第8話 不正乗車した少年達②

「待てや、コラァッ!」


 私の怒号が駅構内に響き渡る。周りにいた大勢の人から注目を浴びる事になったが、鬼の形相で逃げた少年を追っていた為か、周囲にいた人達は空気を察して私を避けてくれた。


「フゥ……フゥ……あのクソガキ、どこ行ったんや」


 今日は土曜日だ。人も通勤ラッシュ並みに多い。

少年を見失った私は一度立ち止まり、辺りをキョロキョロと見渡してみる。すると、数メートル先にある支柱の近くで息を整えている少年と目が合った。少年は弾かれたように地下鉄へ繋がる階段の方へ逃げ出した。


「逃げるな卑怯者っ!」


 人の間をすり抜けるように走っていると、被っていた制帽が脱げた。それでも私は構わずに走り続けた。全ては駅員に生意気な態度をとった少年達に鉄槌を下す為に。不正乗車をした少年達が二度とこんな犯罪を働かないように。子供が悪い事をしたら、叱ってやるのも大人の役目なのだ。


「ハァッ……ハァッ……」


 走る度に見事に育ったビール腹がブルンッと揺れ動く。少し走るだけで、額から汗がだらだらと流れ落ちてきた。少年を捕まえる為に駅構内を全力で走り続けていると、手を伸ばせば届く距離までになった。


「いい加減……止まれやっ!」


 地下に降りる寸前で私は少年の服を掴んだ。少年が体勢を崩しそうになったので、怪我をさせないように羽交締めにする。身動きができなくなった少年は、「離せや!」と暴れ始めたので、米俵を運ぶ時のように少年を担ぎ上げると、面白いくらいに動かなくなった。


「ハァ……ハァ……お前らみたいなんはな、客って呼ばんのじゃ。今からお友達と一緒にまとめて説教したるからっ……ゲホッ。二度と不正乗車なんかすんなよ……警察に捕まって、ご両親を泣かせるような大人になったらあかん」


 息が上がって言葉が途切れ途切れになってしまった。野球をやっていた頃の自分なら、ここまで疲れ果てる事はなかっただろう。日頃の運動不足が顕著に現れていた。


 少年を担いだまま中央改札へ戻っている途中、腰の曲がったお婆さんが私の制帽を持って待ってくれていた。「駅員さん、頑張ってるねぇ」と労い、制帽を私の頭にかぶせてくれた。


「良い事をすればな、ちゃんと自分に返ってくるよ。それがすぐに帰ってくるのか、何年先か分からへんけど。絶対に返ってくるもんだよ」

「ハァ……ハァ……そうですね。お気遣い、どうもありがとうございます」


 私は笑顔でお婆さんにお礼を述べた後、少年を担いだまま駅事務室へ向かった。


◇◇◇


 不正乗車をした少年達を全員確保してから、三十分が経過した。時折、駅事務室の中から、「すみませんでした……」力無く謝罪する声が聞こえてくる。部屋に缶詰にされた少年達は、しっかりと獅戸係長に叱られているようだった。


「めっちゃ叱られてるな」


 隣にいた鳥谷が苦笑いした。


 獅戸係長は怒鳴らないタイプの上司だが、部下を叱る時はぐうの音もでないくらいに正論をぶつけてこられる。大人の私達ですら黙っている事しかできないのに、まだ二十歳も迎えていない少年達が反論する余地なんてないだろう。


「これに懲りたら二度とするなよ、わかったな」

「……はい」


 駅事務室から出てきた少年達は弱々しく返事をした。皆、目に涙の跡がある。どうやら、私達が思っていた以上に叱られたようだ。


 少年達は差額分の乗車賃を支払って改札を出た後、歩道橋へ向かってトボトボと歩いていった。一人の少年が、「ほら、俺が言ったやろ!? これはアカン事なんやって!!」と怒っている声が聞こえてきた。


 だが、本当にそう思っているのであれば、お前もするなよ……と、私は心の中で呆れたようにツッコんだ。


 改札にいた社員達は特に驚きもせずに少年達の後ろ姿を見送った後、通常業務へと戻っていった。駅で働いていれば、大なり小なりトラブルはつきものなので、これくらいのトラブルであれば現場はひりつかない。


「いやー、ほんま人騒がせな子達やったな。駅のホームに逃げられた時は肝を冷やしたわ」

「不正乗車する方が悪いねん。そんなんせぇへんかったら、今頃楽しく遊んでたやろうに」


 鳥谷が「確かにな」とポケットに入れていたハンカチで額の汗を拭いながら言う。腕時計で時刻を確認すると、終業時刻の10分前だった。これ以上のトラブルはないだろうと思っていた私だったが、獅戸係長がひょっこりと改札に現れたので、改札に立つ社員達はピリッとした空気に包まれた。


「大熊君、ちょっとこっち来て」

「えっ……私ですか?」


 私は内心、ドキッとした。もしかしたら、さっきの少年を確保した時のやり取りを見て、クレームが入ったのかもしれない。そうなったら定時では上がれず、鳥谷と飲みに行く事すらできないだろう。


 できれば、早く終わりますように――そう願いつつ、獅戸係長の後ろについて向かった先は駅事務室の更に奥にある駅長室だった。


「え、駅長室ですか?」


 私は顔が引き攣ってしまった。駅長室は用がなければ入る事が殆どない部屋なのだ。


「駅長がな、大熊君とお茶したいんやってさ」

「し、獅戸係長。なんでこんな物が駅長室に下げられてるんですか?」


 この場にそぐわない物を見て、本題に入る前に係長に質問してしまった。駅長室のプレートの下に吊り下げられていた物――それは喫茶店などでよく見かける『氷』と書かれたタペストリーだった。


 何故、こんな物が駅長室の前に飾られているのか疑問に思った私は、タペストリーに指をさして質問すると、獅戸係長は「駅長が趣味で喫茶店を始めたらしいわ」と教えてくれた。


「美味しいコーヒーを振る舞ってくれると思うから、リラックスして話してきてな」

「あ、あの! もしかして、さっきの件でご迷惑をお掛けしてしまいましたか!?」


 獅戸係長はキョトンとした顔になった後、フフッと笑い始めた。


「違う違う。そんな連絡なんて入ってないから、ビビらんでえぇ。あ、そうそう。さっきの一連の流れは、他の係長達と防犯カメラ越しに見せてもらったで。皆、腹抱えて爆笑しとったわ」

「え? 皆、カメラ越しに見てたんですか?」

「うん、園真駅長も見てたで」


 皆に見られていたとは思わず、顔がだんだん熱っていくのを感じる。私は恥ずかしくなって、最終的に黙り込んでしまった。


 そんな様子を見た獅戸係長は、「そうや、これ言っとこうと思っててん」と思い出したように声を発した。


「大熊に浣腸した子おるやん? あの子、浣腸した時に突き指したらしくて、ずっと痛そうに指さすってたわ」

「つ、突き指……」


 獅戸係長にそう言われるまで、私は今まで浣腸された事をすっかり忘れていた。一度お尻に意識を向けると、ズキズキと微かな鈍痛を感じるようになった為、できれば言わないで欲しかったと私は心底思ってしまった。

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