第20話 あさひ号と迷惑撮り鉄
「はぁ〜〜〜〜っ、やっと終わったぁぁ〜〜〜〜!」
首を回すとバキッ! と一際大きな音が鳴った。十一番線の最終列車を見送った後、天井に向かって両手を上げて喜ぶ私。痴漢した男を捕まえるというトラブルには見舞われたが、その後は深刻な問題が発生する事なく、仕事を終える事ができたのだ。これ以上に嬉しい事はない。
私はホームの見回りを終えた後、改札へ繋がる階段を上がり、十五番線のホームへと向かった。今日は普段、あまり見かける事のない観光列車あさひ号がこの駅を通過するのだ。普段から電車に興味のない私でも、そわそわとした変な気分になってしまう。
中央改札の前にいる駅員達に、「お疲れ様ですー」と声をかけてから、十五番線のホームへ繋がる階段を半分まで降りると、係長や駅員達が集まっている事に気が付いた。牛尾さんを見つけると私は小走りで駆け寄り、「お疲れ様です」と声をかける。すると、牛尾さんは私の頭をぐりぐりと撫で回してきた。
「大熊、今日はお手柄やったなぁ! ほんまにようやってくれたわ!」
「ありがとうございます。あれから、何もなかったですか?」
「おう、めっちゃ大人しくなっとったで! 警察に引き渡した後も暴れへんかったしな!」
牛尾さんは機嫌良さそうに笑いながら、私の肩をバシバシと叩いてきた。
電車を遅らせる事もなく、速やかに対処できて良かった。もし犯人が逆上し、凶器を手にしていたのなら、今日のような対処はできなかっただろう。こういう時、警察のように現行犯逮捕できたらいいのになぁ……とも思う。駅員の仕事は一歩間違えれば、危険と隣り合わせなのだ。
「お役に立てて良かったです。後、物凄く気になる事があるんですが。後ろの方はどちら様ですか?」
私は背後を気にしつつ、言い難そうに牛尾さんに耳打ちする。階段を降り切ってから気が付いたのだが、背後には一眼レフカメラを手にした男性が片膝を着き、興奮気味に人がいなくなった駅構内をフィルムに収めていたからだ。
「あぁ、なんか電車がめちゃくちゃ好きなお客さんらしいわ」
牛尾さんが敢えて聞こえるように言った。何人かの社員も男性の存在が気になっているのか、チラチラと後ろを気にしているように見える。
「え、もう閉める作業に入りますよね? 私から出るように注意してきましょうか?」
私がそう言うと、牛尾さんは珍しく首を左右に振った。
「とっくに言うとる。犬飼と鷲見が対応しきれんかったから、俺も駅から出て下さいって言いに行ったんや。そしたら、持ってた入場定期券を俺らに見せて付けてきてな。『あさひ号がここを通るんですよね!? 僕、入場定期券持ってるから、ここで写真を撮らしてください!!』って、言うてきたんや」
牛尾さんは呆れたように溜息を吐いた。
「えぇ……どっからそんな情報仕入れてくるんやろ」
「知らん。けど、鉄道ファンの情報収集能力には脱帽もんやで」
私はいつも不思議に思っていた。彼らは珍しい電車が走るという事を駅員よりも把握しており、こうして入念な準備をして今日を迎えている。
恐らく、うちの社員が情報を流しているのかもしれないが、バレたらタダじゃ済まないだろう――そんな事を考えていると、牛尾さんが小声で、「まぁ、ええねん。顔は覚えたからな」と黒い笑みを浮かべたので、私は聞かないフリをした。
「おい、あさひ号が通るぞ」
鵜野さんが私達に向かって声をかけてきた。この場にいた駅員達がホーム沿いに広がるように並び、あさひ号が天王寺駅を通過するのを見守っている。
明かりの消えた建物の間から、四つの前照灯がキラリと光っているのが見えてきた。隣にいた鳥谷は、「あさひ号を見るのは初めてかもしれんっ」と細い目を大きく見開いて、電車が来るのを今か今かと待ち構えていた。
「あさひ号っ……あぁ、君はなんて美しいんだっ!」
後ろにいたはずの男性客はいつの間にか、私達の前で片膝を着いていた。あさひ号に見惚れて、手に持っていたカメラを構えるのを忘れていたらしく、慌ててカメラのシャッターを切り始めていた。
「うわぁ、遠くから見てもかっこえぇなぁ……」
誰かが感嘆の溜息を漏らした。この場にいる誰もが黙り込んだまま、黒一色に染まったあさひ号を見つめている。私は列車風に備え、制帽を手で押さえていた。天王寺駅に進入してきたあさひ号が目の前を通過し、黒光りした先頭車両を皆が目で追っていく。在来線のような長方形の形をしたシンプルなフォルムではない、特別なフォルムをしているあさひ号は断トツで格好良く、この時だけは鉄道ファンの気持ちが少しだけわかったような気がした。
「俺も来週はあさひ号に乗ってる人達みたいに、楽しく過ごせるとええなぁ……」
私は無意識のうちに本音を口にしてしまっていた。それを聞いた飲み会メンバー達は、私の肩に手を回してきた。
「大丈夫、大丈夫! ドン底を経験したら後は上がるだけやってよく聞くやろ?」
「そうやで、大熊! そんな溜息ばっかり吐いとったら、幸せが逃げていくで! 俺みたいに早く新しい彼女見つけたらええやん!」
「お前、噂の看護師と付き合えたんか!?」
象島が頷きながら、ピースサインをして笑っていた。どうやら、この前の合コンで出会った看護師と無事付き合えたらしい。
「連絡を取ってた看護師と進展はあったやろうなって思ってたけど、マジで付き合えたんか! わかってると思うけど、お前は俺の元カノみたいに浮気すんなよ!」
「大丈夫や! お前の元カノみたいに股は緩くないし、元より俺はヤリチンでもないからな!」
「ぞ、象島ぁぁぁぁっ!」
私は悔しくなって象島の胸倉を掴んだ。私の野太い絶叫が電車の走る音にかき消され、私達のやり取りを近くで聞いていた社員達が腹を抱えて笑い始めている。
「やーっと自然に笑えるようになってきたな。この調子で沖縄旅行でめっちゃいじり倒したるから、覚悟しぃや」
「そんな弄りは必要ないわっ、せっかくの沖縄旅行が台無しになるやろうがっ」
象島の指摘で、ようやくいつもの調子に戻ったと自覚できた。沖縄に着いたら、皆にお礼を言わなければ――そう考えながら、皆であさひ号のテールランプが見えなくなるまで見送っていた。
「はーい、もう充分ですよね? もう駅を閉めなきゃいけませんからね、貴方は早くここから出てください」
あさひ号が通過した直後、鷲見さんがにっこりと微笑みながら、鉄道ファンのお客さんを対応してくれていた。
綺麗に笑う時の鷲見さんは近寄らない方が吉。さっさと持ち場へ戻るべし――という言い伝えを知っている駅員達は、事情を知らない新入社員達を引き連れて駅事務室へと向かって戻っていった。
この場に残ったのは、いつもの飲み会メンバーと犬飼だけだった。私達は四年も一緒に働いているので、鷲見さんが怒る姿は見慣れていたが、新入社員の犬飼は見た事のない先輩の豹変ぷりにアワアワと慌てるばかりだった。
「あ、あのっ……もう少しだけ、お願いできませんか? 人のいない駅の中を撮りたいんです。ほら、ここに入場定期券があるでしょ? ここまで許してくれたのなら、最後まで付き合ってくださいよ」
男性客は滅多に見る事のできないあさひ号を見る事ができて、テンションがハイになっているのか、肩を上下させながら、ハフハフと早い呼吸を繰り返していた。
対して、鷲見さんは口角を一定に保ったまま表情を一切変えなかった。そのまま、冷たい視線を私達に――正確に言えば、牛尾さんを見つめたまま、微動だにしなかったのである。
牛尾さんは無表情のまま頷き、サッと親指を立てた。ゴーサイン――つまり、責任は俺が取るという合図である。それを見た鷲見さんは「お客様?」と話を切り出した。
「今、何時かお分かりでしょうか?」
「はいっ、深夜一時前ですね!」
綺麗な笑顔から一転、鷲見さんの表情が般若に変わった。いつも優しくて面倒見の良い鷲見さんの豹変ぶりに、犬飼は私の後ろでブルブルと震えていた。
「あら、今何時かお分かりだったんですね? 時計の針が読めない方なのかと思ってました」
フンッと鷲見さんは小馬鹿にしたように笑う。すると、男性客は癇に障ったのか、ダンダンッと床を踏みつけて、子供のように怒りを露わにし始めた。
「ば、馬鹿にしてんのか!? こっちは客だぞ!? こっちの要望に答えるのが、お前らの仕事だろうがっ!!」
「誰が客や、このボケカス。お前みたいなのがいるから、私ら鉄道ファンの品格が下がるんじゃ。汗水垂らして、毎日お前らみたいな一部の害虫を相手してる駅員をもっとリスペクトしたらどうなんや」
鷲見さんの罵声がシン……と静まり返ったホームに反響していた。
「……鷲見さんが鉄道ファン?」
私の聞き間違いかと思い、鳥谷や虎杖、象島の反応を見てみるが、彼らも私と同じ反応だった。ただ一人、牛尾さんだけは鷲見さん達のやり取りを真っ直ぐに見つめていた。
「牛尾さん。鷲見さんって、鉄道ファンなんですか?」
「そうや。昔から働いとる人は全員知っとるで」
「えっと……会社的には大丈夫なんですか?」
私は恐る恐る聞く。鵜野さんの話では、関西鉄道株式会社は鉄道ファンは基本的に採用しないと言っていたからだ。それでも、牛尾さんはカラカラと笑った。
「正直、入ったもん勝ちってのはあるで。でも、鷲見は仕事できる人やし、外部に情報漏らすような非常識な事はせんって、分かってるから何も言わんのや」
私達は納得したかのように頷き合った。目を離しているうちに、鷲見さんはド正論をぶつけまくっていたので、男性客は意気消沈し、「すみませんでした……」と涙目になっていた。
「同じ鉄道ファンやから、舞い上がってしまう気持ちはわかるけどな? あんたはもう少し周りを見なあかんで。人間って良い所はあるんやけど、どうしても悪い方に目が向いてしまうからな。マナーの悪い鉄道ファンがおったら、マナー守ってる人達まで一緒くたに見えてまうやん? 鉄道会社で働く人間も鉄道ファンの人間も、お互い気持ち良い方がええやろ?」
鷲見さんの言葉にハッとしたのか、男性客はカメラを大事そうに握りしめながら、「そうですね、姐さん! 僕が間違ってましたっ!」と頭を下げてきた。
「これからは駅員の言う事はよく聞いて、無理なお願いはせんときや。よし、改札まで見送ったるから一緒に行くで」
「……はいっ!」
涙を拭った男性客は鷲見さんと共に改札口まで歩いて行った。最初は喧嘩し始めるのかと様子を見守っていた私達だったが、丸く収まって良かったと胸を撫で下ろしていた。だが、この中で一番、肝を冷やしていたのは牛尾さんだった。
「アイツが怒る時はいつも冷や冷やするで、ほんまに」
「鷲見さんって、こういう役回りが多いんですか? なんか意外ですね」
「まぁ、サッパリとした性格してるからかな。仲間が困ったり、人が迷惑してるの見ると、率先して間に入るというか……でも、ああいう人間の背中見て、後輩達が引き付いできくんやろうなって思うわ」
牛尾さんは腕を組んで誇らしげに話してくれた。
「さて、俺達もそろそろ仕事終わらな。明日も早いし、シャワー浴びて早よ寝るで。それに、後一週間したら沖縄旅行や! 浴びる程、酒飲ましたるから覚悟しとけよ?」
牛尾さんが腕を組んで、口角を上げる時はかなり機嫌が良い時だ。「という事は、牛尾さんの奢りですか!?」と私は聞き返す。すると、牛尾さんは豪快に笑いながら、「当たり前やろ! ボーナスも出たから、なんでも奢ったるわ!」と言ってくれたのだ。
私は言質を取るかのように、周りにいた者達の顔を順番に見つめた。皆が、うんうんと頷いた後、私は改札に繋がる階段に向かって走り始めた。
「鷲見さーーーーんっ! 牛尾さんがボーナス出たから、ドンペリと山崎をボトルで奢ってくれるって言ってますーーーーっ! しかも全員分ですよ、全員分! やっぱり、管理職は言う事が違いますわっ!」
私がわざと皆に聞こえるように大声で叫ぶと、背後から「アホかっ! 誰がそんな高い酒をお前らに飲ませるかぁっ!」と焦ったように牛尾さんが追いかけてきた。
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