第3話 ヤオヤ発生

「おっしゃあ、終わったーー!」


 最終電車を見送った私は両手を上げて大きく伸びをした。ポキポキと背骨が小さく鳴ると同時に心も軽くなってくる。後は駅構内に人が残っていないかを見て回るだけだ。


「明日は十時過ぎに上がるし、地下街の飯屋でキンキンに冷えたビールを飲んでから家に帰るぞ〜!」


 最近のマイブームは、真っ白に凍ったジョッキに注がれたビールを一気に飲み干す事だった。駅員という仕事は、体力と精神がかなり削られる仕事だ。ゆえに仕事終わりに飲みに行く駅員は非常に多い。初めて仕事終わりに飲みに誘われた時は、朝からお酒を飲む行為に戸惑ってしまったが、今では私の生活に欠かせないイベントの一つになっている。


 私は明日の朝に食べるつまみの事を考えながら、ホーム沿いを機嫌良く歩いていた。明日は出汁の効いたおでんを食べるか、揚げたての串カツを頬張るか――散々悩んだ末に、私は老夫婦が営んでいる串カツ天狗という店に行こうと決めた。あの香ばしい香りと狐色の衣を想像するだけで、口の中に唾液が溜まってくる。


「よっしゃ! 明日は鳥谷も誘って飲みに行こうか――ッ」


 階段の裏を覗き込んだ瞬間、私は絶句してしまった。プラットホームに立っていた時は死角になっていて気が付かなかったが、ベンチの上で五十代くらいのサラリーマンが、スーツの上着を手提げ鞄にぐるりと巻き付け、それを枕代わりにして寝ていたのだ。


 私はガックリと肩を落とし、「ハァァ……糸魚川さんが言ってたのは、この事か」と手で顔を覆った。茹で蛸のように肌が赤くなっているサラリーマンは、私が側にいるにも関わらず、いびきをかいて熟睡している。この様子では、ちょっとやそっとでは起きないだろう。


「……よし」


 私はネクタイをキュッと締め直した。私は駅員なのだ。体調の悪いお客様を気遣わねばならない。それが例え、ベンチの上で爆睡している酔客であってもだ。


 気を取り直し、プンプンと漂う酒の臭いに私は顔をしかめながらも、サラリーマンを起こす為に手を伸ばした。幸いな事に、まだヤオヤは発生していない。このまま綺麗に何事もなく終われたら、両者にとっても万々歳だ。


「お客さん、もう終電は終わりましたよ」


 私は寝ているサラリーマンの肩を軽く揺すってみた。だが、起きる気配は全くない。むしろ、いびきは更に大きくなる一方だった。


「お客さん、もう終電終わってますよっ」


 今度はもう少し大きな声で呼びかけてみたが、起きる気配は全くなかったので、少し強めに肩を揺すり始めた。


「お客さん、起きて下さい! このままだとお家の人が心配するでしょ!? 早く起きて帰らないと、奥様に叱られますよ!?」


 サラリーマンの薬指に嵌められている年季の入ったシルバーリングを見ながら声をかける。私の必死な声かけが功を成したのか、ベンチで寝ていたサラリーマンが薄っすらと目を開けた。私はチャンスとばかりに声をかけ始めた。


「お客さん、本日の営業は終了しましたよ!」

「へ……もぉ、へいてぇん……?」


 強烈な酒の臭いに、私は思わず息を止めてしまった。ここまで呂律が回らない声を聞いたのも久しぶりで、どれだけ飲んだのか分からないが、最低でも一升瓶は空けてそうな気がした。


 できれば鼻を摘んだままの状態で喋りたかったが、嫌な顔を一切見せずに私はお客様対応を続けていた。


「そうです、閉店です! さぁ、早く立ってください! 電車はもう走ってないので、タクシーに乗って帰ってくださいね!」


 そう言ってみたものの、こんな泥酔状態ではタクシーの運転手も嫌がって乗せてくれないだろう。だが、私の仕事は駅構内に人が残っていないかを確認する事だ。その後の事はこのサラリーマン自身の問題なのである。


「いや……もうすこしねかせてぇな……」


 サラリーマンが背を向けようとしたので、私は慌てて声をかけた。


「駄目です! さぁ、早く帰りましょう!」

「うるっさいなー、ねかせろやぁー」

「あっ、ちょっと! 今、寝返りを打ったら駄目ですってば!」


 サラリーマンが私の静止を聞かずに寝返りを打った――これがまずかった。


 ドチャッ! という聞き慣れない音がした。反射的に目を背けた私は、恐る恐る自分の足元へ視線を向ける。サラリーマンはバランスを崩してベンチから転げ落ち、地面とキスをしたまま動かなくなっていた。指一本すら動かない所を見ると、痛みを感じる間もなく、眠ってしまったのかもしれない。


「あぁ、もうっ! これやから酔客は嫌いやねん!」


 私は久々に苛立ってしまった。明日は休みだから羽目を外したのかもしれないが、周りに迷惑をかけないようにするのが社会人だろう。いい年してこんな若造に介抱してもらうなんて、酔いがさめたらどんな気持ちになるのだろうか。


「とりあえず、鵜野さんに報告して、対応を決めるしかないかな……うん?」


 足元から低い呻き声が聞こえてきた。声がした方へ視線を向けると、サラリーマンが生まれたての子鹿のような状態の中、どうにか立ち上がろうとしていた。


「お客さん、大丈夫ですか?」


 起きてくれて良かった――そう安心したのも束の間の事だった。顔を上げたサラリーマンの眉間には深い皺が刻まれていた。赤い顔が更に真っ赤に染まり、肩をブルブルと震わせている。とりあえず、激怒しているという事だけは一目で理解した。


「お、おお……おまえ! いま、おれをベンチからつきおとしたなぁ!?」


 感情的になったサラリーマンは私に向かって指をさし、あらぬ疑いをかけてきた。一方の私はサラリーマンの口から出た言葉をすぐには理解できず、呆然とするばかり。口を開けたまま頭を下げる様子もない私を見て、サラリーマンは更に憤慨し始めた。


「だからぁ! いま! おれを! つきおとしただろぉ!」

「いえ、違います。私はただ、貴方を起こそうとしただけです」

「うそだ! おまえがおれを! つきおとしたんだ! ぜったいに、うったえてやるからなっ!」


 ほぼ真正面に顔を打ち付けたせいか、サラリーマンの前歯がほんの少し欠けていた。至近距離で怒鳴っているせいか、酒臭い息と無数の唾がこちらに向かって飛んでくる。本当は距離を開けたい所だが、私は怯む事なく毅然とした振る舞いを続けていた。


「私は突き落としてません。本当に貴方を起こそうとしただけなんです」

「じゃあ! かおがいたいのは、なんでなんだ!?」


 それは貴方が勝手に寝返りを打ったせいだと、言い返してやりたかったが、今はそんな事を言える状況ではなかった。サラリーマンは恨めしそうに私を睨み付け、文句をタラタラと言い続けている。しかし、私では話にならないと感じたのか、地面に落ちていた鞄とスーツに手を伸ばし、「もうええっ! おまえじゃ、はなしにならん! うえをだせ、うえを!」と喚き始めた。


「とりあえず、少し落ち着きましょう。話はちゃんと聞きますから」


 激昂したサラリーマンを相手に至極冷静に対応する私だったが、脳内では既にストレートパンチを三回は食らわせていた。暴力を振るわれたら、必ず警察に突き出してやる――そう心に決め、丁寧な対応を続ける。それでも、サラリーマンの怒りは収まらなかった。


「いいか!? おまえをけいさつにつきだしてやる! ぜったいに、つきだしてやるんだからなっ!」

「お客様の言い分は分かりました。とりあえず、ここから移動しましょう。話は上で聞きますから」

 サラリーマンの背中に手を添えて移動を促すが、手を振り払われてしまった。「さわるな、ボケェ!」とサラリーマンが後ろによろめいた瞬間、カッと目を見開いた。


「うっぷ……うっ……」


 さっきまで威勢の良かったサラリーマンが、その場から動かなくなった。顔色がみるみるうちに真っ青に変わっていき、震える手で自分の口を押さえようとしている。


 その仕草が何を意味するのか察した私は、すぐに距離を取ろうとした。しかし、サラリーマンも助けを求めて、片手を前へ出す。私が距離を取るように後ろへ下がれば、彼もゾンビのように一歩、二歩と距離を縮めてきた。


「ちょっ、こっちに来ないで下さい――どわっ!?」


 サラリーマンは途中で足がもつれたのか、こちらに倒れ込んできた。急な負荷に耐えきれなかった私は、サラリーマンと一緒に倒れ込み、後頭部と尻を派手に打ってしまった。


「あだだ……なんでこんな目にあってるんや」


 視界が軽く揺れている。軽い脳震盪を起こしたのか、暫く動けず、普段あまり見る事のない駅の天井をジッと見つめていると、小さな蛾が綿埃の付いた蜘蛛の巣に絡め取られて、動けなくなっているのが見えた。


「大熊、大丈夫か!?」


 隣のホームから鵜野さんの心配する声が聞こえてきた。

私は助けを求めて手を伸ばした。身動きが取れないのを見た鵜野さんが、血相を変えて鳥谷と一緒に階段を駆け上がっていった。


「二人共、早く助けてくれ。このままだと、俺は吐物塗れに――っ!?」


 起き上がったサラリーマンは、本格的に嘔吐えずき始めた。毛の生えた太い指の間から、ポタポタと胃液が伝い始めている。それを見た瞬間、全身から血の気が引いていくような感覚がした。


「いやいやいやいやっ、冗談キツいで!」


 柄にもなく、私は取り乱してしまった。靴や服の一部に吐物がかかってしまう事があっても、他人の吐物を顔面から浴びた駅員は殆どいない。というか、日本全国探してもいないだろう。


「ちくしょうっ、マジでふざけんな! 毎日、身を削りながら必死に働いてるのに、こんな仕打ちを受けてたまるかっ!」


 私は必死になって足掻いてみたが、手足をジタバタ動かした所で、現実は何も変わらなかった。


「うぅ……ゲポッ」


 大きなげっぷが出た時のような音が、真上から聞こえてきた。ヤオヤ特有の臭いが広がっていくのを感じる。汗ではない液体で、お腹の辺りが少しづつ濡れていくのを感じた私は、全身に鳥肌が立ってしまった。


「うわぁぁぁぁっ、待て待て待て!! 俺は便所ちゃうねんぞ!! 吐くなら、もっとええ場所があるやろっ!!」


 私はサラリーマンの下で暴れ続けた。このままやり過ごすか、訴えられる前提で力ずくで蹴り飛ばすか――もはや、二択に一択しか考えられず、数秒間考えた末、僅かに後者が優ってしまった。


 ゲロ塗れになりたくない。誰だってそう思うはずだ――自分を正当化するように言い聞かせた後、サラリーマンの胸倉を掴もうと手を伸ばした。だが、鳥谷が階段から駆け降りてきたので、私はパッと手を引っ込めた。


「鳥谷、早く退かしてくれ!」

「お客さん! とりあえず、移動しましょうか!」


 鳥谷はサラリーマンの両脇に腕を突っ込んだ。そのまま力ずくで移動させた直後、サラリーマンは四つん這いになったまま嘔吐し始めた。迷惑極まりない行動にも関わらず、鳥谷は「お客さん、飲み過ぎですよ!」と声をかけ、背中を摩り続けている。


 ゲロ塗れにならなくて良かったと安心した途端、全身の力が抜けてしまった。大の字に寝転がったまま天井を見つめていると、さっきまで蜘蛛の巣に絡まっていた蛾がいなくなっていた。


「大熊、大丈夫か?」


 肩で息をしている鵜野さんが、私の顔を覗き込んできた。私は寝そべったまま、「もう少しで、ゲロ塗れになる所でしたよ……」と力無く話すと、鵜野さんは「そうならんかったから、良かったやん」と手を伸ばしてきた。


 少し冷静さを取り戻した私は、差し出された手を掴み、ゆっくりと立ち上がる。頭と尻は少し痛んだが、その程度で済んで良かったと思った。


「あのお客さんに暴力は振るわれてないか?」

「はい。暴言とゲロは吐かれましたけど、なんとか無事です」


 私は汚れた制服を摘み、胃液が染み込んだ部分を見せびらかしながら言う。それを見た鵜野さんは労うように、私の肩に手を乗せてきた。


「今日はお疲れやったな。その制服は変えてもらえよ」

「そうします。あの、今すぐシャワーを浴びに行きたんですけど、ここに残ってた方がいいですかね?」

「うーん、そうやなぁ……」


 鵜野さんがサラリーマンの方を見たので、私も同じように視線を辿った。サラリーマンは背中を丸めながら、「いえにかえりたくない……」と落ち込んだ様子で、鳥谷に話していた。何があったのか聞き耳を立てていると、どうやら奥さんが浮気して出て行ってしまったらしい。


「成程。ヤケ酒ってわけか」


 鵜野さんの言葉を聞いて、何故か東京にいる彼女の顔が浮かんだ。関東の大学に通っていた時、友達に紹介してもらって付き合うようになったのだが、私の地元は大阪だったので、この鉄道会社に就職を決めた。遠距離になってしまったが、今でも定期的に電話をしたり、私の方から彼女に会いに行ったりしていた。


「うっ、うっ……おれがなにをしたっていうんだよぉ……」


 サラリーマンはおいおいと泣き出してしまった。

しかし、その寂しそうな背中を見ても、私は同情する事はできなかった。奥さんに浮気されて辛いという気持ちは理解できる。だが、仕事ばかりで家庭を蔑ろにしていたり、奥さんと適度にコミュニケーションを取っていなかったのではないだろうか――そう考えてしまう自分もいた。


「とりあえず、移動しませんか? 大熊も早く着替えたいでしょうし、僕はここを掃除してから戻りますんで」


 鳥谷の提案に私達は頷き、サラリーマンの側へ歩み寄った。胃の中が空っぽになって楽になったのか、ほんの少しだけ顔色が良くなったように見える。それでもまだ立てなさそうだったので、私は急いで備え付けの車椅子を取りに、駅事務室へと向かった。

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