第13話 多目的トイレにて

「あらら、えらい派手に転けたな。象島、お前は車椅子を持ってきてくれ。もしかしたら、体調不良で動かれへんのかもしれん。大熊、お前は俺と女子トイレに直行や」

「了解です」


 象島は駅事務室に向かい、私は牛尾さんの後をついて走った。途中で呻き声をあげながら起きあがろうとしている犬飼に、「先に行っとくで」と声をかけて女子トイレへ向かう。


 数メートル走ると女性専用を表した赤いマークの標識が見えてきた。牛尾さんと二人で女子トイレの目の前に立つと、普段だったら立ち入らない場所の為か、私は一歩踏み出すのに少しだけ躊躇ってしまう。


「いくぞ、大熊。仕事なんやからそんな強張った顔すんな」

「あ、はいっ! すいません!」


 牛尾さんが私の気持ちを察したかのように声をかけてきた。


 そうだ、これは人命救助なのだ。私達がやらねばならない。これは仕事だと自身に言い聞かせ、私は入口の前で声を張り上げた。


「失礼します! 点検の為、入らせて頂きます!」


 緊張の面持ちで女子トイレに入ってみると、右側に設置された三つの洗面台と壁一面に貼り付けられた大きな鏡が目に付いた。白い洗面台には長い毛髪が何本も落ちており、角に置かれた縦長のゴミ箱は薬局で買ったと思われる化粧品のパッケージがいくつも捨てられていたので、ここで誰かが化粧をしていたのだと私は推測する。


「女子トイレの方が意外と汚いですね」

「女性は身嗜みに気を遣う生き物やからな。気合い入れて髪とか肌の手入れとかするんやろ。これも毎日掃除をしてくださる清掃員のお陰やで」

「ですね。ヤオヤの時も助けて下さるし、本当に感謝の気持ちしかないです」


 私はいつも清掃してくださっている方々のお陰で、トイレが清潔に保たれているのだと改めて実感した。


 牛尾さんと一緒に中へ進んでいくと左四つ、右に三つ並んだ個室トイレの扉がいくつか中途半端に開いた状態になっていた。私は念の為、個室トイレに誰かが座っていないか自分の目で一つ一つ確認していく。だが、サニタリーボックスが山盛りになって蓋が閉まりきっていなかったり、トイレットペーパーの切れ端が床に散らばっていたりするだけで、人が倒れている様子はなかった。


「どうや?」

「個室トイレにはいらっしゃらないですね」

「そうか。じゃあ、多目的トイレの中やな」


 牛尾さんは多目的トイレの鍵の色が赤になっているのを確認した後、「お客さん、大丈夫ですか?」と声をかけ、数回ノックをする。だが、いつまで経っても返事がなかった。


 心配になった私は外にまで聞こえるようにわざと声を張り上げた。


「お客さん、返事をしてください! ちょっとした物音でも構いません! 返事をしていただけないでしょうか!」


 私は声かけを止め、耳を近付けて微かな物音でも拾えるように神経を尖らせる。けれど、小さな呻き声も衣擦れの音すらも聞こえてこなかった。


「ダメですね。牛尾さん、どうしますか?」

 牛尾さんが返事の代わりに「うーん」と低く唸った。

「……大熊」

「はい、なんですか?」

「非常事態や。隣のトイレの壁から乗り越えるしかない」

「よ、よじ登る? もしかして、私がやるんですか?」


 驚きのあまり聞き返してしまった。確かに天井には乗り越える程度の空間はある。けれど、私の体格では乗り越えられるか、ビール腹がつっかえて身動きができなくなるかもしれない。牛尾さんは神妙な面持ちで続けた。


「犬飼も言ってたやろ。意識を失って倒れてしまってる可能性があるってな。それやったら、早く救助せなあかん」

「なら、犬飼を待ちましょうよ。私がよじ登ったら壁が壊れてしまう可能性があります。それに天井の隙間だって、私では通れるかどうかわからないですよ」


 私の身長は180センチ、体重は約90キロだ。このトイレは改修工事がなされたばかりなので、部品もある程度の強度は誇っているだろうが、絶対に壊れないという保証はない。


 不安そうな顔をする私をよそに牛尾さんはグッと背中を押してきた。


「大丈夫や、大熊。俺の方が体重は重い」

「いやいや、誰が見ても分かる嘘をつかないで下さいよ。牛尾さんの方が痩せてるじゃないですか。知ってるんですよ、本当は高い所が嫌いだからですよね?」


 私が指摘すると、牛尾さんはムッとした顔に変わった。


「知ってるなら言うなや。ほら、さっさと登って中を確認せぇよ。場合によっては救急車を呼ばなあかんねんから」


 牛尾さんの言葉に渋々頷いた私は多目的トイレのすぐ隣にある個室トイレに入った。革靴を脱ぎ、壁に手をつきながら便座の上に立った私は壁の上部に手をかけた。


「ふんっ」


 勢いをつけて身体を持ち上げ、腕を多目的トイレの方へ引っかけるようにして上体を乗り出してみる。壁が壊れないように早く登ろうとしたが、角張った部品が腕の肉に食い込んでしまい、痛みに顔を歪めてしまった。だが、ここで変に動くと擦り剥きそうだったので、私は歯を食いしばって痛みに耐える。


「これで怪我したら労災確定やな――うぉっ!?」


 私は驚いて固まってしまった。ストライプ柄の半袖のシャツにタイトスカートを着用した女性が便座に腰を下ろして座っていた。しかし、表情は俯いていたせいで確認できず、意識があるかどうかもここからでは確認ができなかった。


「お客様、大丈夫ですか!? あっ……す、すいませんっ!」

 私は反射的に頭を引っ込めそうになった。女性の格好をよく見てみると、ベージュのストッキングと下着を一緒に下ろしたままの状態だったのだ。


 私はここにきて迷いが生じてしまった。お客様を救出する為に多目的トイレ側に降りるべきか、犬飼を待つ方が良いのか悩んでしまったのだ。


「大熊、様子はどうや?」

「はい。女性が便座に座った状態でぐったりされてるんですが……」

「どないしたんや?」


 珍しく歯切れの悪い喋り方になった私を見て、牛尾さんは軽く首を捻った。


「下着を下ろしたままの状態で便座に座っておりまして……早急に対応したいのですが、犬飼を待った方がいいか非常に悩んでおります」


 本来であれば、今すぐにでも助けるべきだろう。だが、私は男なのだ。女性の中には異性に触れられるのが嫌だという人が一定数いる事を知っているからこそ、自分の行動に迷いが出てしまった。


 私が介抱してる途中で女性の意識が戻ったら? 狭いトイレの中で見知らぬ男がいたら、不愉快な思いをさせてしまうのではないか? という心配が脳裏に過ぎってしまったのだ。


 私が正直な気持ちを吐露すると、牛尾さんは真剣な表情に変わった。


「大熊、今はお客様の容体を確認する事が先決や。返事ができないくらい体調が悪いのかもしれん。何かあったら俺が守ったるから、お客様の様子を確認してくれ。後、この扉の鍵も開けてくれるか?」

「わかりました」


 牛尾さんの言葉を聞いた私は馬に跨る時のように自分の足を上げ始めた。窮屈な姿勢のまま足を動かす行為が地味に腰にくる。明日は確実に筋肉痛なっていると思った。


「ぐぬぬぬぬ……おっしゃ、いけた!」


 数回試みてようやく足を向こう側引っ掛ける事に成功した。私の体重に耐えかねて壁が壊れるのではないかと心配しつつ、多目的トイレに移る為に身体を徐々に移動させていく。自分の逞しいビール腹が初めて邪魔だと思ってしまったが、なんとか多目的トイレ側に降り立つ事ができた。


「お客様、大丈夫ですか!?」


 私は機嫌を伺うように女性客の顔を覗き込んでみたが、ここである違和感に気付く。唇がやけに青白く、長い髪の間から見える首筋は肌が異様に白く見えた。


 化粧のせい? いや、それにしては血が通っていないような白さのような――。


「すみません、少し失礼しますね」


 基本的に女性客の身体に触れる事は禁止されている。そんな事はわかっていたのにも関わらず手袋を外し、女性の首筋に向かって手を伸ばしていた。この際、セクハラされたと怒鳴られても良い。いや、この場合はその方が良いと願ってやまなかった。


「牛尾さん、このお客さん既に亡くなってます」


 私は無意識のうちにお客さんの前でしゃがみ込み、両手を合わせていた。首筋の脈を全く感じ取れなかった事や、後は身体の奥から感じられる暖かさを感じられなかった事も決め手となった。


 扉の向こう側にいる牛尾さんも声にならない溜息を漏らし、残念そうに「そうか……」と呟いていた。


 私が扉の鍵を開けると、目の前には状況を把握した犬飼が落ち込んだ様子で立っていた。さっき転んだせいで、着用していたベージュのタイツは膝の部分が裂け、少し血が滲んで痛そうだったが、心配の言葉をかけてあげられるような状況ではなかった。


「当直の係長に事情を説明して救急車呼んでもらうわ。お客さんには申し訳ないけど、そのままの状態で辛抱してもらって。救急隊員に死亡確認してもらわなあかんからな」


 牛尾さんはポケットにしまっていた黒いガラケーを取り出し、早々に女子トイレから出て行ってしまった。


 牛尾さんを見送った後、女性の足元に落ちていた化粧ポーチからはみ出ている銀色の包装シートが気になった。この後、警察が現場検証をすると思うので触ろうとは思わなかったが、恐らく何か持病を抱えていたのではないだろうか。


「大熊先輩。お客さん、トイレの中で亡くなってたんですか?」


 犬飼が沈んだ表情で聞いてきた。恐らく、こういう経験は初めてなのだろう。ここで嘘をついても仕方ないと思った私は「あぁ、亡くなってた」と答えるしかできなかった。


「そうですか……」


 犬飼は被っていた制帽を外して、女性客に向かってペコッと一礼した。女性客を見つめたまま何も喋らなかったが、暫くして、「大熊先輩」と弱々しい声音で話かけてきた。


「このお客さん、苦しかったですかね?」

「うーん、どうやろうな……」


 とてもじゃないが、気の利いた言葉はかけられなかった。トイレの床に散らばる化粧品を見るに薬を出そうと焦っていたようにもとれるし、もがき苦しんだ可能性もある。この後は救急隊員と警察が来て、遺族が望めば病理解剖を受ける事になるのだろう。だが、何が原因で亡くなったか、現場の人間に知らされる事はないのだ。


「そうですよね。何が原因で亡くなったかわかりませんけど、ちゃんと見つけてあげれて良かったです。もうこんな時間ですし、ご家族の方と一緒に住んでいたら、とても心配されてるでしょうし」


 犬養に言われて自分の腕時計を見ると、時刻は深夜一時半を迎える頃だった。もうそんなに時間が経っていたのかと驚いてしまう。


「もうじき救急隊員と警察官がここにくるわ。俺達もここから出て駅事務室で待っとこか。あ、そうや。明日、仕事終わりき牛尾さんと象島と飲みに行くけど、気分転換に犬飼も来るか? こんな時間やし無理にとは言わんで」


 少なからずショックを受けているだろうと思っての言葉だったが、犬飼は「えっ、良いんですか!?」とテンション高めに答えていた。


「犬飼って酒が好きなん?」


 私が驚いたように聞くと、犬飼は嬉しそうに首を縦に振っていた。


「はい、めちゃくちゃ好きです! 是非、行かせてください!」

「ハハハ、なら良かったわ。仕事終わって体調が悪かったりしたら断ってくれて良いからな。ほな、明日の仕事が終わったら串カツ天狗に集合な」


 犬飼は嬉しそうに「はいっ!」と返事をした。だが、この時の私は彼女がアンラッキーガールと言われている事をすっかり忘れていたのだった。

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