第10話 仕事終わりの一杯

 諸々の仕事を終えた私は急いで地下街へ向かった。階段を降りてグルメ街へ向かうと、昔からあるような立ち飲み屋やチェーン店のお好み焼き屋が見えてくる。その中でも串カツ天狗は知る人ぞ知るレトロなお店だ。


 天狗と書かれた暖簾をくぐって店に入ると、壁一面に貼り付けられたメニューと朱色で書かれた『本日のオススメ、ささみ梅大葉と串カツ豚』という文字が目に付いた。


「いらっしゃい、大熊君。鳥谷君達は奥のテーブルにいてるわ」


 店主のおやっさんが厨房から顔を出し、奥のテーブルに向かって指をさす。常連の私はすっかり顔と名前を覚えられており、私もおやっさんと親しみを込めて呼んでいた。


「おやっさん、鳥谷の他に誰か来てますか?」

「名前は知らんけど、よく来てくれはる年配の男性と華奢な女性が一緒に入ってきたで!」

「了解です、ありがとうございます!」


 おやっさんに会釈した私はカウンター席に座る人達にぶつからないように店の奥へと進んでいく。誰が来ているのかを考えつつ、店内の通路を右に折れた。


「おっ、きたきた。大熊、お疲れー!」


 私に気が付いた鳥谷がこちらに向かって手を振ってくれたが、見慣れたスキンヘッドの男性とショートカットの女性が座っていたので、私は慌てて頭を下げにいった。


「お疲れ様です、えらい遅くなってすみません!」

「おう、お疲れ。更衣室でたまたま鳥谷と一緒になってな。鷲見とお邪魔させてもらってるわ。園真さんと話して少しはスッキリしたか?」


 牛尾さんはメニュー表から少し顔を覗かせてニヤリと笑った。


「はい、美味しいコーヒーをいただきました」

「良かったやん。さて、大熊も揃った事やし、注文はアレでええな?」


 牛尾さんの言葉に私達は強く頷いた。


「おばちゃん、モーニング四つで!」


 厨房から「はいよ〜!」という返事が聞こえてきた。牛尾さんが頼んだのは、この店の名物メニューであるモーニングセットだ。一般的にモーニングと聞いたら、サンドウィッチやトースト、飲み物のセットを思い浮かべるだろう。しかし、串カツ天狗のモーニングセットは一味違った。


 この店ではなんと、串カツ五本と生ビールのセットが、午前中限定で五百円で提供されている。安くてとっても美味しいので、酒とツマミが好きな人間は必ず注文する程の大人気メニューなのだ。


「先に生四つとお通しの枝豆ね〜!」


 おばちゃんが赤いお盆に乗せたビールと人数分の枝豆を運んできてくれた。机の上に置かれたジョッキが外気に触れて真っ白に変わっている。早くあの小麦色の液体を胃に流し込み、スッキリとした喉ごしを味わいたいという衝動を押さえつつ、私はジョッキを手にした。


「それでは、大熊君が早く立ち直る事を祈って……乾杯!」

「かんぱーい!」


 牛尾さんの音頭で私達はを乾杯をした。鳥谷と鷲見さんは味わうようにビールに口をつけ、私と牛尾さんは一気にビールを飲み干した。同時にジョッキをテーブルに置いて「おばちゃん、おかわり二つね!」と注文をする。


 他のお客さんの注文を取っていたおばちゃんは、「はいよ!」と短く返事をした後、厨房へ向かう前に私達の席に立ち寄り、空になったジョッキをまとめて運んでいった。


「ほんまに牛尾さんと大熊君は根っからの酒飲みですよね。もう少し落ち着いて飲みましょうよ」


 鷲見さんは私達を見ながら、少し呆れたように言った。


「わかっとらんなぁ、鷲見は。ええか? ビールはな、喉ごしが命の飲み物や。そんなちびちび飲んでどないすんねん。仕事終わりのビール程、美味いもんはないで。一回、俺に騙されたと思って飲んでみ」

「嫌ですー、私はお酒はゆっくり味わって飲みたい人ですし。それにね、そんな飲み方してたら絶対に身体に悪いですよ。奥さんからも注意されてるでしょ?」

「まぁな。でも、仕事終わりと風呂上がりのビールだけは未だに止められへんねん。冷えたビールが五臓六腑に染み渡って、疲れた身体を瞬時に癒やしてくれる……これが俺の楽しみでもあるんや! なぁ、大熊! お前やったら、俺の気持ちがわかるやろ!?」

「はい、仕事終わりのビールは最高です!」


 私が同意すると、おばちゃんがタイミングよく揚げたての串カツとビールを運んできた。


「おまちどーさん! 大熊君、今日も良い飲みっぷりやねぇっ、見てて気持ちええわ!」

「天狗さんのモーニングは最高ですからね! あっ、おばちゃん! すぐに飲み終わるから、追加で頼んます!」

「はいよー、生二つね!」


 おばちゃんが伝票を千切り、厨房へ戻っていく。私と牛尾さんはテーブルに置かれた新しいジョッキを手に持ち、またまたビールを一気に飲み干した。それから、二人で揃って天井に向かって大きなゲップをすると、鷲見さんがあからさまに嫌そうな顔に変わる。


「ほんま下品な奴等やな。ここに紅一点がおるんやから、もう少し周りに配慮しなさいよ」


 なんだか恥ずかしくなった私は、「アハハ、すいません。つい癖で……」と口元を手で覆って謝ったが、既にビール二杯目で顔が真っ赤になっていた牛尾さんは串カツに齧り付いた後、馬鹿にしたような笑みを浮かべた。


「お前のどこが紅一点やねん。顔はまぁまぁ美人やけど、胸はまな板でガリガリやし。俺らと混じって酒飲んでても大して変わらん――いだぁっ!?」


 椅子に座っていた牛尾さんが目を剥いて飛び上がった。テーブルの上に置いていた取り皿がガタガタと揺れている。どうやら、私達の見えない所で何かが行われたらしい。


 牛尾さんは足の痛みに耐えた後、鷲見さんに向かって声を荒げた。


「上司の足にいきなり蹴りを入れんなやっ!」

「セクハラ発言をされたからでーす。私だから良かったかもしれませんけど、他の女性社員だったら社内通報されて、ボーナスカットくらってますよ」

「お前と俺の仲やん。これくらいのノリは許されるやろ」

「牛尾さんの事なんで、癖でポロッと出ちゃうでしょ? もう昭和じゃなくて平成の時代なんです。悪い風習は私達で終わらせないと。だから、その足の痛みと私の心の痛み、これでおあいこですからね」


 フンッとそっぽを向いた鷲見さんはビールを一気に飲み干した。


「今の聞いた? 鷲見の足癖の悪さもどうにかせなあかんと思わん? 今時、上司に蹴り入れる女なんておらへんよなぁ?」


 私と鳥谷がどう答えようか顔を見合わせていると、おばちゃんが生ビールを二つ持ってきてくれた。ここで鳥谷がチャンスとばかりにコホンと咳払いをする。


「夫婦漫才はそこまでにしてください。今日は大熊君を励ます会ですよ。そこは忘れないでくださいね」


 この飲み会の主旨を思い出した牛尾さん達は、「あ、そうやったな」と素っ頓狂な声を発していた。牛尾さんは席に座り直してから、ゴホンと咳払いをした。


「昨日の夜、更衣室まで怒鳴り込み行ったんやけど、部屋の中で泣き崩れてたんが大熊やって聞いて、めっちゃ驚いたわ。鵜野ちゃんからは酔客に絡まれて、ゲロ塗れになったって所までは聞いてたんやけどな……」


 牛尾さんは続きを話しづらいのか、向かい側の席に座る鷲見さんに目配せをしていた。表情から察するに、お前の口から続きを話してくれという意味だろう。


「え? 私は牛尾さんの怒鳴り声の方がうるさいと思いましたよ?」

「おい、鷲見! そこは俺のフォローをしてくれよ!」


 二人がまた言い合いを始める前に、私は椅子から立ち上がって深々と頭を下げた。


「昨日はうるさくしてすみませんでした。実はこういう事がありまして……」


 私は昨日あった事を説明し始めた。すると、どんどん二人の表情が暗くなって、最終的にお通夜に参加しているような空気に包まれてしまった。


「すまん、大熊。昨日は怒鳴り込んですまんかった。俺が大熊の立場やったら、怒りでロッカー破壊してると思うわ」


 ムードメーカーの牛尾さんがあからさまに落ち込んでいた。隣にいた鷲見さんも同意するかのように、無言で頷くばかりだった。


「あー、そんな顔しないでください。昨日は私も突然の事で取り乱してしまいましたし。こうやってストレス解消に付き合ってくれるだけでも、めちゃくちゃ嬉しい――うっぷ」


 昨日の記憶が蘇った事が原因なのか、軽い吐き気と共に胃に流し込んだビールが逆流してきた。頬が一瞬で、パンッ! とハムスターのように膨れ上がる。店で吐いてなるものかと気合いで押し返したが、心臓がドックン、ドックンと脈打ち、嫌な汗が全身から噴き出てきた。


「おい、大丈夫か!?」


 鳥谷がギョッとした顔で心配してきた。私は目を合わせないまま、「大丈夫や。俺はお店では絶対に吐かへんからな」と余裕ぶってみせる。


「ほんまか? そんな風にはとても見えんけど」

「ほんまや――おぇっ」


 真っ青な顔で口元を抑えた私を見て、鳥谷はすぐにおしぼりをたくさん頼んでいた。鷲見さんは自分の鞄に手を突っ込み、急いでビニール袋を取り出そうとしている。牛尾さんに至っては、店内の端っこに置いてあったバケツを取ろうと立ち上がっていた。


「うぐ……す、すいません。もう引っ込んだんで、大丈夫です」

「顔真っ青やんっ。ほら、袋広げて持っとき!」


 鷲見さんからビニール袋を渡されたが、私は強がって袋は広げなかった。本当は胸焼けが止まらなくて、気持ちが悪くて堪らない。けれど、私に付き合ってくれてる以上、お世話になってる人達の前で醜態を晒すわけにはいかなかった。


 私は無理やり笑顔を作って、パンパンと手を鳴らす。


「ほら、続き続きっ。帰りは鳥谷がどうにかしてくれますから! あっ、会計なら彼女との結婚の為に貯めてたお金があるんで、心配しないでください」


 私から指名を受けた鳥谷は、「はい、任せてください」と言ってくれた。鷲見さんは最後まで心配そうな顔をしていたが、牛尾さんは眉間を人差し指で軽く抑えたまま暫く唸り、決意したかのように口を開いた。


「わかった、可愛い部下の為や。大熊の気が済むまで話を聞いたろうやないか」


 腹を括った牛尾さんは焼酎の麦をボトルで注文した。

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