百七十六話 袁紹、吐血!

袁紹軍本陣、中央軍帳に座る袁紹は金色の兜と鎧で包まれていた。

彼は腰に差す剣を片手で握り締め、戦報を待っていた。


曹操軍が本陣に来なかった、つまり旗封山を救援しに向かった。

そう予想する袁紹の顔色は平然としていた。


本陣には宴会の準備も整っている、今日は祝杯をもって全軍の将兵たちを労おう!


そう考えると先まで平然だった袁紹は口角が少しずつ上がっていった。


袁譚三兄弟も沮授、逢紀、郭図等も静かに立ち並び、勝利の報せを待ち侘びている


「大変だ!主公!大変です!」

全身血だらけで明らかに奮戦した兵士が転びながら軍帳へ駆け込んだ。

「主公!曹操軍が旗封山で待ち伏せを仕掛け、高覧、史煥、高幹の三名が討ち死にました!私たちが必死に抵抗しましたが、包囲網を突破できたのは僅か二千名です!」


沸騰した油に冷水をぶっかけたかのように、軍帳内は爆発した。


目を瞑って勝利を祝う妄想をしていた袁紹は目を見開いた。

「なん…だと?もう一度申せ…」

自分の耳を疑ったか、袁紹は静かに聞いた


そして、地面に跪いた兵が口を開くよりも前にもう一人全身血だらけの兵が同じように軍帳に駆け込み

「大変!主公!大変です!昨夜予定通り敵本陣に奇襲を仕掛けたら待ち伏せに遭い、馬延将軍は三十七本の矢を受け討ち死に、張鎧将軍は矢を二本と刀傷を受け昏睡状態に陥りました。我が歩兵部隊生き残ったのはたったの五千名!」


袁紹は顎に拳を受けたような気分になり、頭がクラクラした

「バカな…有り得ないだろ…?」


遂に怒りが爆発したか袁紹は声を荒らげた

「曹操軍はせいぜい十万人、前回の戦いでも消耗したはずだ!そんな兵力何処から湧いて出た!」


この時麹義がゆっくり入って来て拱手した

「主公、計画通りに長信林で待ち伏せしましたが曹操軍の姿が見えず、明け方に戻って来ました」


「はいはい、なるほどね、救援に行ってないのか……」

曹操軍は袁紹が奇襲をする所に兵を配置した。

つまり自分の考え方を寸分違わず全て読まれた、少しでもズレていたら勝機はあった。


麹義の話で袁紹は更にクラクラした

袁紹は単純に策略で負けた悔しさだけでは無く、屈辱を受けた思いだった。


軍帳内は針が落ちる音が聞こえるほど静かになった

皆は色んな可能性を考えた、圧倒的な勝利かギリギリの勝利か。

しかしこのような大敗は誰も予想できなかった

大敗と言うよりも惨敗、圧倒的な敗北


沮授は背中が凍る思いだった、旗封山を敢えて見せてこの作戦を実行した相手に対して恐怖を覚えた。


「大変だ!大変です!主公!」

遠くから近づく悲鳴に皆身を構えた、まさか士気が下がっている今に総攻撃でも仕掛けてきたのか?


三人目の全身血だらけの兵士も二人同様軍帳へ駆け込んだ

「主公!昨夜曹操軍が上帰に攻め入り、淳于瓊将軍が討ち死に、百三十万石の兵糧が全て焼かれて灰燼と化した!」


この報告により、先まで静かだった軍帳は再び混乱になった。


大敗を喫しても兵力が減っても軍心さえ回復すれば未だ戦うことはできた。

しかし百万の兵糧を焼かれれば軍心は必ず揺れる。


軍の高層部である文官武将たちが慌てる程の事なら普通の兵士に知られれば脱走兵が増える、それどころか叛乱すら起こり得る!


袁紹はフラフラと立ち上がり、口をパクパクさせて何かを言おうとしたが言葉は出て来ない

彼は信じられなかった、信じたくも無かった。

自分の命脈である兵糧が一夜にして灰となった


胸に何かがつっかえているのを感じた、呼吸する事すら忘れた、喉から何か生臭い匂いがした


袁紹は呑み込もうとしたが、ほんの数分前まで上がっていた口角から鮮血が流れ出た


「父上!」

「主公!」

皆急いで駆け付け、沮授が袁紹の鎧を脱がし胸元を摩った。


「父上、総攻撃をしましょう!」

「そうです!主公!全力で潰しましょう!」

「ご命令ください!」


袁紹が吐血したのを見た武将たちは皆怒り心頭、このような屈辱を受けるくらいなら戦場で死んだ方がマシだと思った。


「憎い…憎い!!」

叫ぶ袁紹の口は血で真っ赤に染まっていた


「主公、上帰の兵糧が燃やされても本陣の兵糧が未だ無事です!二十万の大軍ならもって七日、撤退しましょう!冀州へ戻れば再起できます!」

雛鳥のように怯える郭図に比べれば沮授は常に状況判断ができる忠臣だった


この時の袁紹は両目が虚ろになり外を見ていた

彼は戦うかどうかを考えているのでは無く、どうして今に至ったのかを理解しようとした


「報告!」

もう一人の兵士が軍帳に入ると全員が怯えた目でその兵士を見た。

「主公、曹操軍の遣いの者から手紙を受け取りました」


悪い報せでは無いようで全員がホッとした


袁紹は手紙を読む気も無く、今の彼は曹操の名を聞くだけで苛立ちが止まらない


「父上…」

袁尚が手紙を袁紹に手渡すが袁紹は袖で口角の血を拭いてしばらく受け取ろうとしなかった。


最終的に袁尚が仕方なく竹簡を開いて読み上げた

「本初兄、ご無沙汰しております、酸棗の別れから早八年が経ちました。愚弟は時々、本初兄の若かれし頃の雄姿を思い返します。あの頃の愉快な日々を思い返し、今戦場で再び会う事がが仕方なく思えます。もし、数々の無礼をお許し戴ければご一緒に茶を酌み交わしましょう。後日、本初兄の功績を讃えるために天子陛下も許昌からおいで下さいます。その時に昔話を共に語り合いましょう。手紙の短さ故気持ちを伝えきれません。後日お待ち致します」


「曹賊め、また何を企んでおる!」

袁紹は手紙に書いてある賢兄愚弟を気分悪く思った


袁譚三兄弟も文官武将たち同様互いに顔を見合わせ、曹操の企みが読めなかった

この期に及んで決戦では無く昔話?どんな顔で昔話をするつもりだ?

しかし誰もその真意を断言できないので皆黙り込んだ


少し経ってから、袁紹は何かを理解したかのように虚ろだった目に再び光を宿した


「フフフフッ、アッハッハッハッハッ…!!」


袁紹は唐突に笑って、先までの怒りが嘘のように消えた。


「父上?大丈夫…どうして急に笑ったんですか?」

袁尚が恐る恐る聞いた


皆も真摯な目で袁紹を見て、その答えを待った

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