ワイルドな食事(わたしは食べないで下さい)

「たいっへん申し訳ありません! どのようにお詫びしてよいやら、言葉もありませんっ……」


 川に着くまでにもう二回リバースしたわたしは二重の意味で顔が青くなっていた。

 虎さんは嘔吐する迷惑物体を抱え直し、汚れるのは虎さんだけにしてくれた。

 冷たい水で口をすすぎ、ついでに剥げたメイクも落としたわたしは、無言で汚れた軍服を脱いで川に飛び込み、自身の毛皮と軍服を洗う虎さんに川岸から平謝りしていた。


 川から上がった虎さんはブルルッと全身を震わせ水気を飛ばすと、絞った服をぽいっと川原に投げて森へ歩きだした。

 慌てて追いかけようと立ち上がったら眩暈がしてへなへなと膝が折れる。

 虎さんからついて来るなと掌を向けられた。


「□○……××△○」

「お怒りでしょうか? 恩知らずな真似をしてしまい、本当にごめんなさい……」

「○□? □×△……」


 首を傾げ、虎さんは森に消えてしまった。

 わたしは濡れた服の横でしゃがみこむ。

 独りになると、森のざわめきが心細さをかき立てた。

 静寂よりもざわざわと葉擦れの音や鳥の鳴き声が怖い。パキリと草むらで音がすると飛び上がりそうに驚いた。


 虎さん、早く帰って来てくれないかな……。

 何となく、上着を置いて行ったのは虎さんの気遣いだと思った。わたしを不安がらせないように、戻ってくるという意味で上着を残したんだろう。

 虎さんのあの外見が着ぐるみじゃないことは運ばれる途中で信じざるをえなくなった。躍動する筋肉を覆う被毛が作りものの綿にはどうしても見えない。


 冷たい上着はごわごわとした分厚い生地で重かった。濡れているせいだけじゃなく、何かポケットに入っているらしい。

 胸の紋章は虎さんの所属部隊を表すのか、翼のある生き物だけれどモデルになった動物が謎だ。四足で鉤爪があって空を飛ぶ動物みたいだけど。


「……酔いは醒めたんですけど、この夢はいつまで続くんでしょうか」


 見たことのない景色。

 現実とも思えない存在――夢だ。

 抱えた軍服はズシリと重く冷たく、風は水辺の湿り気があり、戯れにちぎった雑草は青臭い。いやにリアルな五感。嘔吐の苦しさは記憶に生々しいし、空っぽになった胃は現金に空腹を主張し始めている。

 ――夢のはず、だ。


「夢じゃなかったり、して……?」


 冗談ぽく言ったつもりの声が震えてしまった。

 ドッキリでも夢でもない、ここが異世界だなんて……嘘でしょう?

 ひとりでいると余計なことに思考が飛ぶ。

 考えるな、考えるな、一晩たてば夢は覚める。朝になればおかしな夢を見たと笑えばいい。


 ガサガサと草むらをかきわけ、両手いっぱいに木の枝を抱えた虎さんが帰ってきた。


「おかえりなさいっ!」


 駆け寄るわたしを一瞥し、虎さんは黙々と薪を組み始めた。

 すっと手を出されて訳がわからず、腕の中から上着を取られて抱えっぱなしだったことを思い出した。

 軍服の胸ポケットから石を取り出した虎さん。火打ち石かな、と興味深く見ていたら、一度打ち合わされた石からボッと青い炎が上がった。


 ……火花散らなかったですよ?

 青い炎を纏わせた石の表面に金色の紋様が浮かんでますが、それが魔法陣っぽく見えるのはなんかこう、マッチ売りの少女的な幻覚ですよね?

 薪に移された炎は青から見慣れた赤へ変わった。

 黒猫をつかまえてデッキブラシにまたがったのは小学校に通う前です。

 もう魔女が住むのはDVDの中だけなのをしっています。


「お、おしゃれなライターですね。新発売ですか? わたしもひとつほしいぐらいです」

「○□△」

「ガスが要らなさそうなのが流行りのエコですねー……」


 く、苦しいです……。

 虎さんの存在も魔法の火打ち石も、夢だと思いこみたいのに、思えない。

 けれど現実と認めることもまだできなかった。認めてしまったら、取り返しのつかない状況に置かれた自分を受け入れなくちゃならなくなる。

 視線を逸らすと、紅に灼ける太陽が山の端を舐めているのが見えた。

 すぐに夜がやって来る。

 勢いよく燃える焚火を残して、虎さんがまた森へ入って行った。

 わたしは焚火に近づき、徐々に風が冷たくなるのを肌で感じていた。




 火勢が弱まった頃、追加の薪と獲物を引っ下げた虎さんが凱旋した。

 ドカドカッと薪を放り込まれた焚火に慌ててふうふうと息を送っている間に、川下で兎に似た生き物の解体ショーが始まった。

 内臓が掻き出される光景や、生皮が剥がされる音というのは、お肉はスーパーで買うものと信じている人間にはなかなかに刺激的です……。


 しかし枝を串がわりに焚火で炙られるころには食欲が勝り、わたしはこんがり焼けた表面で肉汁と脂がジュウジュウ音をたてるの凝視していた。

 ナイフで切り取られたモモ肉を渡された時は、笑顔が輝いていたと自分でも思います。

 かぶりついたお肉は素材の味を味わうものでしたが、空腹という最高の調味料が骨までしゃぶらせてくれました。

 さすがの肉食獣は細かな骨などバキバキと噛み砕いて食べておられます。

 わーお、ワイルドー。


「あのう、こんなことお尋ねするのは失礼なんですが、わたしは持ち運び非常食じゃありませんよね? エサにしては好待遇だなぁ……なんてヘンゼルとグレーテルのお話が頭をよぎりましたが、わたしけっこう歳食っちゃってますし、おいしくないと思いますよ?」

「……□×?」

「いえ、それはあなたが食べてください」


 兎の頭部は食べにくそうなので遠慮します。

 虎さんの口元でガリバキッと原形をなくすのをぼんやり見ながら、どんな食べられ方でもいいけれどきっちり絞めてからお願いします、と願わずにいられなかった。

 脂を拭ったナイフを腰の鞘にしまい、虎さんが骨を集めて捨てに行った。川で獲物をさばいたのも、臭いを嗅ぎつけた他の獣が来ないようにだろう。

 とっぷりと日が落ちた暗闇で、熱と光源を求めてわたしは焚火ににじり寄った。

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