第2話 最終列車のご案内
天王寺駅は大阪の主要駅に含まれる大きな駅だ。大阪市内を中心に円を描くようにレールが敷かれ、深夜0時を回った今でも多くの乗客を乗せて走っている。
プラットホームで大阪駅行きの最終電車を悠然と待ち構えている私は入社四年目の駅員だ。ホームに立っているだけなのに、梅雨独特のじめっとした空気が肌に纏わりつき、ベタつくような汗が止めどなく噴き出てくる。
噴き出た汗が一つにまとまって流れ落ちる前に、私はかぶっていた制帽を少し浮かせて、シャツの袖で額の汗を拭った。電車を待つ人達が黄色い点字ブロックからはみ出ていないかを確認した後、いつものように電車を待つ乗客達の観察を始めた。
ベンチの右端に座る若い男性はスマートフォンを両手で持ち、頭にヘッドホンを装着して、ゲームか何かに夢中になっている。真ん中に座る女性の顔は、ほんのりと赤い気がするが、左隣にいる男性としっかりとした口調で話していたので、今のところ問題はなさそうだ。
今日も無事に仕事を終われそうだと、少しばかり気が緩んだ私は、汗で張り付いたシャツの襟元を数回ばたつかせてみる。すると、シャツの内側から柔軟剤と汗臭さが混ざった複雑な匂いがしたので、私はあからさまに顔を歪ませてしまった。
「あっつ……早く仕事を終えてシャワー浴びたい。喉もカラカラやし、このままじゃ干からびてしまう。早く終わらへんかな――あだっ!?」
突然、誰かに左腕を叩かれた。驚いた私は慌てて左を向くと、上司の鵜野さんが顰めっ面で立っていた。
「う、鵜野さん!」
私は緊張で背筋が伸び、指先まで力が入った。鵜野さんは古株の社員だ。身長が180センチ近くある私よりも更に背が高く、いつも眉間に皺を寄せる癖がある為か、一部の女子社員からは怖がられている。しかし、鵜野さんは仕事に対しての熱量は他の社員よりも高く、トラブルが起こった時でも冷静に判断してくれるので、私が尊敬できる上司の一人でもあった。
「しゃきっとせぇよ、大熊。まだ勤務中やぞ」
「すいませんでした!」
私は勢いよく頭を下げると、かぶっていた制帽がずり落ちそうになった。慌てて制帽をかぶり直すと、鵜野さんは「ええよ」と朗らかに返事をした。どうやら、怒ってはいないようだ。
「ところでさっきの独り言、聞こえたで。そんな図体して干からびるとか笑ってまうやろ」
鵜野さんが私の腹を見ながら失笑した。「アハハ、確かに干からびるは言い過ぎでしたかね」と、少し気恥ずかしい気持ちになった私は、ぽっこりと出ている自分の腹の肉を摘んで苦笑いした。確かに鵜野さんの言う通り、今の私はお世辞にも痩せているとはいえず、縦に割れていた腹筋も今では見る影もない。
「いやー、入社当初は背も高くてごっついし、キン肉マンみたいな男が入ってきたなーって思ったけど、この会社に入って見事なビール腹になったな。今は名前の通り、ジャイアントパンダになったやん」
そう言って、鵜野さんはニヤついた。私はすかさず、「ジャイアントパンダは大熊猫ですから、漢字一文字足りませんよ」と、しょうもないツッコミを入れる。
「ハハハ、そんな細かい事はええやろ。今日は花金やし、酔客がようさん降りてくると思うわ。特に
ヤオヤとは鉄道業界の隠語で吐物を指す――鉄道業界で働いていると様々な事が起こるが、特に身近なのはヤオヤだった。
鵜野さんは真剣な表情で続けた。
「とりあえず、次に来る電車が最終や。俺は隣のホームに立つ鳥谷を見てくる。駅構内に人が残ってないか確認を怠るなよ」
「はい、わかってます」
鵜野さんの言葉に私は神妙な面持ちで答えると、電車接近を知らせるチャイムと自動放送が流れ始めた。暗闇の奥で先頭車両に付いている前照灯が、小さく二つ光っているのを視認する。私は鵜野さんに軽く頭を下げ、電車が一定の距離まで近付いた所を見計らい、携帯していたワイヤレスマイクを手に持った。
「お客様に最終列車のご案内をいたします。環状線内回り、鶴橋・京橋、大阪方面行きの最終列車は、十一番乗り場から発車いたします」
駅構内に私の声が響き渡った。ホームに立って間もない頃は、大勢の乗客の前で放送するのが恥ずかしくて、ボソボソとした喋り方になっていたが、今では多少噛んでしまっても、平気なくらいのメンタルは身に付いたと思う。やはり、何事も経験が大事だ。
私はマイクを少し離して軽く咳払いをする。少しすると、オレンジ色に塗られた車体が、電車接近を知らせるメロディと共に駅構内に進入してきた。
足元がガタガタと振動し、湿気をはらんだ列車風を全身で感じる。関西鉄道株式会社に入社してから四年目の夏を迎えるが、こればかりは今でも慣れなかった。
「環状線内回り、鶴橋・京橋、大阪方面行きの最終電車です。電車間も無く到着です。お乗り遅れのないようご注意ください」
私はホームに立つ人達と速度を落として近付いて来る電車、両方に目を配った。先頭車両が徐行運転をしながら、停車位置にピッタリに停車し、『扉が開きます、ご注意ください』の放送後、八両編成の扉が一斉に開き、大勢の乗客が降りてきた。一部の乗客は顔から首にかけて真っ赤に染まってはいるが、足取りはしっかりしている印象を受ける。急病人もいなさそうだと判断した私は、本日の最終列車が停車中である事を強調するようにアナウンスを始めた。
「本日の最終列車です! お乗り遅れのないようご注意ください! 大阪方面行きの最終列車が発車いたします!」
私の放送を聞いた数人の若者達が階段から駆け降りてきた。その人達が電車に乗り込んだのを確認し、私は車掌に向かって合図を送る。
「……あれ? 今日の車掌は糸魚川さんか?」
全ての扉が閉まり、電車がゆっくりと動き始めた頃。乗務員室の小窓から小さく手を振ってくれていた車掌が、天王寺駅で一緒に働いていた糸魚川さんだと、私はようやく気が付いた。
糸魚川さんは私より二つ年上の先輩で、仕事終わりによく飲みに行くメンバーの一人だった。半年程前に車掌試験に合格してから研修センターへ入り、指導車掌の元で見習いを終え、最近独り立ちしたとは聞いていたが、仕事中に顔を合わせるのは今日が初めてだった。
「糸魚川さん、お疲れ様です!」
私はにこやかに手を振って応えた。すると、糸魚川さんがすれ違い様に「この後、頑張れよ!」と声を張り上げた。私も負けじと、「はい、最後まで頑張ります!」と返事をしたのだが、糸魚川さんの言葉が何を指すのか、私はまだ理解できていなかった。
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