第47話 慎重派とタライ派

 朝焼あさやけ前のまだ暗い時間に、コッタの寝室しんしつとなっている隣の部屋のとびらが開いた。


 一流いちりゅうの冒険者であった私は、特定の物音ものおとや気配を察知して睡眠状態を解除できる。潜在意識下にまで刷り込んだ能力だ。右の米噛こめかみから左のほうへと流れる――細くて直線的な架空の光が私にコッタの予兆を知らせてくれていた。シュピーンと来るこの感覚はコッタにぴったりなのでは?


 暗闇の中で私のような大男おおおとこがいきなり飛び起きるとコッタは吃驚びっくりするだろうから、私は寝転んだまま待ってみた。


「ルーク?」


 おそるおそる……、コッタから小さな声だけがとどいた。恥ずかしがる必要はない。おしっこならついていこう。幼女がトイレに到達するまでの暗闇を怖がるのはよくある話だ。もちろん私が付いて行くのはその手前までだ。手前までなら行こう。行けるはずだ。

 

「んん~」


 寝起きの声を装った私は、ソファをきしませて体を起こそうとしたのだが、そんな所で扉が閉じる音がした。


 コッタは寝室へ帰ってしまったようだ。こちらに来る気配がない。


 おしっこではなく〝私の所在〟が心配になったのだろうか……。


 私はコッタを捨てたりしない。森で交わした誓いの握手あくしゅを裏切ったりしない。あの瞬間は私にとっては鮮烈なものだった。だがコッタにとっては些細な出来事で、心配なものは心配なのかもしれない。だとしたら『不安になる必要はないのだよ』と伝えておきたいのだが、扉はすでに閉まっていて……。


 コッタが声を出していた方向には、ソファーがしつらえてある。私が眠っていたソファーのついとなるものだ。そのソファの背丈せたけのように小さな彼女の姿は、横になっている私からだと死角しかくかくれていた。


 私は起こしかけていた体を元に戻した。近くのロー・テーブルの上においていたサイドパックへと手を伸ばす。片手でふたをそっとはじいて懐中時計クロノグラフを取り出した。時刻は3時の終わりごろだ。


 コッタに限らず幼女の中には早起きの者ものいる。けれども流石さすがに早すぎるという判定で良いだろう。今から遊びに行っても――今から見聞けんぶんを広めに行ってもまちはまだねむっている。常識的な活動時間は守ったほうがいいだろう。


 私はもう一度いちどねむろうと思い、せまいソファーで寝返ねがえりを打って体勢を整えた。


 瞳を閉じたあと、どれくらい経過したのだろうか? 


 寝室の扉が再び開いた。カチャリと聞こえる。


「んん……」


 私が存在感を示す声を上げた途端に扉は閉じた。バタンと。静かな部屋に良く響く。


 コッタはちょっと騒々しいところあるから、もしかしたら待機状態の維持にしびれを切らしているのだろうか。だが、私が眠っているようだから遠慮している。だとしたら私は起きたほうがよいのだろうか。それともやはり夜の間に置き去りにされることを心配しているのだろうか。


 一人ひとりで眠らせたのは間違いだったかもしれない。


 私は一度いちどソファに座った。ローテーブルに視線を落とす。時計の時刻は4時半を示していた。相変わらず早い。


 コッタにとっては慣れない生活かもしれないが、私が彼女と一緒に眠るわけにはいかないので、明日からはメイドにを頼んでみよう。


 私は幼少期から一人で眠っていた。ゆえにコッタにも当然のようにそうさせてしまった。なんなら私が隣の部屋にいるということも、彼女を安心させる材料としていくらか貢献こうけんしているだろうと思っていたが、それは思い上がりだったのだろう。幼子の中には夜を恐れて母や父のベッドにもぐむ者も多いし、コッタにはもっと手厚いケアが必要だったのかもしれない。


 私はまた横になった。


 コッタによる扉の開閉運動は、5時くらいの時刻にも発生し、5時半にも聞こえた。私はそのたびにゆっくりと体を起こしたのだが、彼女は私が気配を出すとすぐに扉の向こうに隠れた。


 6時のときには、流石の私もソファーから完全に身を起こした。


 何かがおかしい。

 

 私はコッタの寝室の扉の前にまで移動して、ノックをしてみた。


「コッタ、何かあったのか?」

「……」

「コッタ、入ってもいいだろうか?」

「ダメ」


 声のぬしであるコッタは扉のすぐ向こうにいるような気がする。コッタにしては大きめの声だったと思う。


 本来は心に致命傷ちめいしょういかねない拒否の言葉であるのだが、このときの私はコッタが〝なに〟をしでかしたか気が付ついた。ゆえに私はだまってどうするべきかを考えた。


 拾われてからまる一日いちにちたったあとのごとだ。充分じゅうぶんな食事と睡眠とで、気がゆるんでしまったのだろう。〝ソイツ〟はそんな時にやって来たりする。


 なにも恥ずかしいことじゃない。


 数々の死線しせんくぐけてきた私は、大人でもソイツをやらかしてしまう光景を何度か目にしてきた。いや、ちょっとジャンルが違うのか……。


 だがここで『コッタ。オネショなんか気にする必要はないんだよ』と、ぶしつけに言って良いものなのだろうか? 


 確かな証拠がない。けれども私はそうじてなんとなくそんな気がしていた。


 私は鼻から吸引する空気に感覚をとがらせてみた。けれどもかべしであるせいか、香りをはっきりと感じることはできなかった。


 無能な嗅覚きゅうかくを働かせることをあきらめた私は、さきほど聞いたコッタの声について振り返って考えてみた。コッタの声の様子は最初からおかしかった。幼いゆえに、ちょっとダミった声であるのだが、その声は余計よけいふるえていた。


 アレは夜の闇を怖がっていたのではなく、孤独を恐れていたわけでもなく、悪さをしてしまった、という感じだったのだろうか? 悪くなどチっとも無いのだが、それはさておき、多分、コッタはずっとオネショの形跡けいせきを隠そうとしていたのではないだろうか。


 普通の大人ならばコッタの気配に寝息を立てたままだ。横を素通りしてお風呂に向かうことができる。なんなら〝このテーブル〟にあるお着替えだって入手することができたかもしれない。


 だが一流いちりゅうの冒険者としての察知さっち能力のうりょくそなえている私が立ちはだかっていた。たとえコッタのごえがどんなに小さくても私は目覚める。コッタがどれだけ静かに寝室の扉を開いたとしても、私はそれに気が付くことができる。


 コッタにとって厄介やっかいな存在が私であったのだろう。有能な番犬さながらに……。


 丸いオネショのあとがついたままの寝間着パジャマ姿すがたなど、幼女でなくても見られたくないものだ。だからまずは着替きがえよう、そう思っても服が入っているかばんは私の近くだし、体を洗おうにも…………。


 クッッ……。メイドを呼ぶべきか。このいちじるしい情動じょうどうはどうさばけばいい……。


 偽善という名のしたり顔でコッタのパンツを洗おうとしている私がいる。二人でタライを囲って洗うのだ。水をためてパジャマとパンツを浮かべてジャブジャブと。お洗濯のレッスンの始まりだ。包括的ほうかつてきに期待できる水飛沫みずしぶきも跳ねるはずだ。


 クソッ。きっと楽しいに違いない。私はいったいどうすれば……。


 私は窓の向こうの天空てんくうサイドに尋ねてみたが、答えは返ってこなかった。快晴まで予感させる早朝の青い光だけが、カーテンを透過して室内に届いていた。


 不意になにかが染み込んで来た。それは昨日の夜に得た安眠あんみんの効果かもしれない。私は自分が狂っていることに自覚的じかくてきになった。朝に洗濯をするのは庶民の常識で、そういった常識を求めて私はここまでやってきたのだ。こんなところでつまづくわけにはいかない。


 私が洗濯に着手すれば、私は狂ってしまう。ゆえにこの問題はメイドの助けが必須である。


 もう一度繰り返そう。


 この問題はメイドの助けが必須である。だがすぐに答えに飛びついてはならない。軽はずみな優しさはコッタを傷つける。


 冷静になった私のもとには、あらゆる風景を見通す思考の機能も戻ってきていた。


 コッタが遠ざけておきたい者は、なにも私に限った話ではないのかもしれない。今のコッタはすべての他人を遠ざけたいのではないだろうか? 女のメイドと言えど、オネショの形跡けいせきを他人に目撃されるのは気持ちのいいものではないだろう。


 すべての目撃を避けることはできない。だが今の段階からでも寝間着パジャマくらいは着替えられるはずだ。コッタがいくら足掻あがいたところで、ベッドの痕跡こんせきまでは完璧に消去することはできないだろう。だがなにもかもを見られるよりもマシな状況――そうなるまでの時間を私はかせぐことができるのではないだろうか?


 本当は全て助けてやりたいところだが――。


 コッタは風呂の使い方は覚えているのだから、まず私は大人しく退室するべきだ。そうしてコッタのお着替えがスタートする。残ったシーツや汚れたパジャマとかは、朝食の準備のために到来するメイドに、私といっしょに『ごめんなさい』してキレイにしてもらう。


 なにも頭から全部見てもらう必要はないはずだ。『こんなことがありまして……』という流れの中に身を置いたほうが、コッタが感じる羞恥心は減るだろう。


 うむ。完璧なのでは? 築きあげたタクティクスにえたものを感じる。


 私は最後にその精度を確かめておくことにした。


「コッタ、聞こえるだろうか!?」


 聞こえるくらいの大きさで私は扉に声をぶつけた。


「うん!」


 こういうところでしっかりした良い返事をするあたり、コッタはなかなか豪胆ごうたんなのかもしれない。


 いいじゃないか。頼もしい。


 愚かな行動を避けたことで、私は心地のよい彼女の声を聞くことができていた。


「私はラウンジでコーヒーを飲んでこようと思う! コッタも来ないか!?」

「……」


 行きたい気持ちはあるのだろう。だがそうそうと出てくるわけにもいかない。返事が沈黙になった理由は、そんなところだろうか? すぐに二者択一の結果に進まない。分かれ道の手前で悩んでいるなら見守りたくなるし、簡単に投げ出さない姿勢としても評価できる。自身の希望をすぐにくだいてしまうよりもずっと健気けなげだ。いとおしい。ゆえに私は両方選べることを伝えなければならない。


「では、またしばらくしたら戻ってくる! あとで一緒に行こう! それで良いだろうか?」

了承リョーショー!」


 コッタの返事が高めのトーンで私に届いた。彼女の状況が改善に向かったかのようだ。やはり今の私は厄介やっかいなのだろう。穏やかにほころぶ笑みに行きついた私は、寝室の扉から離れて部屋の外に向かった。

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