第11話


自販機の横、落書きとしか思えないマークが描かれている。

人の多い通りから、一本中に入った道。

桜子と夏音が並んで歩くには難しい幅だ。

自販機の前で雑談している風に見せながら、桜子はマークに触れた。

冷たい金属の感触とともに、映像が流れ込んでくる。


『あー、マジムカツク』

「っ」


キンと金属同士をぶつけたような音が響き、桜子は顔をしかめた。

ハッキリとした強い感情だったが、それだけ。

メッセージや悪意を増幅させるような何かは含まれていない。

ゆっくりと手を離す。すーはーと大きく深呼吸したら、秋の匂いが漂っていた。


「ここも外れ」


桜子は額を拭う。

汗が出るほど暑いわけではない。が、とうにも嫌な気持ち悪さがとぐろを巻く。

自販機に手をついたまま、しばらく動けずにいた。


「大崎さん、次は?」


自販機の近くで待っていてくれた夏音に尋ねる。

じっとこちらを見る瞳は、どこか気遣わしげで、桜子は気づかない振りをした。


「次は池袋の方だよ」


紙とスマートフォンのアプリを突き合わせる。

強い悪意が観測された大まかな場所が紙には書かれている。

それを地図アプリと照らし合わせるのが夏音の役目だった。


「じゃ、移動やな」


外に出ることが多いのだろう。

複雑な小道も迷うことなく進んでいく。

ついていけば良いというのは楽だった。


「うん」


夏音が何度か口を動かす。

何か言いたいことがあると、見えなくてもわかる。

頷きの一言さえ、ガーゼに包まれたようでむず痒い。

桜子はくるりと背を向ける。


「桜子ちゃん、大丈夫?」

「大丈夫や」


歩け、歩け。ふらつくな。

自分に言い聞かせる。

感情が問答無用で見える桜子にとって、触れるという行為は刺激が強すぎた。

流し込まれる他人の感情にひどく疲れる。


「その、触って読むのって、すごく疲れるって聞いたよ」


夏音が桜子の歩幅にあわせて、横を歩いている。

時折、身体を屈めて顔を覗き込んでくるので、桜子はぷいと子供のように顔をそらすしかなかった。

人の多い大通りに出る。

紛らわすように、桜子は答えた。


「うちにできるのは、これだけやから」

「桜子ちゃん」


人が行きかう通り、足を止めた夏音との距離が開く。

だけど、夏音はすぐに追いかけてきて、ふっと柔らかくほほ笑んだ。


「桜子ちゃんは、何が好きなの?」

「どうしたん? 藪から棒に」


男の人、女の人、派手な人、仕事帰りの疲労感をにじませた人。

それぞれが、それぞれの感情を周囲に飛ばしながら歩いている。

桜子はそのすべてを避けるようにして駅まで歩いた。


「わぁ、すみません!」


桜子ばかりを見ていた夏音が、人にぶつかって頭を下げている。

ぺこぺこと何度も頭を下げる。改札付近はちいさな駅でも混むものだ。

なんとなく足を止めて見守っていたら、夏音が小走りで桜子の隣に並ぶ。


「知らないなぁと思って」


当たり前のことを言う。と、桜子は思った。

夏音と出会ったのは、夏の終わり。まだ過ごす一か月も経っていない。

それでも他の同級生よりは、だいぶ内側に入れている自覚があった。

すぐさま電車が入ってくる。地下鉄ならではの風が髪を巻き上げた。


「私が好きなのは、人と遊ぶことかな」


どうやら、まだその話を続けるらしい。

ちらりと隣に立つ夏音を見上げる。

背は高いくせに、まるで子犬のような瞳が注がれていた。

はぁと小さく息を吐く。


「バイトもやろ?」

「バイトは必要だし、色んな人が見れて面白いんだよね」


滑り込んできた電車に乗り込む。

色んな人が見れて面白い。

まったく考えたことがない視点だった。

入口から中に進み、人が少ない場所に立ち吊り革を掴む。

桜子の身長だとほぼ腕は伸び切っている。


「うちとは反対」


その手から覗き込むように夏音を見て微笑む。

ほんとに、反対。反対すぎて笑えてくるくらいだ。

動き始めた電車の揺れが伝わる。


「うちは、人より数字の方が好き。何も言わんで、結果だけ見せてくれるから」


人がいるのが、世界なのだけれど。

すみれがいなくなってから、人と関わるのが更に怖かった。

反対に数字だけを見ればいい世界は楽だった。

夏音が口をつぐむ。


「池袋ー、池袋ー」


良いタイミングだ。

アナウンスとともに電車の速度が落ち始める。

ゆっくり大きく揺れて、収まる。窓の外には人の波ができていた。


「あ、降りな」


吊り革から手を離す。

出口へ向かい人が流れていくのを良く見て、自分も飛び込む。

人混みが夏音との距離を縮めたり、開けたりした。


「どこら辺なん?」

「えっと、池袋駅からサンシャインの方に移動して」


改札さえ出てしまえば人は方々へバラけていく。

その流れを邪魔しないように、端に避けながら地図を確認した。

夏音アプリの画面を出しながら、チラチラと顔色を伺ってくる。

頬に刺さる視線をそのままに、桜子はビルが立ち並ぶ右側を指さした。


「こっちか?」

「うん、そうだね」


夏音が桜子の指す方向と、地図、書類を見比べる。

あとは、同じ作業。恐空のマークを探すだけだ。

悪意が溜まる場所と言うのは、規則性があるらしく、似たような場所ばかり探していた。


「これやな」

「うん、そうだね」


今回は飲食店の前だった。

わかりやすく地面に記してある。子供の落書きにしか見えない。

この時代、人々が足元をみることも少ないだろう。

小さなカフェのようで、ありがたいことに定休日だった。

車が来ないことを確認してしゃがみこむ。呼吸を整えてから、手を伸ばした。


「っ」


ドンと衝撃が体を走った。

何かがぶつかったと思った。それは音の塊。重低音が圧力を持って襲ってくる。

その中で多くの人が騒いでいた。

感情が多すぎて、追いきれない。ハチャメチャな色の嵐に、桜子は目の奥が痛くなるのを感じた。

タバコの匂い。カウンターらしきものもある。

その奥、光の当たらない廊下の先に、それはいた。


「桜子ちゃん、桜子ちゃん!」

「クラブ……?」


はっとする。夏音の声に現実に引き戻された。

わかったことは少ない。

だが、今までのマークとは明らかに違う。

それにーー最後に見えた悪意の塊は、すべてを吸い込むような闇になっていた。


「何か見えたの?」

「探さな」


しゃがみこんでいたらしい。

肩に置かれた夏音の手に、お礼を言って立ち上がる。

ふらりとしたが、歩けないほどではない。と、思っているのは桜子だけのようだった。


「桜子ちゃん!」

「大丈夫やって」


進もうとした腕を夏音に引っ張られる。

二の腕を掴む形は夏音の意志の強さを感じた。手のひらの熱さえ伝わる。


「大丈夫じゃないよ」


じっと桜子を見る夏音の瞳は、見たことがないくらい真剣だった。

しばらく視線をぶつけあい、折れたのは桜子。

笑顔じゃない夏音に根負けしたのだった。



連れてこられたのは、自分のマンションだった。

夏音に家の場所を教えたのは失敗だったかもしれない。

ベッドに子供の様に寝かしつけられながら、そんなことを思い浮かべる。


「桜子ちゃんは、ここで寝てて?」

「大丈夫やって」

「ダメ。そんな青い顔してる人が動くのは禁止です!」


夏音は池袋から、ずっと怖い顔をしている。

笑っているイメージが強い分、そういう顔をされると調子が出ない。

ただ感情に酔っただけだ。しばらく休めば回復する。

そう伝えても暖簾に腕押しだった。


「私が探すから!」

「あんさんが?」


そして、状況を伝えたら、この調子である。

桜子は腰に手を当てて仁王立ちしている夏音に目を見開いた。


「クラブでしょ? 好きな友達とかは多いし」

「でも、見ることもできんやろ?」


こてんと首を傾げれば、夏音の茶色い髪が肩を滑っていく。

彼女の人脈の広さを考えれば、伝手は多いだろう。

だが、夏音だけでは対処もできない。


「見えないけど、怪しそうな場所探すくらいは出来るから」


夏音にもその自覚はあるのか、あくまで桜子の見た場所を探すだけだという。

この東京に、いったい何個のクラブがあると思っているのか。

池袋周囲だけでも相当数あるだろう。

桜子は額に手を当てた。


「変なとこ、強情」

「桜子ちゃんには負けるよ」


止める気配はない。だとすれば、お守りが必要だ。

言うかどうか迷っていたことを切り出す。


「……エリカと一緒に行ったら、ええ」


癪だけれど、どうしても桜子を置いていくというなら、エリカを連れて行って欲しい。

仕事のことになれば飛んでくるだろう。

夏音が目を何度か瞬かせた。


「エリカちゃんと?」

「あれは祓うのに特化しとる。見るのは鈍くても、お守りにはなる」


「それに」と桜子は付け加えた。

クラブと言う場所に、桜子はとんと寄り付かない。だが、エリカは違う。


「クラブは、エリカの得意分野やろし」

「え、そうなの?」

「行くと男がわんさか寄ってきて、お金を払ったことがないらしいで」

「うわー……似合う」


あの容姿で、お酒も強い。

クラブで話を聞くならうってつけの人材なのだ。

呆れと尊敬を半々にした夏音の言葉に、桜子は口角を引き上げる。


「やろ?」


ベッドの上で、夏音を見送る。

窓から涼しい風が差し込んできて、桜子は窓を閉めた。

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