第2話
パパ活という単語が出た瞬間に、のぞみは肩を跳ねさせた。
元々色白の顔がさらに白くなる。もはや死人のようだ。
その反応が何よりの証拠に感じられた。
あ、パパ活してるんだ。と、よく知らない夏音さえ思った。
「え? わ、わたし、パパ活なんてっ」
目を丸くして、顔を横にふる。ぶんぶんと音がしそうだった。
激しく動いているのぞみに対して、桜子は腕を組んだまま、じっと見ているだけだ。
わずかに顔が傾けられたことで、艷やかな黒髪が緩やかに肩を滑っていく。
ふーっと細く吐き出されたため息に、のぞみは動きを止めた。
「してないなら、それでええ。神社でもお参りしとれば治るで」
「わかりました! ありがとうございますっ」
桜子の口調は子供に言い聞かせるようだった。
のぞみは桜子の言葉に大きく返事をすると、勢いよく頭を下げ、そのまま扉へ突進した。
付き添いの夏音が反応する暇もないスピード。伸ばした手は空しく、空を切る。
「え、ちょ」
呆然とのぞみが出ていった扉が閉まるのを見ていた。
カチャンと音がして、再起動。夏音はもう一度部屋の中を見回す。
桜子はのぞみに対峙していたときと同じ腕を組んだまままだ。
片手を頬に当てると、今度は隠すことなくため息を吐き出した。
「逃げたな」
「そうだね……びっくり」
桜子の言葉に夏音は頷いた。
のぞみの付き添いのはずが、ひとり残されることになるとは。
夏音は「たはは」と乾いた笑い声を漏らす。
ちらりと桜子が視線で扉の方を指した。
「追いかけなくていいん?」
「付き添いだし、なんて言っていいか分かんないし……いいや」
パパ活してるなんてひどい、とも。
パパ活なんて辞めなよ、とも。
夏音はのぞみに言うことができない。
そう言えないくらいの情報しか夏音は持っていなかったからだ。
桜子の言葉に夏音は「んーん」と首を振りながら答えた。
「はぁ、面倒見がええんか、悪いんか。ようわからんなぁ」
桜子は夏音の反応に目を細めた後、あまり使われてなさそうな机の椅子を引き座った。
上品なイメージが少し砕けてざっくばらんになる。
肘を机の上に乗せ、左の手のひらで顎を支えている。
「うちはホシミサクラコ。星を見る、桜の子、な。2年生やから、テキトーに話して」
ヒラヒラと右手を舞わせる。一つ一つの仕草がキレイで、夏音はうっとりと見てしまう。
ホシミさんの名前が星見さんに変換される。
星見、桜子。
夏音は口の中で音を転がした。
「綺麗な名前だね」
「占い師にピッタリやろ?」
「確かに」
口角を上げて、皮肉半分の笑み。
それさえ桜子には似合っていた。夏音は頷きながら桜子の前にある椅子を引き座る。
のぞみは逃げてしまったが、興味の種は眼の前にいるし、時間もまだある。
面白い人は好きだ。
どこまで応えてくれるかは、わからないけれど。
「私は大崎夏音。夏の音って書いて、夏音(かのん)だよ」
夏音も自分の名前が分かりにくい自覚はあった。
指で字を表すように空に描く。
桜子はその間ずっと夏音の身振りを見ていた。
顎を支えていた左手を外し、桜子は夏音を正面から見つめる。
まるで瞳の中まで覗き込まれた気分になって、夏音は生唾を飲み込んだ。
「大崎さんな。早速やけど、あんた人間か?」
桜子の前で、ぽかんと口を開けるのは、これで2回目だ。
人としての存在を疑われ、流石に夏音も答えに困った。
※
けったいな奴やな。
桜子が夏音を見た感想はそれに尽きる。
のぞみの付き添いで来たようだが、桜子にすれば夏音の方が注目に値する。
桜子は夏音を見ながら目を細める。
彼女の周囲に見えるものはない。モヤも吹き出しも何もかも。
ただこの世界だけが見えるのは、桜子にとって異常なことだった。
呆気に取られた顔をした夏音が口を引き結ぶ。
「人間だけど……どういう意味?」
中々、度胸が座っている。
身に纏うのはよく見るファストファッションのシャツにパンツ。しかもよほど草臥れている。
この学校の女子学生にしては珍しい。
髪は茶色いが染めたというより、元々栗毛なのではないだろうか。
耳の少し下で切りそろえられたボブが小刻みに揺れている。
「うち、人の感情が見えるんよ」
桜子にとっての事実は、大抵の人にとって嘲笑の対象だ。
これを言うと怪訝な顔をされるのが8割、最初から笑われるのが残りだった。
しかし、夏音はそのどれにも当てはまらないようだ。
「へぇ」
それだけ。
夏音は驚いた顔はしたが、頷きひとつでそれを収めてみせた。
むしろ、ぱっちりとした二重に縁取られた瞳に興味の色が湧いていた。
やり辛い。
桜子は少しだけ身体を引いた。
「さっきの馬場さんは、そこら中にパパ活のせいかな?って浮いとったし、悪意は集めとるし」
のぞみの周りに見えたのは、悪意。
悪意を集めやすい人間は確かにいる。
体質なのか、人から悪意を買うようなことをしているのか。
普通ならば、判断は難しい。
だが桜子にはのぞみの心当たりがはっきりと見えていた。
「自業自得の人間にアドバイスなんてないやん?」
悪意を集めたくなければ、悪意を買うようなことをしなければ良い。
実害が出ているなら特に。
そのくせ困っいるなどとアドバイスを貰いに来るのだ。
桜子はそういう人間が苦手だった。
「桜子ちゃん、厳しい」
「そう?」
苦笑いを浮かべる夏音に桜子は肩を竦めてみせる。
「だけど、それと私が人間じゃないって、どう繋がるの?」
苦笑いが消えれば、真面目な顔が待っていた。
政治学部と言っただろうか。
可愛らしい顔とは反対に、議論好きな質らしい。
「人だったら、見える。やけど、大崎さんは見えない。今まで見えなかったのは……人以外や」
人だと問答無用で見える。動物は少しも見えない。
無機物も見えないのだが、人の念がこもっているようなものは別だ。
見えなくても伝わってくる。これが一番桜子は嫌いだった。
その時の気分を思い出して、少し眉間に皺が寄ってしまう。
「なるほどねぇ。話として筋は通ってるね」
「うんうん」と夏音は頷いた。
少し視線をそらし考えたかと思えば、すぐに顔を上げこちらを見てくる。
「人以外って、例えば?」
直球の質問に桜子は少し戸惑った。
ここまですんなりと話が進んだことがなかったからだ。
桜子はどう表現したら良いか考えてから口を開く。
「……幽霊とか、人を辞めた人間やな」
幽霊は恐らく存在自体が感情なのだ。残っている強い念が、たまに見える人間に見えるだけ。
良い悪いもない。
問題は後者だった。
「だから、私を見た時だけ驚いたの?」
夏音の言葉に桜子は顔をしかめた。
出していないつもりだったのだが、夏音にはバレていたようだ。
ぼんやりしているようで、細かいところを見ている。
桜子は額に手を当てた。
「バレとったん?」
「桜子ちゃん、わかりやすいもん」
夏音は口角を持ち上げた。
桜子は自分の両頬をぐにぐにと揉んだ。
分かりやすいとは、初めて言われた。
「ちなみに、のぞみちゃんがパパ活辞めなかったら、どうなるの?」
夏音の言葉に桜子は天井を見上げた。
とんとんと頬を指で叩く。
辞めなかったらーーどう考えても良い結果にはならないだろう。
「実害が出始めてるんなら、エスカレートするやろな。ほんまに事故にあってもおかしくないで」
「それはやだなぁ」
夏音が眉尻を下げた。
情けない顔。不思議と似合っている気がした。
夏音はスマートフォンをチェックする。
「あ」と声を上げ立ち上がる。椅子が床を引っ掻いた 音が響く。
「また何かあったら相談しに来るよ。そだ、連絡先、交換しよ」
バタバタと荷物をまとめる夏音。
こんな話されても動じていない。
また会いに来る宣言に、桜子はスマートフォンを出すことで応えた。
「けったいな奴」
第2資料室の扉が閉まるのを、桜子は見送った。
机の上に出しっぱなしにしているスマートフォンには、夏音の名前が表示されていた。
可愛らしいペンギンのアイコン。
間抜け具合がそっくりに見える。
「連絡せんといけんなぁ」
トントンと机を指で叩いてから、桜子は呟いた。
桜子の能力が効かない人間がいる。
それは報告対象だった。
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