第15話

桜子が連れてこられたクラブは、地下にあった。

池袋の細い路地を進んだ先で階段を降りる。

一人だったら絶対に進まない場所だ。

エリカが先頭、夏音、桜子と続いた。

扉を開けて大音量のベースが聞こえた時点で嫌な予感がしたのだ。


「最悪や」

「えー? なに?」


ドンドンと身体に響く低温。

何をつぶやいても、自分の呟きさえ遠い。

そこはもう混沌だった。

四方八方から様々な感情が行き交う。避けるのが難しく、夏音の後ろで縮まっているのが1番楽だった。


「自分が来たかっただけやないん」


夏音は桜子を背中に起きつつ、様々な人と会話をしている。

一言で終わる人もいれば、話し込む人もいた。

表情は楽しそうで、桜子は少しばかり頬を膨らませた。

かと言って、知らない人と話す気も起きず、ちびちびとグラスからノンアルコールカクテルを飲む。


「まぁまぁ、保護者がとられたからって拗ねないでさ」

「拗ねてへんし」


エリカがこちらも楽しそうに、桜子の隣に来た。人が多いからか距離が近い。肩と肩が触れた。

後ろには数人の男共がいる。

どれもこれも桜子には縁のないタイプの男だった。


「なになに、エリカちゃんの友達?」

「格好は地味だけど、可愛い顔してるじゃん」

「お嬢さんっぽい」


グイグイ来る。

カタテに発泡する黄金色の液体を持っている。ハイボールだろう。

酔っているからか感情も明け透けで、桜子は一歩引く。と、その隙間にエリカが滑り込んできた。


「ちょっと、この子人見知りだから、あんまり絡まないの」


ニッコリ、エリカが極上の笑みを零す。

その瞬間、男たちから一斉に情慾に塗れた言葉と色が溢れ出す。


「うわ」


気持ち悪。男の生理現象は知っていても、目の前でこうも見せられると嫌になる。

エリカは分かって煽っているようで、桜子の耳に顔を寄せた。


「その反応、外れね」

「わかっとるんなら、こっち連れてこんで」


「しっし」と手で払う。

良い男かどうかの嘘発見器のように人を使わないで欲しい。

気づけば夏音とは距離ができていた。

エリカは桜子の反応に気を悪くした様子もなく、肩を竦める。


「はいはい。そろそろ呼ばれると思うから夏音を呼んでおいてね」

「えー……めんど」


エリカのせいで見失ったのに、自分が探さないと行けないのか。

桜子は唇を尖らせる。

エリカは膨れた桜子に向かって、人差し指を立て自分の口に当てた。


「お仕事よ、お仕事」


嫌味なくらいそういう仕草が似あう。

ため息をこぼしたが、大音量に紛れて全く聞こえなかった。


「エリカちゃん?」

「ごめん、ごめん。飲み物なくなったから、あっち行こ」


情欲塗れの男がエリカの肩を叩く。

知っているだろうに、エリカは顔色一つ変えない。

そつなく社交をこなすとは、こういうことを言うのだろう。

桜子はエリカと男たちを見送った後、自分の飲み物を一口飲む。それから周りを見回した。


「大崎さん、探さな」


とはいえ、夏音はすぐに見つかった。

女の子ばかりに囲まれている集団を見つければよかっただけだ。

ハーバリウムのキーホルダーをつけた鞄を見間違えるわけもない。


「あはは、ほんと?」


前にも、こんな場面をどこかで見た気がする。

夏音が愛想よく笑っているのをみて、桜子は額に手を当てた。


「そうだよー、夏音ちゃんもしてみなよ」

「えー、どうしよっかなぁ」


会話に入るタイミングを探していたが、話が途切れることはない。

夏音の傍にいると悪意が勝手に弾かれる。

このまましばらく休んでいこうかと思い、桜子の頭にエリカの顔が浮かんだ。


「大崎さん、そろそろ呼ばれるみたいやで」

「あ、桜子ちゃん。わかったぁ」


桜子は頭の中のエリカに怒られないように、夏音に声をかけた。

エリカは怒ると怖いのだ。

仕事に真面目で、硬すぎる。私生活はそうでもないくせに。

すみれの真似をするなら、不真面目さも見習ってほしい。


「えー、夏音ちゃん、もう行っちゃうの?」

「うん、呼ばれるみたい。また今度ね」


名残惜しそうに手を振る女の子たちと、笑顔で振り返す夏音。

まるでファンと有名人みたいやなと桜子は思った。


「仲良さそうやったなぁ」


少し端による。

夏音と合流したら、今度はエリカを探さないといけない。

店内を見回すもそれらしき姿は中々見つからなかった。


「そう? 女の子と話のは好きだよ」

「名前まで呼ばれて、あっちも教えてくれたん?」

「あー、教えてくれた気はするんだけど」


夏音が言葉を濁した。

続かない話に、桜子はエリカを探していた目を休め、隣を見る。

頭に手を当てて苦笑している夏音の姿があった。


「まさか、覚えてないん?」

「興味ないと覚えられないんだよね」


びっくりした。

あんなにも仲良く話していたのに、どうやら夏音は相手の名前を憶えていないらしい。

人懐っこくて、友達になるのが上手い癖に、人間関係への執着が薄い。

いや、どこでも上手くやれるからこそ、執着しないのかもしれない。


「たまに大崎さんが恐いわ」


桜子はぽつんと呟いた。

自分とは反対の存在ーー夏音が遠く感じた。


「それ!」

「え?」


少し顔を俯かせた桜子の視界に入り込むように、夏音が桜子の肩を掴む。

それ、と言われてもピンと来ない。

桜子は首を傾げた。夏音の顔がさらに曇る。


「一回、夏音って呼んでくれたんだから、名前で良くない?」

「えぇ?」


クラブでも聞き逃さないほど、はっきり言われた。

今更それを言うのかと桜子は目を瞬かせた。

呼び名には頓着しない性質なのかと思っていたのだ。


「呼んだことなんて、ありましたっけ?」

「あるよー!」


すぐさま帰ってきた言葉に、桜子は腕を組み、顎の下に手を当てる。

大崎夏音。

最初に会って、名前を知った時から大崎さんと呼んでいるつもりだった。

ヒントを貰おうとしたとき、桜子と夏音の間に黒い影が落ちた。


「失礼ですが、星見さまと大崎さまでしょうか?」

「……そうですが」


押し黙った桜子の前に夏音が立つ。

黒いスーツを着た男はがっしりとした体格で、ウェイターというより、用心棒と言われた方がしっくりとくる風貌だった。


「奥で東條さまがお待ちです」

「エリカが?」


奥がVIP席を指している。

桜子と夏音は顔を見合わせた。

元々行く予定の場所だ。エリカは先に行ってしまったということだろうか。


「行こっか」

「……そうやな」


夏音が静かに言って、桜子も頷いた。

先導する男の背中についていく。


「あっ」

「桜子ちゃん、大丈夫?」


暗がりに足を取られたふりをしてしゃがみ込む。

すぐに夏音が肩を支える振りをしながら、桜子に囁いた。


「おかしくない?」

「あんさんもそう思う?」


視線だけで黒服を見る。

エリカは能力が高いが、元々打ち合わせていたことを勝手に破ったりはしない。

何だかんだ面倒見が良いし、ルールを守ることにこだわるからだ。


「エリカちゃんは、一人だけで先に行かないと思う」

「やな」


行かざるを得なくなったか、連れていかれたか。

どちらにしろエリカにしてはあり得ない行動だ。

夏音がそう思っていることを知れてよかった。

桜子が頷いたところで、黒服が近づいてくる。夏音の手を借りてゆっくりと立ち上げった。


「大丈夫ですか?」

「すみません、こういう場所に慣れなくて」


桜子は転んだことを恥ずかしがる振りをして頬を掻いた。

わざとゆっくりと歩く。

VIP席は確かに他とは違う雰囲気だった。

フロアが飛び交うならば、ここは感情が沈殿している。


「こちらになります」

「ありがとうございます」


扉の前に立つ。

マーブルの扉に金字でVIPと書いてあった。

黒服が扉を開けてくれて、桜子と夏音は中に足を踏み入れる。


「あー、やっと来た!」


奥から明るい声が上がった。

元気そうな様子にほっとして、桜子は顔を上げーー固まった。


「え、りか?」

「エリカちゃん?」


エリカの姿形に変わりはない。

ただその顔には満面の笑みが浮かんでおり、桜子の目には渦巻くような黒とエリカの感情が見えた。

良くない。これは、良くないものだ。

背筋をを冷たい雫が伝っていく。


「待ってたわよ」


笑顔とともに、手が振り下ろされる。

風が密閉された室内に吹いた。

エリカの能力ーーどうやら、認めざるを得ないようだ。


「大崎さん、これはエリカやないで」

「ええっ? なんか、確かに変だけど」


桜子は生唾を飲み込み、身構えた。

エリカの風に対抗できる手段がない。

人を飲めるほどの悪意を操るには操作する人が必要だ。

恐空が近くにいる。そちらを抑えなければならない。


「悪意に飲まれた人間ってのが、どうなるか、よーく見とき」


桜子はとにかく足を動かすことにした。

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