第9話

桜子がマンションを教えてくれたのも、こうなることを予想していたからだろうか。

夏音はミナカのマンションよりは小さい、それでも自身が住んでいる部屋とは数倍家賃が違いそうなマンションを見上げた。

部屋の前でインターフォンを押し、鍵を開けてもらう。

やましいことは何もないのに、ドキドキした。


「桜子ちゃん!」


部屋の番号を確認してから中に入る。

高級なマンションの廊下は生活感がない。

音もしなければ匂いもない。本当に人が住んでいるのか不安になる。

玄関で名前を呼べば、ひょこりといつも通りの桜子が姿を表した。


「おー、おかえり。どうやった?」


廊下に桜子が立っている。

それだけで、さっきまでの人気のなさが消える。

夏音は急いで靴を脱ぎ、桜子のそばに寄った。


「桜子ちゃんの予想通りだけど」


夏音は眉を下げる。

どこもかしこも、のぞみの話と桜子の占いが話題に登っていた。

桜子がいつもいる資料室にも人が詰めかけていたくらいだから、皆、暇なんだろう。

桜子は夏音を見るとため息を吐き出した。


「しばらく大学行くのは止めといたほうが良さそうやなぁ」

「読めたの?」

「顔に書いてあるで」


夏音は目を瞬かせた。とうとう自分のことまで読めるようになったのかと思った。

そうなったら喜んでいいのか、分からない。

それも顔に出ていたのか、桜子は肩をすくめるだけだ。


「まぁ、しばらく引き込もれるんなら、楽やわぁ」

「単位、大丈夫?」

「へーき、ヘーキ」


桜子はまるで明日のご飯がお米からパンになりましたくらいの気楽さで、手を振った。

経営学部の単位がどうなってるか、学部の違う夏音には分からない。

だが学生でありながら資料室にいるくらいだ。優秀に違いない。


「ミナカさんから連絡あってな」


桜子がミナカの名前を口に出した瞬間に、空気が変わる。

ピンと張り詰めた糸のような雰囲気に夏音の背筋も伸びた。


「やっぱり、普通の悪意やないらしいねん」

「普通じゃない?」


夏音は首を傾げた。

エリカとミナカのやり取りからも、見えていた。

普通ではない悪意というものがあるらしい。


「悪意の親玉が後ろにいるらしい」


悪意の親玉。

桜子が無表情に告げた言葉が廊下に響いた。



空が端から赤く染まっていく。

ビルの合間から差し込む光の眩しさに桜子は目を細めた。

秋の日はつるべ落とし。

赤が青になる前に帰りたいなぁと桜子は思った。

桜子の目の前で両手を腰に当て胸を張るエリカを見る限り、それは難しそうだったのだけれど。


「ということで、現場に行きます」

「はいはい」


場所は事故現場最寄りの駅前だ。

地下鉄の改札を出て、目的の出口を出る頃には、人通りは大分少なくなっていた。

入口を塞がないように脇の柱の前に集まる。


「夏音は気分悪くなったりしたら、教えてね」

「ありがとう、エリカちゃん」


エリカの言葉に夏音は微笑んだ。

倒れた場所だから、無理しなくてよいのに。

唇を尖らせる。桜子は見れても守れない。

ギュッと握りこぶしに力を入れる。話をそらすように桜子は歩き出した。


「ミナカさんは?」

「あの人が絡んでるなら、痕跡があるはずだからって」

「あの人絡みやと、ミナカさんも手を抜けんからなぁ」


渋い顔をしたミナカが思い浮かんだ。

いつも飄々としているミナカだが、ことあの人が絡むと難しい顔が増える。

エリカは肩を小さく上げた。


「桜子もでしょ」

「しゃーないやろ」


ミナカにすれば組織の敵。

桜子にすれば、すみれの仇。

目の色が変わるのも許容範囲だろう。

ずんずんと先頭を進んでいたら、後ろから夏音のこっそりした声が聞こえた。


「あの、あの人って?」

「悪意の親玉」


エリカが答える前に桜子は答えた。振り返りはしない。

補足するようにエリカが口を開く。

夕暮れが近づき、少しずつ薄ぼんやりとした世界になる。

黄昏は人と人じゃないものの境界が曖昧になり、桜子は苦手だった。


「アタシたちは、消すの専門なんだけど……世の中には悪意を操って事件を起こす輩がいるわけ」

「悪意を、操る」


エリカが夏音に説明するのを背中で聞いていた。

あんな事件があっても人は変わらず通りを行き来している。

道端に花が供えられているのだけが、あの日との違いだ。


「すみれさんの事件も、ね」

「碌でもない輩っちゅうことや」


ちらりと見るだけ。手を合わせることはしない。

ここにのぞみはもういない。

悪意も欠片もない。エリカが動く必要もなさそうだ。

ぐるりと周りを一周見回す。


「どう、何か分かる?」

「せっかちやなぁ。悪意はないみないやで」


エリカの問は置いておいて、桜子は夏音に尋ねた。


「あの日、うちらがいたのはこの辺やった?」


十字路に近い歩道の上を桜子は指で指す。

夏音は頷き桜子の隣に立った。


「うん、たぶん、そうだね」

「ちょっと目印代わりに立っといて」


夏音をそのままに、桜子は周囲を詳しく見始める。

道路の模様、花壇のレンガ、自販機やビルの壁面。

悪意を操るには、直接見える場所から操るか、何かを媒介させる必要がある。

もし、あの時、操作している人間がいたらーー確実に見える。


「エリカも働きや」

「わかってるわよ。でも、苦手なのよね」


ウロウロと後ろをついてきているエリカに軽く言う。

すると見る見るエリカの顔は、への字口になった。

エリカの周りにいつもいる男共にこの子供っぽさを見せてあげたいくらいだ。

桜子とは違う場所を探し始めた背中を見やる。覚束ない手付きだったが、動かしていた。


「何を探してるの?」


夏音は言われた通りの場所から動かず、けれど視線だけは興味深そうに動かしていた。

問いかけられた桜子は見ることを止めないまま答える。


「悪意を増幅させる、操るには支点がいるんや」


遠隔で悪意を操作するのは難しい。

そんなことができるのなら、こっちだって使いたいくらいだ。

大体は場所にある悪意を無差別に大きくする。そのために使われるのは、マークだったり、呪符だったりする。

桜子は手を止めた。土に隠れるくらいの高さに羽根と髑髏がチョークのようなもので書いてある。


「今回は場所みたいやな」

「なにこれ」

「これが、あいつらのマークや」


これで関与は確定。

だが、桜子にとってはここからが本番だった。

エリカが土をキレイに外に寄せてくれる。


「桜子」

「わかっとる」


グーパーと何度か手を動かし、深呼吸した。

見えるのは、もはや諦めている。

生まれてこの方そういうものだったから。

だけれど、触るという行為は避けようと思えば避けられた。触ってまで見たいものもなかった。


「桜子ちゃん?」

「……よろしくな」

「ええ」


エリカに背中を任せる。

何も見えませんように。

そう願いながら、マークに手を伸ばす。

レンガの感触が指に伝わると同時に視界に火花が散った。


『はぁーい、小羊ちゃんたち。このメッセージはなるべく早くミナカに届けてね』


どっと流れ込んできたのは、若い女の声。

あんな事件を起こした割に声は明るく、今にも笑い出しそうだった。

止めることもできず、流し込まれる。

好き放題喋って、女の声は消えていった。


「桜子ちゃん?!」

「おーい、桜子ー?」


目を開ければ、最初に見えたのは夏音の泣きそうな顔。

エリカは、と見れば、体を支えてくれていたらしい。

すぐ近くに顔があり、思わず手で押しのける。


「もう少し優しくして欲しいわね」

「侍らせてる男共にお願いしぃ」


立ち上がると貧血のように、フラリとした。

夏音が肩を支えてくれる。小さくお礼を言って、額に手を当てた。


「ああ、もう……最悪や」

「大丈夫?」


夏音は心配そうに桜子を見た。

エリカは腕を組むと面白そうに口端を上げる。

まったく、少しは心配して欲しい。

これだから仕事狂いは困ってしまう。


「当りだった?」

「当たりも、大当たりやな」


待ちきれない様子のエリカに、桜子は頭痛を抑えるように額を指で突く。

嫌な予感が当たったことで、やることが山積みになってしまった。

まず、すべきことと考えて。


『なるべく、早く、ミナカに届けてね』


女の声がリフレインした。

深く深くため息を吐く。

結局はそうなる。


「ミナカさんのところに、いかな」


桜子は自分の指先を見つめながら、こぼした。

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