第4話 不吉な予感

 駅事務室に戻り、私の格好を見た獅戸係長は何があったのか、大体を察してくれた。周りにいた社員達は遠巻きに私の姿を見て驚いていたが、係長は何も動じずに「大変やったな」と労いの言葉をかけて、椅子から立ち上がった。


「――以上の経緯があり、鵜野さんにお客様の対応をお願いしました。お客様も気分が良くなったのか、意識もハッキリされてきてましたので、駅事務室で休んだ後にお帰りいただく事になりそうです」

「今日はご苦労さんやったな。ところで、大熊。制服のサイズはなんぼや? Lか? XLか?」


 獅戸係長が私の立派に育ったビール腹を見ながら聞いてきた。「ギリギリLサイズです」と答えると、獅戸係長は自分の予想と違ったのか、ほんの少しだけ首を傾げていた。


「Lか。新しい制服は事務員に申請しとくから、明日は予備の制服を使ってくれ。明日も早いから早く寝ぇな」

「ありがとうございます、お疲れ様でした」


 一通りの報告が終わって頭を下げた後、私は二階にある男子更衣室へ向かった。腕時計を見てみると、時刻は深夜一時を過ぎていた。既に仮眠室で寝ている人達がいるが、一刻も早く汚れた服を脱ぎたかった私は、なるべく音を立てないように小走りで階段を駆け上がる。


 男子更衣室は廊下を右に曲がってすぐの所にあるが、私は扉の前で立ち止まった。部屋の中からスマホで写真を撮る時に聞こえるシャッター音が、何度も鳴り響いていたからだ。


 きっと、あの二人やな――そう思った私は扉の前まで近付き、静かにドアノブに手をかける。ノックもせずに扉を勢いよく開け放つと、私の予想した通り、入社同期の象島と虎杖がいた。


「びっくりした……お疲れ、大熊」


 片膝を着いてしゃがんでいた虎杖は、猫のような丸い目を更に見開き、持っていたスマホを落としそうになっていた。まだシャワーを浴びてないのか、日に焼けて赤くなった鼻が脂汗で光っている。一方の象島は特に驚く様子もなく、赤いボクサーパンツを履いたまま、ボディビルダーがやるようなポージングをして立っていた。


「お疲れ。いやー、最後の最後で一気に疲れたわ」


 私は持っていた制帽を団扇のようにして扇ぎ、そのまま自分のロッカーへと向かった。ネクタイを緩め、シャツのボタンを一つずつ外していくと、緊張の糸が切れたのか一気に眠気に襲われた。


「その跡……もしかして、客にゲロ吐かれたんか?」

「せやねん。ベンチで寝てる客を起こそうとしたらこれや」


 象島は私の汚れた制服をジッと見て、「避けられへんかったんか?」と聞いてきた。


「酔客が倒れてきて、身動きとられへんかったんや」


 私は制服の裾をパンツから引き出し、胃液で濡れた部分を二人に見せびらかすと、げっ……と引いたような表情に変わった。


「他人のゲロを浴びるとか最悪やな」

「ほんまにな。でな、そのお客さんが酔い潰れた理由が、奥さんに浮気されてヤケ酒したからやねんて。ベンチで爆睡してるわ、怒鳴り散らされるわ、吐かれるわで、ほんま迷惑なお客さんやった。けど、鵜野さんと鳥谷がおらんかったら、これだけではすまんかったな」


 私は自分のロッカーを開き、疲れた表情でシャツのボタンを外した後、汚れた制服を脱いでビニール袋に丸めて入れた。ゴミ箱へ捨てたい所だが、貸与された制服は会社で管理されているので、どれだけ酷く汚れていても必ず返却をしなければならないのだ。


 私は臭いが漏れないようにビニール袋の口を軽く結ぶと、中から酒の匂いと胃液が混ざった悪臭が漂ってきたので、数秒間だけ息を止めてしまった。こういう時、飲食後でなくて良かったと思う。でなければ、こちらまで気分が悪くなって、トイレへ駆け込んでいたはずだ。


「そういえば、シャワーを浴びずに二人で何やってたん? ここ狭いし、鵜野さん達も着替えるやろうから、あんまり長居せん方がいいと思うんやけど……」


 汚れた服を脱いで一段落した私は、象島達の行動に疑問を投げかけると、二人はよくぞ聞いてくれました! と言わんばかりに、満面の笑みを浮かべた。


「実は明日、合コンやねん! 俺、ラグビーでこの会社入ったやろ? やから、女の子達に俺の鍛え上げた筋肉を見せてやろうと思ってな!」

「合コン? もしかして、うちの社員と合コンか?」


 私が聞き返すと象島が「それはない!」と断言し、手を左右に振った。


「うちの社員と合コンなんて絶対にやらんし! 同じ職場の子と付き合ったら世間狭いから、すぐにいろんな人に知れ渡るやん! 明日は、鉄道病院の看護師と合コンやねん!」

「へぇ、看護師か。俺達は不規則な仕事やし、一緒に遊ぶってなったら予定日合わせやすいからいいやん」

「そやねん。だから、明日は特に楽しみなんや。大熊も良かったら来る? 一人増えても問題ないやろうしさ」


 虎杖の誘いに私は少しだけ迷った。しかし、付き合っている彼女の存在を思い出した私は、「彼女おるからやめとくわ」と断りを入れた。


「せやった、大熊は彼女おるんやったな。にしても、ほんま一途やな。付き合って何年になるん?」

「大学三年から付き合い始めたから、もう五年くらいやな」

「へー! じゃあ、結婚も視野に入れてんの?」

「そのつもり。今月の給料で貯金が目標金額に達成するから、プロポーズも兼ねて彼女をこっちに呼ぶつもりでおる。ずっと、結婚したいって言ってたから、やっと叶えてあげられるわ」


 私は照れたように笑った。この会社に入社してから東京にいる彼女を大阪に呼び、プロポーズするという目標を掲げて必死に働いていた。


 特に来年は車掌試験を受けようかと思っていたので、会社の研修には積極的に参加し、ついでに二次会のカラオケでは、駅長が大好きな『田園』を熱唱した。すると、私の努力が功を成したのか、評価はB+からA+に上がり、冬のボーナスが二万円もアップしていたのだ。


「じゃあ、大熊が結婚一番乗りやな! 結婚式は絶対に呼べよ? 虎杖と一緒に二次会を盛り上げたるわ!」

「当たり前やろ。お前ら二人は絶対に呼ぶわ」


 私は革ベルトを外して制服のパンツを脱ぎ、着替え一式とタオルを鞄の中から取り出した。シャワーを浴びに行こうかと思ったが、鞄に入っていたスマホに指が触れてしまい、数十件以上の新着メッセージありというお知らせが表示される。


 この時点でいつもと違う事に気付き、私は何故か不吉な予感がした。

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