第7話


秋の夜長は散策に向いている。

店を出れば少しだけ寒さを含んだ風が吹き抜けていく。

ビルの多い場所とはいえ、風が吹けばさわやかさを感じることができた。

ファミリーレストランではあったが、目的の甘いものを食べることができ、桜子はお腹を摩った。


「夜の甘いものは、格別だねぇ」


桜子の次に出てきた夏音が扉から手を離す。カランカランと鈴の音が高らかに鳴った。

日は暮れたとはいえ20時を少し回った時間帯。集団だったり二人だったり、人影は多かった。

小走りで近寄る足音を聞きながら、桜子は隣で伸びをする夏音をジト目で見つめる。


「いや、あんさん、フライドポテトも食べてたやん」


この時間帯にフライドポテトとパフェを食べるなど、女の子として言語道断。

禁忌の組み合わせだ。


「だって、甘いのばっかりだと、口の中がさぁ」


桜子からの指摘に、夏音は相好を崩す。誤魔化すように頭に手を当てた。

元々跳ねっかえりが多い茶色い髪がさらにあっちこっちに跳ねる。

街灯に反射してぼさぼさ感が増した。

まるで子供の様な誤魔化し方に、桜子も小さく噴き出す。

二人そろって笑う。

誰かと笑いあうのは、久しぶりの気が桜子にはした。


「そういえば」


夏音が何かを言い出す。

桜子が振り返った直後に、その声は聞こえてきた。


「えー、そうなんですかぁ」


甘ったるい声。

だが聞き覚えがある。

人間関係が限られる桜子にとって、聞いたことがある知らない人は多くの割合で大学の人間だった。

ぴたりと足を止めて、発生源を探す。


「この声」


道の少し先で、大通りと合流する。

そこは今、桜子たちがいる道の倍くらいはある通りで、おしゃれなブティックや買い物する場所も多くある。

美容室やエステなどもあり、女の子が何かをねだるにはピッタリの場所だ。

その通りの角、上層階を工事の足場で囲まれたビルの下に、のぞみと見知らぬ男性が立っている。


「ありゃ、のぞみちゃんだね」

「さっぱり、変わっとらんやん」


男性はスーツ姿。のぞみは大学にいるときより煌びやかな格好だ。

わかりやすいパパ活現場に桜子は眉をひそめた。

夏音も桜子の見る方へと視線を向け、苦笑いを浮かべながら、首を小さく動かす。

「んー」と声を漏らしながら、首を傾げる姿から、何となく知っていたのだろう。


(あんなに怖がってるのに、止めれないなんて、人って不思議な生き物やな)


はぁとため息を吐き出す。

甘さに幸せを感じていた雰囲気が台無しだ。

夏音が桜子の視線を遮るように前に立つ。のぞみたちが見えなくなったことで、不快感が少し薄れた。


「どうするの?」

「行きましょ。うちはちゃんと伝えましたから」


くるりと背を向けた。

あれほど悪意が大きくなると、見ないようにするのは難しい。

見たくないならば視界自体を遮るか、別の方向に行くか。

桜子は180度反対側の道に進もうとする。


「ちょっと、あなた誰よ!」


声に険が乗っている。

見るまでもなく伝わってくる感情に、桜子はしゃがみこみたくなった。

面倒事の匂いしかしない。

後ろを振り返るのをためらっていると、夏音が体を半身にして後ろを見ていた。

夏音の手が肩に置かれ、力が入るのを感じる。


「え、わたしは」


震える声が桜子の耳に届く。顔だけを後ろに向ける。

夏音と自分の肩の間から見るのぞみの姿はとても小さく見えた。

のぞみ、スーツ姿の男以外に、40代くらいの女性が立っていた。

肩はいきり立ち、眉は遠目からでもわかるほど吊り上がっている。


「うわ、修羅場」


誰ともなしに響いた声に息をのむ。

怒りと戸惑いの感情がどんどん行きかう。

赤や青の色が混ざり合い、どす黒く染まっていく。

のぞみの傍を囲んでいた悪意がどんどん増幅する。


「マズいで」


頬を冷や汗が伝っていく。

桜子が見ている間にも、のぞみを囲む黒いモヤは大きくなり徐々に姿を隠し始める。

目を離したいのに、離せない。

桜子は口元に手を当てた。


「大丈夫?」


夏音の手が桜子の背中を撫でる。

ゆったりとした動き。何よりーー桜子は夏音を見上げた。

夏音の周りには何も見えない。ただの世界が広がっている。

色のついたモヤのない世界で、桜子は大きく深呼吸した。

少しだけ気持ちが楽になる。


「どうなってるの?」


桜子はどうにか呼吸を整え、のぞみの方を見る。

辛うじて見えていたはずの上半身も、もう見えなくなっていた。

こみ上げてくる胃酸を腹の中に押し戻す。

乾いた唇を湿らし、言葉をひり出す。


「悪意が、膨れ上がって……馬場さんが何も見えん」


なんで、どうして、なに、あの女。

どういうこと、裏切りーーしたい。死ねばいいのに。

天然受信機。

桜子をそう評したのはエリカだった。その言葉は、非常に的を得ている。

自分の能力をうまくコントロールできなかった頃は、こういった他人の思念が常に流し込まれる状態だった。

自分に他人が混ざる。それはとても気持ち悪いことなのだ。とくに子供にとっては。


「マズい?」


桜子の表情からそう聞いてきた夏音に、桜子は小さく頷くのが精いっぱいだった。

どうにか、ここから離れないと、自分も動けなくなる。

桜子がどうにか体を引こうとしたら、夏音はその反対へ走り出していた。


「大崎さん?!」

「だって、マズいなら助けなきゃ」


桜子の叫びに軽く答えながら、夏音がのぞみに近づく。

黒いモヤが夏音が進んだとおりに裂けていく。

桜子は目を見開いた。


「弾いてはる……っ?」


あの量でも、夏音には関係ないのか。

まるで見えないバリアに守られているように、悪意が夏音を避けていく。

そして、のぞみがいた場所にすんなりたどり着く。

そこだけ窓が開いているようにのぞみの顔が見えた。


「のぞみちゃん、動ける?!」

「あ、あ」


蒼白。もはや血が通ってないんじゃないだろうか。

涼しくなったとはいえ、血の気を失うには早い気温だ。

白い顔に、白い手。肩を抱く手ごとガタガタと震えている。

不用意に夏音がのぞみに触れようとして、桜子はやっと追い付くことができた。


「大崎さんっ」

「桜子ちゃん、どうしたらいい?」


桜子が名前を呼べば、夏音は振り返る。

所々跳ねた髪の毛も、血色の良い肌も、ファミレスから出てきたときのまま。

違うのはのぞみを助けようと必死になっているところだけだった。


「いや、これは」


のぞみを見て、夏音を見る。

無理や。見た瞬間に桜子はそう思った。

ここまで悪意に取り込まれると、人は精神に異常を来す。

何より悪意の集積は、死を引き寄せる。

桜子は何も答えないまま夏音の腕をつかんだ。


「逃げるで!」

「でも、のぞみちゃんがっ」


ぎゅっと桜子が夏音を引っ張れば、夏音はのぞみを引っ張る。

だが、のぞみの足は地面に縛られているかのように動かなかった。

二人分の力が加わっていても、びくともしない。


「夏音はん!」

「えっ」


つい、名前で呼んでしまった。

驚いた夏音が桜子を振り返る。のぞみを掴んでいた手も緩んだ。

今だと桜子は夏音の手を力いっぱい引く。尻もちをつくように、二人で倒れ込んだ。

ふわりと夏音から金木犀の香りがした。

顔と顔の距離が近い。二人して固まったところで、ズドンという音とともに地響きがした。


「きゃっ」

「うわっ」


阿鼻叫喚。桜子の周りから大小さまざまな叫び声がした。

土煙に包まれた視界は、さっきの黒から一転して、白い。

あれだけあった黒いモヤがすべて消えていた。

悪意が消えるのは、感情が消えるとき。人から感情が消えるときはーー生きた人じゃなくなる時だ。


「のぞみちゃん」


乾いた声だった。

夏音を見上げれば瞬き一つせず、のぞみがいたはずの場所を見つめている。

少しずつ土煙が収まり始め、地面の灰色と鉄骨の鈍い色、その間から見える赤が面積を広げ始める。

鉄の匂い。血だ。


「鉄筋が落ちたぞー!」

「人が潰された」

「誰か、救急車!」


夏音が一言もしゃべらないのに、周りは目まぐるしく変わっていく。

よろめきながら立ち上がった夏音が、のぞみだったものに手を伸ばそうとする。

動けない。固まっていた桜子の前で、夏音の体が崩れ落ちた。


「大崎さんっ」


慌てて、地面にぶつからないように抱き留める。頭を抱えるようにして、地面に逆戻りだ。

どうにか頭をぶつことだけは防げた。

ふーっと大きく息を吐く。


「なんてことや」


悪意は溜まりすぎると暴走する。そして、とんでもない事故を起こす。

ここにいるのがすみれだったら、この事件を起こさずに済んだのかもしれない。

桜子は唇を噛んだ。

のぞみの側には、千切れたハーバリウムのキーホルダーが落ちていた。

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