第19話 痴漢撃退

 駅事務室から駅構内へ通じる扉をゆっくりと押し開けた。いつもよりも湿った空気が、冷房で冷え切った顔や腕に纏わりつき、より不快感を感じてしまう。


「うっわ、蒸し暑……」


 暑さに弱い私は制服の胸辺りを摘み、パタパタと風を服の中に送り込む。ふと視線を上げてみると、殆どの人がコンビニで売られているビニール傘を持っている事に気がついた。今日は晴れ時々曇りと報じられていたはずだが、どうやら今日の天気予報は外れてしまったようである。


「ねぇ、たー君っ! 私、バーキンが欲しい〜!」


 たった今、私の前を通り過ぎた女性から、トイレの芳香剤のようなキツイ香りが漂ってきたので、私は反射的に息を止めてしまった。何故、私が息を止めてしまったとかというと、女性から発せられる臭いは、キツイ香水の臭いだけではなかったからだ。


「いいぞぉ〜、今日はあいちゃんの誕生日やからな! なんでも買ってやるからなぁ〜」

「わーっ、嬉しい! ありがと〜!」


 女性客が腕を組んでいた相手は五十代くらいのサラリーマンだった。身に付けている時計や鞄は某ブランドの上等な物だったから、恐らく社会的に地位のある人間なのだろう。


 しかし、そのサラリーマンから、鉛筆の芯と古臭い油を混ぜ合わせたようなキツい加齢臭がした。自分の身体から悪臭が漂っている事を本人も自覚しているのか、臭いを誤魔化す為に香水を振っているらしく、二つの臭いが混ざり合って悪い方へと変化を遂げていた。


 当人達は何も感じていないのか談笑を続けていたが、私以外の人間もすれ違い様に振り返っていたので、どれだけ臭いがキツイのか容易く想像できるだろう。


「ぶぇっ……くしょいっ! あー、今ので鼻が死んだな」


 花粉が飛んでいるわけでもないのに、私は鼻水が止まらなくなってしまった。先程の二人は数メートル先を歩いているにも関わらず、まだ残り香が漂っている。


 あのカップル、どれだけ強烈な臭いを放つんだ! 心の中で文句を言いつつ、私はズビッと大きく鼻を啜った。キツい香水香りと加齢臭が漂うこの場所から早く逃れようと、早歩きで目的のホームへと向かった。


 喫煙室では愚痴と溜息ばかり漏らしていたが、後一週間で沖縄旅行を満喫できるのだ。だから、この一ヶ月の間で起きたトラブルも、全ては沖縄旅行に行く為の試練だったと、ポジティブに考えようと思う事にした。


「ボーナスも満額入ったし、今月分の給料も明日に入るから、沖縄に行ったら散財しまくるぞ。職場の皆と嫌な思い出を塗りつぶせるくらい全力で遊んだるねん」


 話し相手もいないのにブツブツと独り言を言っていると、変な人だと思われてしまうので、左腕に嵌めていたシルバーの腕時計を見ながら言う。時刻は二十一時を迎えようとしていた。


 私は額から流れ落ちてきた汗を袖で拭った。階段を降りると、係長を含めた数人の社員が険しい表情で立っていたので、嫌な予感がした私はその場で足を止めてしまった。


「お、来たな。大熊、こっちに来てくれ!」


 真っ先に私の存在に気がついた牛尾さんが手招きしてきた。


 さっきの意気込みはどこへ行ってしまったのか、行きたくないという気持ちが勝ってしまう。だが、今は仕事中なのだ。上司に呼ばれたのに行かないわけにはいかないので、小走りで牛尾さん達の元に駆け寄った。集まっていたのは虎杖と象島、牛尾さんと他数名の社員達。それも体格の良い男性社員ばっかりだった。


「何かトラブルですか?」

「さっき大歌鉄道から連絡が入ってな。大歌電鉄で痴漢した男がうちの電車に飛び乗ったらしいんや。犯人がこの駅で降りて来るかもしれんから、お前も手伝ってくれ」


 痴漢とは相手の意に反して性的嫌がらせをする非常に迷惑極まりない行為である。電車内での痴漢の件数は年々減少しつつあるが、残念ながら根絶には至っていない。被害に遭った後、被害者が駅員や車掌に報告してくれる事が多いが、その時には犯人は逃げた後という事が殆どなのだ。


「犯人の目星はついてるんですか?」


 現場に到着したばかりの私は控えめに挙手をした。駅のホームには会社帰りの人がまだ大勢いる。犯人の特徴もわからないままだと、人混みに紛れて逃げられてしまう可能性があると思ったのだ。


「もう目星はついとる。黒地のTシャツにジーパンを履いて、腰辺りに金属のチェーンを何本も付けた三十代くらいの男や。大歌鉄道の駅員が乗客の悲鳴を聞いて、犯人を捕まえようと腕を掴んだら、Tシャツの袖がビリッと破けたらしい。新今宮の駅員の情報によると、電車の最後尾に乗ってるらしいわ」

「そこまでハッキリとわかってるなんて珍しいですね」


 私は驚いたように言う。被害を受けた者が犯人の顔や服装を見ていないパターンが多く、あやふやな証言になる事がかなり多いのだ。仮に被害者から情報を受けて捕まえたとしても、人違いでしたというパターンもあり得る。冤罪の可能性も拭いきれないので、痴漢した人間を捕まえるのは、こちらとしてもリスクが高い行為なのだ。


「新今宮駅で派手に逃げ回ってたらしいからな。犯人が降りてきたら、こっちで捕まえて警察に引き渡すぞ、ええな?」

「了解です!」


 牛尾さんの指示に従い、各々が配置に着いた。牛尾さんとベテラン社員達は痴漢が乗っている最後尾の車両付近で待ち構え、虎杖と象島は真ん中の車両辺りで待機していた。一方の私は電車の到着アナウンスもしなくてはならなかったので、業務をこなしながら様子を見守る事となった。


 犯人がこの駅で降りてこない可能性もあるので、普段よりも緊張感を持って仕事にあたる。万が一、ホームで暴れて人が線路に落ちてしまわないように、電車を待っているお客様には、いつもの立ち位置よりも後ろへ下がってもらった。


『まもなく、電車が到着します』


 電車接近を知らせるメロディが鳴り、自動放送が流れた。それを聞いた私はマイクを口元へ持っていく。


「十一番線に到着する電車は京橋、大阪方面行きです。降りられるお客様を先にお通し願います」


 暗闇の中で前照灯が二つ輝いているのが見えた。あの電車に痴漢した犯人が乗っている。十一番線のホームには、どことなくピリッとした空気に包まれていた。


「まもなく、電車が到着します。危険ですので、黄色い点字ブロックの内側までお下がりください」


 大勢の乗客を乗せた電車が少しずつスピードを落とし、駅構内に進入してきた。停車位置までのろのろと徐行運転した後、ブレーキがかかる音とエアーが抜ける音がホームに響き渡り、一気に緊張感が増す。


『扉が開きます、ご注意ください』の自動放送後、電車の扉が一斉に開くと、「駅員さん、この人ですっ! 捕まえてくださいっ!」という甲高い女性の声が、私の所まで聞こえてきた。事情を知らない人達が、何事かと後ろの方を一斉に振り返っている。


「待てや、コラァッ!」

「逃げられへんぞ!」


 牛尾さんや他の社員達の怒鳴り声が立て続けに聞こえてきたので、何かの事件だと察した乗客達は、巻き込まれないようにホームの端に寄り始めた。


 遠くから様子を見守っていると、Tシャツの袖が破けた男が必死に逃げ回っているのが見えた。「どけっ、道を開けろ!」と叫んで走り回っている。ホームの端に寄ろうとしていた女性客が、男に押されて地面に倒れ込んでしまった。


「人混みの中で走ったら危ないやろっ、止まれっ!」


 後ろから猛追してきた牛尾さんが、男を捕らえようと手を伸ばす。しかし、Tシャツの裾を掴めるか掴めないかくらいの距離で、男は危険を察したのか身を翻した。


「なっ……」


 牛尾さんは勢い余って、ホームに設置してあるゴミ箱に突っ込んでしまった。牛尾さんに追いついた社員達が、「大丈夫ですか!?」と、次々に声をかけている。牛尾さんはよろめきながらも、「俺に構うな、早く追いかけろっ!」と指示を出していた。


 男はバランスを崩しながらも出口を求めて走り続けていた。その動きはラグビーボールを持って、フィールドを駆け回る選手のようにも見えた。


「頼む、早く対処してくれ……」


 私は自分の腕時計を見ながら少し焦っていた。この電車の停車時間は三分なので、まだ二分程の余裕がある。それまでに男が捕まれば良いが、長引きそうであれば無線で関係各所に連絡を取らねばならないのだ。


 捕まえるなら、早く捕まえてくれ――私はそう願いながら、マイクを強く握りしめていた。


「ハァッ、ハァッ……お前ら、邪魔やねん!!」


 男が中央改札に繋がる階段に向かって喚き散らしている。どうやら、降車した人達が邪魔で階段を駆け上がれないようだった。


「ちくしょうがっ!」


 悪態を吐いた男が、群衆を掻き分けるようにして飛び出してきた。こちらに近付いて来るにつれ、デニムにつけていたチェーンが擦れる音も大きくなってくる。


 男の容姿もハッキリと見えるようになってきた。何ヶ月もの間、髪を染めていないのか根本が黒くなっている。破けたTシャツの袖が走る度にヒラヒラと揺れ、破れた所からチラッと見える素肌は、どこかにぶつかったのか、赤くなっているように見えた。


 犯人は必死になって出口を探していた。恐らく、逃げる事しかないのだろう。私は犯人が間違って線路に降りないように、ジッと見張っていた。


 男は後ろから迫り来る追手を気にしながら、こちらに向かって真っ直ぐに走ってきた。男の行動を見た私は次第に自分の眉根が狭まっていくのを感じた。何故なら、こちらには改札口に繋がる階段はないからだ。


「え、なんでこっちに来るん?」


 私が少し戸惑っていると、逃げ惑う男とバッチリ目が合った。ハッと我に返った男が急ブレーキをかける。前のめりになって転けそうになった所をどうにか踏ん張って、私の目の前でUターンした。


 どこへ向かうのか、男の背中を目で追ってみる。どうやら、十二番線のホーム側から逃げようという算段のようだったが、判断が遅かった。


 虎杖と象島が通れないように道を塞いでいたのだ。男は逃げられないと悟ったのか、すぐに立ち止まった。そのまま象島達に捕まるかと思ったが、何故か踵を返し、私の所に戻ってきた。


「うわあぁぁぁぁああぁぁぁぁっ」


 逃げ場を失った男は叫び声をあげながら、突っ込んできた。何故、私に向かって突進して来るのか意図は分からないが、こちらに向かって来るのであれば容赦はしない。


 私は準備運動をするかのように、首をポキポキと鳴らした。私の身長は約180センチ、体重は90キロ近くある。対して、男の身長は私よりも頭二つ分低く、体型もひょろっとして見えた。


 もしかしたら、Tシャツの下は鍛えあげられてるのかも――そんな想像をしてみたが、男の息の上がりようを見て、最終的にそれはないかと判断した。


「はーい、捕まえたー」


 私は突っ込んできた男をハグをするように抱きとめた。男は私の腕の中で、「ちくしょうっ、離せぇぇっ」とジタバタと暴れ続けていたので、腕に力を込めて締め上げると、男は「ぎゃっ!」と短く悲鳴をあげる。


「そろそろ大人しくしとこかー。電車到着してんのにホームで暴れてたら、いつまで経っても電車発車できんやろ? はっきり言ってな。お前みたいな奴、めっちゃ迷惑やねん。お前のせいで電車を止めたってなったら、何百万の賠償金支払わなあかんかもしれんで? 自分だって罪がいくつも増えていくの嫌やろ?」

「ぐっ……うぅぅ……」


 私が諭すように話すと、男は悔しそうにブツブツと小言を繰り返していた。遠くから牛尾さん達が走って来るのが見えたので、私は手を上げながら声を張り上げた。


「牛尾さーん、この人のこと頼んます!」

「ハァ……ハァ……ようやった大熊。それにしても、突っ込んでいく相手を間違えてるやろ」


 牛尾さんは息を切らしながら汗を拭った。後から追いついてきた数人の社員が男を取り囲み、逃げられないように駅事務室へ連行していった。


 腕時計を見てみると、時刻は発車する三十秒前だった。十一番線のホームは騒然としていたが、トラブルの元凶はいなくなった為、私は何事もなかったかのように発車するアナウンスを始めてい

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