第9話 駅長との話

「し、失礼します」


 やや緊張気味に駅長室の扉を三回ノックすると、部屋の中から、「どうぞ〜」と朗らかな声が聞こえてきた。扉を開けて中に入ると、私と同じ制服に身を包んだ胡麻塩頭の男性が鼻歌を歌いながら、業務用のコーヒーマシンの前に立っていた。


「お疲れさん。大熊君はブラックで良かったやんな?」

「はい――あ、良かったら自分でやらせて頂きます」


 ここは園真駅長に甘えたら良かったのに、緊張している為か変な気遣いが出てしまった。やってしまった……と後悔していると、「自分でやってみるか?」とコーヒーカップを渡してくれた。


「園真駅長もコーヒー要りますか?」

「僕はさっき淹れたばっかりやから大丈夫やで」


 園真駅長は先に抽出していたコーヒーを手に持ち、脇に置いてあったグラニュー糖とミルクポーションを一つずつ持って、来客用のソファに腰かける。どうやら、園真駅長は甘党のようだ。


 緊張気味にカップをコーヒーマシンにセットしてから抽出ボタンを押すと、豆をガリガリと挽く音が聞こえてきた。機械の中で何かが行われているらしく、抽出まで時間を要するようだった。


 私は二人きりで何を喋るのだろうかと考えていた。普段の業務において駅長とは接点がない。たまに現場に顔を出されたりはするが、それ以外は飲み会やカラオケでちょろっと世間話をしたくらいだ。


 暫くすると、挽きたてのコーヒーの香りが漂ってきた。抽出口からポタポタと黒い雫が流れ落ち、白いカップが黒い液体で満たされるの待つ。私自身、豆を挽いたコーヒーを飲むのは本当に久しぶりだった。こんな機械が家にあったら、美味しいコーヒーが毎日飲めて良いのになぁ……と思いながら見ていると、全て抽出し終わった事を告げるランプが点灯した。


 私はコーヒーを溢さないように、カップを手に取って慎重に歩を進めると、「向かい側のソファに座って」と園真駅長に声をかけられた。目の前にある年季の入った黒いソファは、表面の皮がひび割れており、裏地の糸が表に出ているのが見える。私はジンジンと疼く肛門の痛みに気を遣いながら、ゆっくりと腰を下ろした。


「失礼します――おわっ!?」


 一見、固そうだと思っていたソファに腰掛けてみると、思っていたよりも柔らかくて驚いてしまった。持っていたコーヒーカップが斜めに傾き、中身が溢れそうになる。粗相をしないよう慌ててカップを持ち直すと、熱々のコーヒーが手にかかってしまい、私は飛び上がりそうになった。


「思ったよりふかふかやろ? 初めてそのソファに座る人は皆、びっくりするねん」

「はいっ、そうですねっ! とっても驚きましたっ!」


 わざと明るく振る舞ったお陰で、園真駅長に手を火傷した事はバレる事はなかった。しかし、今日一日で肛門と手に痛みを負う事となってしまった。


「そのコーヒーな、美味しいって評判やから一回飲んでみて」

「はい、いただきます」


 私は火傷しないように気を付けながら、コーヒーを飲んでみた。最近、自販機で売られている缶コーヒーばかり飲んでいたので、久しぶりに挽きたての豆の香りを感じ、自然と笑みが溢れた。


「これ、喫茶店と同じ味がします!」

「せやろ。皆、美味しい美味しいって飲みに来るねん」


 園真駅長はニコニコと微笑みながら、グラニュー糖とミルクポーションをコーヒーに投入し、プラスチック製のマドラーでかき混ぜていた。


「最近はどうや? 駅の仕事は面白いか?」

「はい。やりがいはありますけど、最近は大変な事の方が多いですね」


 私は正直な気持ちを吐露した。実際、昨日は酔客の対応に追われ、今日は不正乗車した少年達を捕まえたところだ。なかなか起こらない事が立て続けに起こってしまい、正直にいうとストレスは溜まっている。


 私の反応を見た園真駅長は、「そうか」と微笑んでいた。


「大熊は将来、この会社で何をしたい? このまま暫く駅員の仕事を続けるか、ゆくゆくは乗務員を目指すのか。乗務員を経て指導車掌の資格をとるのか、運転師を目指すのか。道はたくさんあるわけやけど、目標は何か決まってたりするんか?」


 園真駅長の言葉に私は目が丸くなった。まさか、進路を聞かれるとは思ってもおらず、「うーん、そうですね……」と数秒悩んだ。


 これは雑談という名の進路相談? 私が望めば、希望のポストへ配属してくれるのだろうか。いや、だからといって畑違いの人事部に配属でもされてしまえば、毎日パソコンと睨めっこしなきゃいけなくなる。そんなのは性に合わないし、絶対に嫌だ。私は現場がいいんだ――強くそう思った私は、現場で働き続けたいという思いを伝えようと、膝の上で軽く拳を握った。


「私は乗務員採用なので、ゆくゆくは乗務員として活躍したいです。それからの事はまだ具体的に決めていませんが、事務仕事はしたくないので、この先もずっと現場で働き続けたいと思ってます」


 目に力を込めて力説をすると、私の気持ちが伝わったのか園真駅長は大きく頷いていた。


「そうやな、大熊君は現場の方が似合うやろうな。第一、パソコンと睨めっこしてるイメージ湧かへんし、僕も現場の方が好きやもん」


 園真駅長は少し冷めたコーヒーに口をつけた。どうやら甘党でもあるが、猫舌でもあるらしい。私も真似るようにコーヒーに口を付けた。


「やっぱり美味しいですね」


 お世辞抜きで飲んだ後に感嘆の溜息が出る程、このコーヒーは美味かった。それを聞いた園真駅長は最近見た笑顔の中でも、一番の笑顔を見せてくれた。


「やろ? これ、僕のオリジナルブレンドやねん。こう見えて、昔は喫茶店開くのも夢やったんやで。駅の近くに喫茶店作って、朝から酒が飲めるようなモーニング作ったら、駅員は喜ぶしな。でも、僕の夢の為だけに家族を巻き込むわけにはいかんし、毎日必死に働いてたら、いつの間にか駅長になってたわ」


 そう言って園真駅長は笑っていたが、駅長まで昇り詰めるのはほんの一握りの人間だけだ。必死に働いただけでなれるものではないと私は感じていた。


「そういえば、園真駅長は来年定年ですよね? 定年後は何をなさるか決めてるんですか?」


 世間話を交えてくださったお陰で親近感が湧いた私は率直に聞いてみた。私達とは違って、退職金は桁違いに貰えるだろうから、奥さんと一緒にゆっくりとした時間を過ごすのか興味があったのだ。


「僕? 僕は有難いことに心身共に不自由なく仕事をこなしてきたし、ゆっくりするのもいいかなぁーと思ったけど、ジッとしてるのも性に合わんしなぁ。定年退職しても働こうと思ってるんや。うちのグループ会社に出向して、駅の清掃員とかやってみようかと思ってるねん」

「夢だった喫茶店はされないんですか?」

「接客は好きやし酔客も慣れてるけど、喫茶店は趣味がいいと思ってな……」


 園真駅長は一瞬言い淀んだが、身を乗り出して私に手招きをし、こっそり打ち明けてくれた。


「ほんまはカミさんにもっと働けって言われたんや。水商売より安定的な職場で働けってな」


 そう言って、園真駅長はカラカラと笑った。


 一方の俺はプライベートであんな事があった為か、奥様と良好な関係を築けているのが羨ましく感じた。いつか私に大切な家族ができるのだろうかと思いながら、少し冷めたコーヒーを口に運んだ。


「そういえば、噂で聞いたんやけど。大熊君、彼女と別れたんやって?」

「んぐ……!?」


 不意打ちだった。まさかプライベートの事を聞かれるとは思わず、私は口に含んだコーヒーを噴き出しそうになった。昨夜、あれだけ騒いでいたのだ。駅長の耳にまで届いていてもおかしくはない。だが、このタイミングで突っ込まれるとは思ってもいなかったのだ。


「あはは……まぁ、そんな感じですね」

「でも、君はまだ二十六歳やろ? 若いんやし、付き合ってた彼女よりも良い人がこれから見つかるて。辛かったら周りに頼ったら良いし、なんなら僕も飲みに付き合うから、元気出せよ」


 まさか、園真駅長から直々に励ましてくれるとは思わず、私の為に時間を作ってくださって、有難いような申し訳ないような複雑な気持ちになった。


 私はコーヒーを一気に飲み干して、空になったカップを机の上に置いた。そして、ソファから立ち上がって、「また田園、歌いますね」と笑顔で言う。


「大熊君、良い声してるから頼むわ。今度は長渕剛の巡恋歌を歌ってくれ。これが笑って歌えるようになったら、良い酒を一本入れて皆で祝杯しよう」

「次のボーナスもアップですか?」


 少し元気を取り戻した私の顔を見て、園真駅長は「かもしれんな」と朗らかに笑っていた。

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