第11話 有馬記念

 ——何なんだ、これは??


 とりあえず落ち着いて状況を整理したいのだが、選曲されていない間に流れる場つなぎのような放送、他の部屋から届いてくる様々な歌声、そして目の前の女性が立てている寝息がミックスされて耳に入ってきて、考えをまとめさせてくれない。


「……あの、伊鷲見いずみさん?」


 とりあえず幾度目かの声掛けをしてみるが、彼女はまったく覚醒しそうな様子を見せない。


 ——どうすればいいんだ?


 ここ数年は開催されなかった会社の忘年会なるイベントが数年ぶりに、よりによって有馬記念の枠順が決まった大事な日に挙行されただけでも小さくない災厄だったのに、よもやこんな面倒くさいことになってしまうとは。やはり一次会終了時点で強引にでも離脱しておくべきだった。

 無理やり連れてこられた二次会のカラオケもようやくお開き近くという段でお手洗いに立ち、戻ってきたら、室内には眠れる美人上司一人で他には誰もいないという謎状況に、僕は当惑しきっていた。

 ため息をつき、誰かが注文しておきながら、手をつけられていない模様のフライドポテトを一つまみ口に運ぶ。


「どうしよう……」


 改めて伊鷲見さんの寝顔を見やる。どうやら酔いつぶれているようだが、普段と異なるのは纏められた髪から一房の後れ毛が顔にかかっていることと、眼鏡の向こう側の瞳が閉じられていることとぐらいで、端正な顔立ちはまったく崩れていない。

 すーすーと規則正しく立てている寝息が、普段の折り目正しいキャリアウーマン然とした様子とのギャップで可愛らしくさえ思える。

 ただ問題なのが、今日は珍しくスカート姿であり、低いソファにもたれて座っているという点である。一応店のひざ掛け毛布で肝心な……もとい、見えてはいけない部分は隠れているが、そこから伸びている長い脚がブラックライトになまめかしく照らされている。

 このシチュエーションを幸甚とする助平者も世の中にはいるのかもしれないが、この女性ひとの本性というか、会社で仕事をしている分にはお目にかかれないブッ飛んだ気性を知っている身としては、呑気に鼻の下を伸ばしてなどいられない。


「あの……」


 放置して帰ってしまうわけにもいかず、かといって起こすために身体に触れるだけでもこの方の場合、寝込みを襲おうとした狼藉者扱いされかねない。運搬するためにおぶったりするなど以ての外だ。


「起きてくださーい」


 やむなくデンモクで肩の辺りをつついてみる。よく考えたらこれはこれで失礼な行為かもしれないが。


「……ん」


 すぐに僕は自らの行動を後悔した。

 伊鷲見さんはなおも目を覚まさず、わずかな身じろぎをしたのみだったが、それによりひざ掛けがパサっと床に落ちたのだ。


「!!」


 反射的に走ってしまった目を慌てて逸らす。

 どうにか直視は免れたが、胸が早鐘を打って止まらない。四捨五入すれば三十という年齢にもなって情けない話である。


「…………」


 実際には一分と経っていないかもしれないが、自分としては精一杯の間をとって、伊鷲見さんの方へ目を向ける。わざと目の焦点をぼやけさせて、背景を見るような感じで。

 スカートらしき紺と太ももらしき白との感じから、見ようと思えば普通に中まで見えてしまいそうだ。

 そして、この状況で彼女が目を覚ましたとしたら、やはり僕が性犯罪者扱いされることは火を見るよりも明らかである。


 僕はなるべくそちらを見ぬようにしながら眠れる伊鷲見さんに近づき、足元の毛布を拾い、床に顔を向けたまま彼女の足の上にそれを掛けた。もちろん間違っても手など触れてしまわぬよう細心の注意をして。

 おそるおそる見てみると、うまく隠すべき箇所を隠すことができている。緊張のミッションを完遂した僕はホッと一息。だが。


「う……ん……」


 伊鷲見さんは鬱陶しそうにまた身じろぎして。


 パカッ

 パサッ


 確かにそんな効果音が聞こえた気がした。

 あろうことか伊鷲見さんは、その美しいおみ足を惜しげもなくご開帳なされたのだ。必然としてひざ掛け毛布は再び落下する。

 目を逸らしたり、塞いだりするのも馬鹿馬鹿しくなるほどの、問答無用の大股開きであらせられる。


 このとき僕に去来した思いは、興奮でもなければ先ほどまでのような不安や焦燥でもなく、一種の腹立ちだった。

 いい加減にしろ、もうやってられるか。どうして僕がこんなに気遣いをしなきゃならないんだ。


「……もう知らん」


 僕はおっぴろげ状態の伊鷲見さんを放置して、彼女と90度の位置になるようソファに腰掛けた。


「zzz……」

「…………」


 気遣いをやめてしまうと、むくむくと本能的な気持ちが湧いてきて、抑えられなくなってきた。

 社内で知らぬ者のいないエリート美女は、無防備に眠りこけている。他には誰もいない。


「…………」


 僕はポケットからスマートフォンをそっと取り出した。


「こうなったら楽しませてもらうか……」


 僕がそう呟き、指を動かした瞬間だった。

 伊鷲見さんがカッと目を見開いた。


「!?」


 ソファに座った態勢のまま、こちらへと足を向けて飛びかかってくる。


「うわっ!」


 彼女の白く長い両脚が、僕の首へと巻きついてくる。


「ハイ逮捕ー! 盗撮の現行犯! 囮作戦成功! ついに本性を現したわね! 色魔!」

「ち、違います! ただ僕は有馬記念の検討をしようと思って……ほら、画面見てください!」

「そんな言い訳通じるものですか! この歩く下半身!」

「か、下半身は普通歩くもの……むぐぐぐっ!!」


 強力なチョークスリーパーを喰らい、必死のタップも虚しく、僕は意識を失うまで締め上げられたのだった。


 × × ×


「……苦しい言い訳ね」


 必死に尽くした弁明は一蹴され、おまけにパンプスのかかとで物理的にも軽くひと蹴り喰らう。


「うっ」


 意識が戻った時にはがっちりと簀巻きにされ、床に転がされていた僕はかわすこともできずに足蹴にされる。

 二週連続の憂き目であるが、今回はむしろではなく伊鷲見さんの使っていたひざ掛け毛布でくるまれている分、幾ばくかマシなのかもしれないとか思ってしまう自分が情けない。


「誰がそんな話信じられるの? 有馬記念とやらは日曜日なんでしょ? まだ木曜日だというのに予想なんて始める人いるわけないじゃない。当たる可能性が上がるわけでもあるまいし、人生に与えられた限りある時間の無駄遣いに他ならないわ」


 流れるように全競馬民をピキらせる台詞を吐きつつ、伊鷲見さんは僕を軽蔑の眼差しで見下ろしてくる。


「それにしても、襲ってくるのではなく盗撮しようとするとは恐れ入ったわ。てっきり『デシシシシ、いっただっきま〜す』とか言って空中で下着を脱ぎながら飛び掛かってくるものと思っていたのだけど」

「いや、どっちもしませんって」


 数年前に、別の女性ひと相手にそんな行動をとりかけた経験があることは胸に秘めておく。


「おかげで、バネの先にボクシンググローブの付いた装置が無駄になってしまったわ」

「そんなの用意してたんですか……」


 ——話によると、先刻からの謎状況は、相変わらず僕を色情狂か何かだと思い込んでいる伊鷲見さんが仕立てたものだという。

 僕がトイレに立った隙に無理やり二次会をお開きにして皆を帰らせたのだというのだが、一体どう説明したのだろうか。


「お酒が入れば本性を現すに違いないとは思っていたけど、寝たフリしてちょっと色っぽい仕草をしただけでこうもあっさり引っ掛かってくれるとはね。呆れた男」

「ちょっと色っぽい仕草というか、ガッツリ見えてましたけど……」

「残念ながら、あれは見せパンよ」

「見せパン……」

「そう。でもありがたく思いなさい。せっかくの見せパンだから、高級ランジェリーショップに行って、一番人気のセクシーかつフリルが可愛いデザインのやつを選んだのよ」

「そういうのは見せパンと言わない気がしますが……」


 などとやりとりしつつ、どうにか誤解を解くべく懸命に言葉を尽くしたところ——


「……そこまでいうなら、その有馬記念で的中したらやましい気持ちはなかったと信用してあげるわ!」


 畢竟ひっきょう、そういう展開になるのであった。


「そういえば一次会のときに眼鏡の男が言っていたのを小耳に挟んだのだけど、今年は混戦で難しいそうね」

「はい。イ……絶対的に強かった馬がここ使わずに引退してしまって、群雄割拠状態というか」


 寸前にイクイノックスという馬名はこの人には危険だと気づき、言葉を変える。


「群雄割拠? 一応確認しておくけど、それって乱行パーティーのことを示す隠語ではないわよね?」

「違いますが」


 ダメだこの人。

 僕は真顔で答えると、これ以降の気遣いを放棄することにした。


「個人的にはドウデュースに勝ってほしいんですけど……」

「今晩どうでーす? って私のこと誘ってるの!? お酒の勢いで抱かれる安い女だと思わないでほしいわ!」

「……」


「ダービー馬でいえば、シャフリヤールも決して軽視でき……」

「シャブッテヤール? どういうこと!? あなた二刀流バイだったの? それとも私を両性具有ふたなりだと思っている!?」

「…………」


「逃げるのはアイアンバローズの方かなって……」

「『アンアン』『バーロー』って、蘭とコナンがイタシてるときの声じゃない! そんな薄い本は発禁よ!!」

「…………」


「あとスルーセブンシーズも……」

「スルゼシックスナイン!? 何の宣言よ!!」

「いや、違う数字に聞き間違えるのはおかしいだろ!」


 あまりの逸脱ぶりについ声が出てしまう。

 耳というより脳に問題があるんじゃなかろうかこの人。


 もうさっさと本命馬を決めて今日は帰ろう。

 そう思い、口を開きかけた時だった。


 コンコンコン


 扉をノックする音。

 伊鷲見さんはドアの方に怪訝な顔を向け、僕も簀巻きのままなので首だけそちらに向ける。

 特に何も注文はしていないし、飲食品をサーヴする店員さん以外でカラオケボックスのドアをノックする人は普通いない。


 コッココココココ、コンコン


 今度は笑点のオープニングのリズムでノックの音。


「誰?」


 伊鷲見さんが鋭く呼びかけると、少しの間があり、ガチャッとドアレバーを下ろす音。

 ゆっくりとドアが開き、その人が姿を現した。


(つづく)



 ◆有馬記念

 僕の本命 スターズオンアース

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