百十四話 伏皇后の哀愁

漢王朝の天子である劉協は外部の情報を得るのに頼れるのは王子服、董承、伏完などの天子派閥しかいない。


しかしこれらの天子派閥は皆曹操に警戒され、それぞれに見張り役を付けられている。

見張られた天子派閥の人員はどこへ行ったのか、誰と会っていたのかは全て曹操へ筒抜けになる。


しかし、それでも困難に対しては対策も出来る


例えば召陵では石碑が空から降ってきた事も董承の諜報員に知られ、天子派閥に報告された


もちろんその情報は紆余曲折を経て時間がかかった。

石碑事件が十四日すぎてから、冀州に居る袁紹よりも遅くこの出来事を知った天子派閥は秘密集会を開いた。


龍袍に身を包む劉協はこめかみを揉みほぐし

「袁術め身の程知らずにも程がある、天子の位を盗もうと天罰を受けるのも頷ける」


漢王朝の正統な担い手の彼は本来はこの事を喜ぶべきだった。

この事件があれば他の諸侯が勝手に皇帝と名乗る事が無くなるから。


漢王朝ではあらゆる宗教よりも儒教を推していたが、劉協は道教の勉強もしていた。


道教の教えでは物事には必ずいい面と悪い面がある、劉協もその教えをいつも心得ていた。


袁術が亡くなることで確かにこれからは帝を名乗る諸侯は出て来なくなるだろうが、その代わりに曹操の力は増すばかり。

これ以上力をつけた曹操から逆転を狙うのは更に難しくなる。


「陛下、この事件はただの天罰では片付ける事はできません」

董承は髭を弄りながらまるで賢者のように意味深に言った


劉協「どういう事だ?」

董承「諜報員はこの情報を仕入れた後にすぐには戻らず、臨穎でもう一つ情報を手に入れました」


劉協「もう一つの情報?」

董承「はい!情報と言うよりも秘密です、どうやら魚腹蔵書も狐鳴篝火も典黙が仕組んだ罠、彼が天啓を偽造して袁術を一歩ずつ深淵に落とし入れました!」


この報告を聞けば全員が愕然とした、軍師がここまでするか普通?袁術は最初から典黙の掌で転がされていたと言うのか…


「どっ、どうしたらいいの……」

白い貴妃服を着ている董貴妃は不安を顕にしていた


劉協は急いで董貴妃の手を優しく握り、安心させた

「他に情報はあるか?」


「良い報せがございます」

良い報せ?皆揃って伏完に視線を向けた


伏完「劉皇叔が荊州に辿り着いた、それに劉表が彼を南陽へ向かわせ、三万の軍を率いさせているとの事です」


この一言はまるで熱い油に冷水をかけたかのように会場を爆発させた!

しかし秘密集会なので皆はすぐ自分の口を手で抑えた。


皇帝一派なのに集会を密かに行わなければならないと劉協は自虐ふうに一笑した。

皇帝一派のその姿はとても同情を誘う物だった


しかし劉協の目に再び希望の火が宿った、何回消火されようとも彼は希望を持つことに対しては絶望を持たなかった!


確かに良い報せだ、南陽なら許昌まで三百里!騎兵なら二日もあれば余裕で着く!

そして今の袁術は劣勢だが曹操もすぐには戻れない!


「それならなんで皇叔は行動をしないのだ?」

董貴妃が不思議そうに聞いた


「そう簡単には動けないんだ、袁術が帝を名乗り曹操は勅令を受けてそれを討伐に向かった。この時に皇叔が曹操の背後を討ては逆賊の汚名を着せられる」


董承の分析に皆は大きく頷いて理解した


そして董承は予めに用意したかのように劉協に提案をした

「陛下、皇叔へ一通手紙を出すのは如何ですか?彼に大義を諭し、心を軽くすれば必ず許昌へ助けに来てくれると思います」


劉協も頷いた、以前劉備の皇叔である事を認めた事です彼に恩がある、自分の許しさえあれば劉備も心置きなく動けるはず!


劉協は筆と絹一枚を取り出して、少しためらってから指を咬み破り血を墨代わりに血書を書いた。


出来上がった救援の手紙を董承は自分の帯を割き董貴妃に渡した

「私たちは皇宮を出入りする際は必ず検査される、身を守るためにこの内側に縫いつけた方が安全かと思います」


董貴妃が代わりに縫い付けをしている間に

皆は将来の事に思いを馳せた


「都は何処に決めますか?」

「洛陽に戻るか、それかいっその事荊州に決めても…」

「荊州に行けば劉表も由緒正しい皇室、問題は荊州に龍脈があるかどうか」

「それなら後で占い師も探さなくては…」


伏完「陛下は何かを心配されてますか?」

皆の意味の無い議論をよそに劉協は何かを思い詰めていた。


劉協「典黙……あの人が心配だ……」


「典黙?彼は臨穎に居るはず、それに袁術と膠着状態にあるため何も心配要りません!ハッハッハ…」

王子服がそう話すと皆もつられて笑った


劉協は王子服を一目見てから

「空城計を忘れたのか?たった二千の兵で紀霊の三万大軍を死地に追いやったヤツだぞ!」


「確かに警戒しなくてはなりません……」

劉協の話で董承は典黙の脅威を思い出して深く頷いた。

「あの人の兵法は普通じゃありません、その多くは人の心理を利用する物。空城計しかり魚腹蔵書しかり、血を流さずに相手を死地に追いやる」


「曹賊に誑かされて、その手先になったのが実に惜しい事です…」

王子服もため息混じりに感想を述べた


劉協は隣に居る伏皇后に視線を当て

「皇后、この前彼の所へ訪ねてから何か知れたか?」


「陛下、私が彼を知るよりも前に彼が私を知ろうとしていた…」

伏皇后は哀愁漂って言った


「ん?どういう事だ?」

劉協は理解出来ずにいた


「あっ、いえ、なんでもありません」

失態だと思った伏皇后は再び元気を取り戻そうと胸を張ると場にいる全員の視線を集めた

一同「おおぉ…」


伏皇后「陛下、彼はやはり一筋縄ではいきませんでした、功名も権力も金銭も彼を動かせませんでした」


「まさか本当に欲しいものがないのか…いやっ!本当に無欲な人など居るだろうか!なんでもいい!欲しいものを全てくれてやろう!それを知るまでだ!」


「いえ、欲しいものなら聞きました、女が欲しいと言っていました…」

伏皇后は周りを見てから顔を赤く染めて恥ずかしそうに言った。


何だこの麒麟才子、とんでもなくスケベか?功名も地位も金銭よりも女とは…


劉協はプッと失笑して

「英雄も美女には弱いのか、なら簡単だ!女であればいくらでも贈ろう!」


「陛下……」

伏皇后は何かを言いたそうにしていたが恥ずかしくてその先を言えなかった


「彼は……一人だけを欲しがっていました、たった一人の…女を…」

伏皇后は何とか話を進めたが劉協を含め全員が余計混乱した


「たった一人の女…?麒麟才子が見初めた女だ、きっと普通ではないだろ……!」


「一体何処の誰だ……?」


「優れた美貌なのか?何か特技を持っているのか?それすら分からないなら難しいな……」


討論を続ける皆は伏皇后の顔が首まで赤くなっていたことにも気づかずにいた。


「ともあれ、先に皇叔へ手紙を出そう!典黙の方は皆さんで考えてくれ!朕のために働いて貰えるなら誰であろうと必ず彼に贈ろう!」


「はい!」

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