だ、幼い頃から受けた教育は彼の思想を禁錮した。

荀彧はそこから抜け出せない、典黙もその思想に入り込めない


「この許昌には私の居場所が無くなる…」

しばらくの沈黙が過ぎ、背中を典黙に向けたままの荀彧が呟いた


「文若、どうする気だ?」

典黙も立ち上がって荀彧と肩を並べた


「この朝庭はもう私の望む姿ではなくなった、漢室が少しずつ丞相の陰謀で滅んでいく姿を見たくない。穎陰に隠居するつもりだ」


「それも良いかもしれないね」

典黙は頷いた

「穎陰ならここからそう遠くない、寂しくなったら会いに行けるね」


典黙の話で荀彧は少し笑顔を浮かべた、彼はここ数日で初めて笑えた


「正直それが一番良い選択だと思うよ、ずっと許昌に居ればいつかこの事で魏王とぶつかるでしょう。その結果を僕も見たくない」

典黙は荀彧の選択を尊重した、命がある内に許昌を離れ隠居していれば自分も目的を達成した後旅をする時に会いに行ける。

山野林間で再会して一緒に酒を交わせるならそれも又一興


隠退の手続きは簡単な物だった、辞表を出した後話を典黙から聞いた曹操は仕方なく劉協に印を押させた


古来より秋は別れの季節であるかのように物寂しい


荀彧の出発には多くの者が見送りに行った、穎川の士族たちは勢揃い、荀彧に敬意を持つ大臣たちも皆来ていて、許昌城の南門はとても賑やかだった


会いたくないと思いながら会いたい、複雑な気持ちを抱えたまま荀彧は結局曹操と会わずに馬車に乗り出発した


数里進むと一台の馬車が荀彧の馬車の前に立ちはだかり、曹操がその馬車から降りた


再び曹操に会った荀彧は平然とした顔で居たが内心はとても喜んだ

「丞相…」


「文若…」

曹操は荀彧から二尺離れた所で立ち止まり、そのまま彼を見詰めた


しばらくして曹操は深く息を吸い口を開いた

「文若、余は人にお願いをしないのを知ってるだろ?今日、余は君に頼みたい…行かないでくれないか?」


荀彧はとても感動した、彼も深く息を吐いて話した

「丞相、子寂に私の説得をさせたでしょう…あの日子寂とはたくさん話しました。彼も私が許昌を去るのを賛成した、このままではいずれ私が丞相とぶつかるのを見たくないと言われました。私も同意見です、お互いその日を見たくないでしょう?」


曹操は頷いて何も言わ無かった


秋風が吹き、少し肌寒い感覚に包まれ、曹操は自分の氅衣を脱ぎ、荀彧に掛けた

「君が此処で去り、再び会えるのはいつになる?」


「丞相にその暇があればいつでも穎陰にいらしてください。再び酒を酌み交わす事を楽しみにしています」

荀彧は拱手して深くお辞儀をした


再び顔を上げた荀彧は典黙が現れたのを見て笑顔を浮かべた

「子寂、約束を守ってね。良い酒を用意して待ってるから」


「君子の一諾、生死不負」


荀彧は頷いて再び馬車に乗り込んだ


荀彧を載せた馬車は遠く去り、曹操は心が少し空っぽになったのを感じた


楓の落ち葉が風に運ばれ曹操の手のひらに止まり、曹操はその葉っぱを眺めながら昔の事を思い出した


南征北戦を経て幾年が経ち、自分から離れた者は多く居たがここまで落ち込む事は無かった

荀彧との別れを重く受け止めた曹操は感慨深く呟いた

「故人陸続凋零、好似風中落葉…」


故人が立て続けに風の中の落ち葉のように消えて行く。

これは確か魏王が関羽の墓の前で話した言葉だったな、やはり文若が去ったのはそこまで悲しい事でしょうね…

典黙は慰める言葉も見つからず曹操を見守る


「えっ!魏王、なんで泣いてるんですか?」

空気の読めない典韋は近寄りながら話した


「間抜け…風が強過ぎて目にゴミが入った…」

曹操は目を拭い、再び荀彧の去った方角を一目見てから馬車に乗り込んだ

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