第10話 もしそれが希望ならば

 昼がすぎたころに、幼女の近くの空気が動いた。一流の冒険者だけが感じることができる小さな気配だ。


 それはむかえにきた第三者のぬくもりから作られたものではなく、幼女の体がくずれることで生まれる孤独な初動だった。座り込んでいた幼女の姿勢しせいが、ほとんどそのまま横倒しになりつつある。


 人類最速の敏捷びんしょう性能せいのうほこる私の前で、卒倒そっとう負傷ふしょうする幼女は存在しえない。

 

 私は地面じめんけるようにして立ち上がり、くずれゆくコッタの体の下にうでをすべりこませた。そして近くにあった水筒すいとうわしづかみにして、うつろに開いた幼女の口に先端をあててそっとかたむけた。


 優しく流し込むことには注意した。


 そのはずなのに、与えた水は幼女の頬からことごとくこぼれ落ちていった。どこをどう見ても水は幼女ののどを通過しているようには思えず、あふてた水は地面に染みこんで行った。


 私は給水きゅうすいの手を止めて、幼女にもっと楽な姿勢をとらせようと抱きなおした。そのとき幼女の口の中に残っていた微かな水も地面のほうに消えて行いった。


「……めつ

「なんだ?」

消滅しょうめつ……希望きぼう

「ダメだ! 死ぬな! 死なないでくれ!」


 私は水筒に残された水を、自分の口の内側に取り込んだ。幼女のしんを見つめ、無理矢理むりやりにでも幼女に水を飲まそうと息を吸い込こむ。口移くちうつしだ。


 けれども私は、あまりに小さなその口元くちもとのはるか直前で止まった。


 幼女の青い瞳は、あますことなく私を見ていた。これから行われるであろう――もはや心の中では実際に行われていた――私の所業を見ていた……。


 氷の棘アイシクル・ランス。幼女の視線は拒否反応を示していた。


 私にはそのように感じられた。疑心暗鬼なのだろうか。そうとは思えない。


 気が付くと、幼女が装備していたくまさんのポシェットと目があった。幼女の肩口かたぐちからのぞいてたかわひもの一部としてぶら下がった存在だ。


 少なくともその熊は私に痛烈な批判を向けていた。非常事態という状況にかこつけて、幼女とのキスを試みようとしていた真性のロリコンがここにる。守り神かなにかのような存在によって、私は自分ののどにだけ水を通すことになった。


 そして水筒はからになった。なさけなくてなみだが流れた。


「新しい水を……とってくる……」

「泣いてる」

「……」

「どうして?」

「クズなのだよ。私は」


 私の涙が落下をはじめていた。空間の中を下に下にと位置を変えている。コッタのひたいにぶつかる軌道に乗っている。それが非常にゆっくりとした自然落下として見えるくらいには、私の体感時間は最強である。世界から受ける速度の印象を歪められる。


 私はすばやく平手ひらてを打ってその小汚こぎたなしずくはじいた。私の薄汚い体液たいえきで幼女をけがすわけにはいかない。


「水を……とってくるよ」

 

 私は外套マントいでまるめこみ、幼女のまくらとしてあてがった。そして幼女の周囲にもう一度いちど結界けっかいを張り、再び水を求めて駆け出した。目的地は最初に水を汲んだ所と同じ、清き水の湧く山の傾斜だ。


 私は追加の水を用意することだけに専念して、余計なことを考えずに実行の手順をふんだ。


 満タンになった水筒を持ち帰ったときに、幼女の瞳がこちらにむけて動いた。気のせいではない。その証拠しょうこ一口ひとくち二口ふたくちと……。ゆりかごよりもゆっくりとかたむけた水筒すいとうの水は、今度こそ幼女ののどを通り過ぎていった。


 水分補給が完了し、幼女が一人で座れるようになると、私はまた一からかゆを作りなおした。人の本能というべきか、幼女の個性というべきか。幼女の食事は思いのほか順調に進んだ。日がれるまで、私は少しづつ幼女に食事をすすめた。

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