第18話 喫煙所にて

「今日もあっついなぁ……」


 ポスターとパンフレットの入れ替え作業と改札での仕事が無事に終了し、休憩に入った私は虎杖と鳥谷の三人で喫煙室で煙草を吸っていた。煙草に火を着け、肺一杯に煙を吸い込むと、身体中の血管がギュッと締まり、眠たかった目が冴えていくようだった。


「はぁぁ……生き返ったわ……」


 煙草の煙を吐き出した私は、冷たいコーヒーをズズッと飲み干す。この蒸し暑い時期は冷たいコーヒーを喫煙室に持ち込み、冷房の風が直に当たる場所で煙草を吸うのがマイブームになっていた。


 背後に人がいる時は煙草の煙が風下に流れていくのでやらないが、喫煙室には虎杖と鳥谷の三人だけなのだ。ひとときの幸せを感じる事くらい許されるはずだ。


「そういえば、今日は観光列車が走る日やっけ?」


 虎杖が煙草の煙を細く長く吐き出した後、ボーッとした目で聞いてきた。昼間に変な質問をふっかけられたせいで、余計に疲労が溜まっているのだろう。声に覇気が感じられなかった。


「あぁ、確か普段は滅多にお目にかかれない、あさひ号が通過するらしい。これを見送らんと今日の仕事は終わらんな」


 あさひ号とは京都から大阪、和歌山を経由し、名古屋まで走行する観光列車だ。この観光列車は一部の鉄道ファンの間で、根強い人気を誇っているらしく、駅に詰めかける者も多いと聞く。ちなみに往路はあさひ号、復路はゆうひ号に名称が変わるのも、この観光列車の特徴だ。


 あさひ号は海面から太陽上がっていくイラストの上から、『あさひ』と書かれた金色のロゴマークが側面に入っており、逆にゆうひ号は太陽が沈んでいくイラストの上から、『ゆうひ』と描かれている。この観光列車は光が当たると色が変わって見えるように、特殊なコーティングがされた電車だった。あさひ号は光が当たると群青色に、ゆうひ号は光が当たると燕脂色に見える仕様となっている。共通点は光が全くない所だと黒一色に変わり、高級感が増して見えるように作られているそうだ。


 虎杖は眠そうに、「そうか」と短く返事をした。一方の私は、今日こそ何事もなく仕事を終えれたら良いなと思いながら、私は残り短くなった煙草を吸い始めた。


「そういえば、大熊。元カノから電話あったんやろ? あれから、どんな感じになっとるん?」

「あっ、それは俺も気になってた!」


 急な話題転換に私は持っていた煙草を落としそうになった。仕事で気を紛らませていた胃痛が再発してくる。私の微妙な反応を見た鳥谷は、「またなんかあったん?」と顔色を伺ってきた。


「あぁ、うん。ちょっと、いろいろとな……」


 私は言い淀んでしまった。これを言ったところで何も解決にもならないし、二人に心配をさせるだけなのだが、社内でこれだけ噂が回っているのだ。逆の立場だったら気になって仕方がない。そう思った私は、自分のスマホを胸ポケットから取り出してSNSのアプリを起動させた。手紙のアイコンをタップすると、メッセージ冒頭の一部分が確認できる。


 画面を見るように二人に促すと、ズラッと同じ写真と名前が並んだアカウントを見て、「えっ……これ全部、元カノからのメッセージなん!?」と引いたような表情に変わった。


「そうや。電話来た時もすぐに着信拒否したんやけど、SNSを通じて毎日連絡が来んねん。来る度にブロックもしてるんやけど、新しいアカウントでメッセージ送って来られるんや。そのせいか最近、胃痛が酷くてな……」


 私は胃の辺りを摩りながら苦笑いしかできなかった。この前、元カノと話して言いたい事は全て言いきったつもりだったが、向こうはまだまだ言い足りないらしく、SNSを通じて連絡を取りたがるのだ。


 このままだと自分の胃が保たないので、SNSのアカウントごと削除してしまおうと何度も考えた。しかし、このアカウントには大学時代からの楽しかった思い出が詰まっている為、なかなか削除する事ができなかった。


 私は煙草を根本ギリギリまで吸ってから、火種を灰皿へ押し付けた。燃え尽きた煙草から、か細い白い煙がゆらゆらと揺らめきながら上がっている。灰皿に押し付けられた吸殻のように、厄介ごとを鎮火できるのであれば、今すぐにでもそうしたい。けれど、どうにもできないから悩んでいるのだ。


「はぁぁ……なんで俺ばっかりこんな目に遭ってるやろ。自業自得なんは絶対にあっちやのにさ。仕事はヤオヤばっかりやし、酔客には絡まれるし。不正乗車した子供を全員捕まえて、トイレで亡くなってる人に手を合わせたし。元カノから連絡来た時には電車止まって、タクシーの運転手と揉めるし。最近の俺は一体、どないなっとるんや……」


 この短期間でプライベートも含めて仕事中にいろいろありすぎた。こうして煙草を吸っている最中は、仕事の内容について振り返る事が多くなってきている。こんなキツい仕事は早く辞めてしまいたい。体力的にも精神的にも、もっと楽な仕事に就きたい――そう思う時が何度もあった。


 だが、私が愚痴を零す度に家族のような仲間達に支えらながら乗り越えてきた。二人にこんな愚痴を言っても仕方がない。頭では理解しているが、心はやっぱり正直で。誰かに寄り掛かりたいという気持ちになったのは、本当に久しぶりだった。


「あーあ、こんな憂鬱な気分は入社したての時にあったレクリエーションに参加した時以来や。なぁ、虎杖覚えてる? 俺達を初っ端のレクで先導してくれた人事部の女の人」


 虎杖は当時の事を思い出したのか、苦笑いに変わった。


「覚えてる。他の班の人達は煙草吸ってんのに、俺達の班だけ吸わせてくれへんかった女の人の話やんな」


 これは私達が入社したての頃、新人歓迎会を兼ねたレクリエーションがあった。その班の中で、私と虎杖と象島の三人だけが喫煙者だったという事もあり、私達はすぐに仲良くなった。


 だが、事件はそのレクリエーションの最中に起こった。他の班は喫煙を許されていたのに、私達の班だけは煙草を吸う事を許してはくれなかったのだ。心底疑問に思った私達三人は、ジャンケンをして負けた人が代表で抗議しに行こうと決めた。そして、一発で負けてしまった私が代表して、女性の部屋まで聞きに行ったのである。


 ――どうして、他の班は煙草を吸っているのに、私達の班だけ煙草を吸っちゃいけないんですか?


 私の率直な疑問に人事部の女性は細い目をパチパチと瞬きさせた後、衝撃的な言葉を言い放った。「私が煙草が嫌いだからです。じゃないと、大好きな紅茶の香りが感じられないじゃないっ」と、ヒステリック気味に言い放ったのだ。


 俺達の会話を聞いていた鳥谷は、「ははぁー、それで俺達の班に混ざって煙草を吸ってたんか」と笑っていた。


「そこは笑うところじゃないぞ、鳥谷! 喫煙者にとっては死活問題や! あん時は予想してた回答よりも斜め上を言ってて、どう反論すれば良いか台詞がとんでしまってな。どうしても、煙草が吸いたくて他の班に混じって吸ってたら、三人共身体がデカいせいですぐにバレたし。レクが終わってから、研修センターの狭い部屋に男三人押し込まれて、ほんま最悪やったわ……」


 当時の事を思い出した私は気分が悪くなって、煙草を一気に吸い上げた。一方の虎杖は昔の事を思い出したのか、からからと笑っていた。


「そんな事もあったな。問題児ってレッテル貼られた挙句、初っ端から大きな駅に配属やったから最悪やーって思ってたけど、ここの駅の人達は皆ええ人ばっかりやから、ほんまここに配属されて良かったって思うわ」

「あー、それはめっちゃ思う。他の駅に配属された同期なんて楽しくない、辞めたいばっかり言うてるしな。そう思ったら、仲間に恵まれてると思うで。後、旅行まで後一週間や。今は辛いかもしれんけど、沖縄に着いたら仕事を忘れて楽しもうや」


 鳥谷の言葉に勇気づけられた私は大きく頷いた。虎杖は吸っていた煙草を灰皿に押し付け、新しい煙草を私に差し出してきた。


「ほら、俺の煙草やるから元気出せよ」

「ありがとう、お前らはほんまに優しいな」


 私は鼻を軽く啜った後、虎杖が手に持っている白いパッケージに星が印字された煙草を一本頂戴した。早速、火を着けて煙草を吸う。いつも吸っている煙草とは違う味だが、やはり休憩室で吸う煙草は美味かった。


「煙草吸ってる時が、一番幸せかもしれん……」

 私が感慨深げに言うと、虎杖は「それは間違いないな」と頷いていた。


「よし、今日は先行くわ。昔、お世話になった先輩が車掌として乗ってるから、少し顔見に行ってくる」


 鳥谷が吸い終わった煙草を灰皿に押し付け、身なりを整えてから制帽を被った。喫煙室の壁に取り付けられている時計を見ると、時刻は二十時を迎えようとしていた。


「もうこんな時間か。俺達もそろそろ準備して行こか」


 私も虎杖も持っていたスマホの電源を落とした。限界ギリギリまで煙草を吸ってから灰皿に火種を押し付け、三人で喫煙室を出てロッカールームへ向かった。

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